眼窩は青いかなしみで埋めて

 すべて、悪い夢だと思っていた。
 外の凍てつく寒さから守られた寝室で目を覚ませば、いつものように愛する人が横で寝ているか、あるいは既に起きていて、己の髪を撫でている。そんな当たり前の日常が、当たり前のように続いていく。
 アトリは当たり前のようにそう思っていたし、たとえ戦争で命を落とすとしても、それはドラゴン族を相手にした時だと思っていた。竜詩戦争を終わらせるために、冒険者も、エスティニアンも、アルフィノも、そしてイゼルも力を合わせていた。皇都イシュガルドに舞い戻ったイゼルが「戦争は終わった」と訴えた時、アトリはもう誰もドラゴン族に殺される事はないのだと、心のどこかで安心していた。
 否、油断していた。
 この国の真実を認めない者も多くいる事は、アトリとて分かっていたはずであった。権力を持つ者は尚更そうだ。教皇に立ち向かったアイメリクの勇敢さは、誰もが持ち合わせているものではないし、その行いは間違いなく正しかった。ルキアもヒルダも手を取り合い、貴族も平民もなくなった今、この国は正しい形へ変わるはずだった。
 己たちの行いは、何も間違っていない。
 だが、甘かったのだ。
 相手が異形の力を持っている事など知るわけがなかったし、アルフィノの回復魔法を以てしても治せない傷などないと思っていた。
 万が一命を落とすとしたら弱い己だと、アトリはそう思っていた。

 オルシュファンは、こんなところで命を落とすべき人ではない。
 そんな事があってはならない。あるわけがない。
 アトリだけではなく、誰もがそう思っていた。

 こんな悪い夢など、早く覚めてしまえば良いのに。
 アトリは何度もそう願ったが、屋敷で泣き腫らすフォルタン伯爵やエマネランたちの姿は、恐ろしいほど現実に見えた。
 なによりも、アトリの傍にはずっと冒険者がついていた。アトリの支えになるためか、または責任を感じて傍にいるのか。どちらにせよ、言葉を交わさずとも伝わる重苦しい空気は、これは紛れもない現実なのだとアトリに訴えかけているようでもあった。



 アトリが我に返ると、いつの間にかフォルタン伯爵邸の外にいた。冒険者が手を引いて連れ出してくれたらしい。
 誰も悪くない。けれど、あの屋敷にいると己の心が苛まれ続けるような気がして、アトリは意図はどうあれ冒険者の行いに感謝していた。
 あの場所にずっと居れば、ふとした瞬間に箍が外れて、辺り構わず暴言を吐いていたに違いないからだ。
 こうなる前に、どうしてオルシュファンに良くしてやれなかったのか。どうして家族の一員として迎え入れなかったのか。どうして血が繋がっているはずの彼が、親兄弟に対して他人行儀な対応を強いられなければなかったのか。

「アトリさん……」

 弱々しく呟く声に、アトリはこの場にいるのは冒険者だけではないと漸く気付いた。目の前ではタタルが泣き腫らした顔で己を見上げていて、その後ろではアルフィノが俯いている。まるで、オルシュファンを救えなかった自分を責めているかのように。

 タタルは何も気にしなくて良い。暁の血盟の皆を探すために、また明日から一緒に頑張ろう。

 そう言いたいのに、アトリは言葉を紡ぐ事が出来ずにいた。
 まだ、この悪夢を現実だと認めたくはなかったし、口を開いて声を出せば、今この瞬間は紛れもない現実なのだと認識せざるを得なくなるからだ。

「――アトリ」

 ここにいる誰の者でもない声が聞こえ、アトリは顔を上げた。
 はじめて会った時が、もう随分と昔のことに思える。
 オルシュファンの幼馴染で、大切な友人だった男がそこにいた。

「フランセル殿……」

 アルフィノが辛うじて男の名を呟いたが、それ以上の言葉が出て来なかった。オルシュファンの死をきっかけに再会するのではなく、ごく普通に顔を合わせる事が出来ればどんなに良かったか。そう思っているのは、誰もが同じであった。
 沈黙が訪れる中、フランセルが真っ先に話を切り出した。

「アトリは僕に任せて欲しい。君たちは、オルシュファンの仇を討ちに行くのだろう?」

 その言葉に、冒険者とアルフィノは目を見開いた。後者については、無論そのつもりでいるし、魔大陸へと逃亡した教皇たちを野放しにするわけがない。それこそ、アルフィノはこれから神殿騎士団本部に向かい、アイメリクから情報を得るつもりでいた。
 ただ、冒険者だけはアトリを放ってはおけず、彼女を己たちの旅に同行させようと考えていた。
 あの屋敷に残るのは、アトリは絶対に嫌がると分かっていたし、オルシュファンの居ないキャンプ・ドラゴンヘッドに戻るのは、それこそ耐えられない事だろう。ロロリトの元へ帰すのがアトリにとって一番心が休まるとは思うが、今の彼女がイシュガルドを離れる事を受け容れるとも思えなかった。

 それだけに、フランセルの申し出は冒険者にとっては有り難い事であった。旅に同行させるのは自身のエゴに過ぎず、今のアトリは戦える状態ではない事は、一目瞭然であるからだ。

 冒険者は繋いでいた手を放せば、アトリと視線を合わせた。
 冒険者の表情は、今まで見た事もないほど暗く、まるで覚悟を決めたかのようにアトリには見えた。
 そして、冒険者は告げた。なんとしても奴らを追い、絶対に仇を取ると。
 アトリは無言で頷けば、冒険者の手を取り、弱々しく握った。真意を汲み取る事は冒険者には出来なかったが、その手を名残惜しそうに離し、深々と頭を下げるアトリに、立ち止まるわけにはいかないと心の中で自らに言い聞かせた。

「私は引き続きここで『暁』の情報を集めながら、ガーロンド・アイアンワークスの皆さんとも連携していくでっす」

 タタルは気丈に胸を張って皆にそう告げれば、再びアトリを見遣って言った。

「アトリさん、私たちはもう友達だと思ってまっす。また一緒にお茶したり、色んな話をしたいでっす。……約束でっすよ?」

 アトリは思わずしゃがみ込んでタタルをきつく抱きしめれば、無言で頷いた。
 それを肯定と捉え、タタルはアトリの背中に手を回し、抱き返した。微かに震えているのが分かり、これ以上引き留めてはならないと、どちらともなく手を解いた。

「では、行って来るよ。……アトリ、私たちは絶対にこのままでは終わらせない。こんな事など、あってはならないのだから……」

 アルフィノは固く拳を握ってそう告げれば、冒険者とともにこの場を後にした。タタルもふたりを見送った後フォルタン伯爵邸へと戻り、フランセルとアトリだけが残された。
 静かな夜の街に、しんしんと雪が降り積もる。
 すっかり慣れたはずなのに、今のアトリにとっては、無力な己を戒めるように何もかもが冷たく感じていた。
 そんな時、フランセルの手がアトリの肩に触れた。

「帰ろう、アトリ」

 まさか、主のいないあの場所へ帰れというのかと、アトリが表情を強張らせたものの、フランセルはすぐに修正した。

「帰る、というのは語弊があるね。アートボルグ砦群――僕たちがはじめて会った場所だよ」

 道に迷ったアトリがはじめてクルザスの地に足を踏み入れ、気を失ったあと、目覚めたのがフランセルが管理しているアートボルグ砦群であった。たまたまアトリを見つけたオルシュファンが、キャンプ・ドラゴンヘッドよりも近くにあるフランセルの元へ運び、介抱を頼んだのだ。
 本当に、随分遠い昔のことに思える。
 一気に当時の事が思い起こされて、アトリは思わずその場で声を上げて泣いてしまった。
 フランセルは何も言わず、ただただアトリを抱き締めて、慰めるように背中を撫でた。まるで、そうする事で大切な友人を喪った自身の傷を癒すかのように。





「オルシュファンからよく相談を受けていたんだ。君が下層を気に掛けている事、式を先延ばしにすべきか悩んでいる事……」

 フランセルが連れて来てくれたアートボルグ砦群は、アトリがクルザスではじめて目を覚ました五年前と、何も変わっていなかった。いっそ時が巻き戻ってくれたら良いのに――そんな叶いもしない願いを抱いてしまうほどに。

「全部、つい最近の事なんだ。ドラゴン族との戦争さえ終われば、自分たちの結婚には何の障害もなくなる……そう言っていた事も」

 フランセルと共に足を踏み入れた室内は、アトリがはじめて目覚めた時と変わらず、あたたかく迎えてくれる空気を纏っていた。
 あの時、フランセルとラニエットが自分を介抱してくれて、オルシュファンに会いに行くまで面倒を見てくれた事を、アトリはずっと覚えていた。排他的なこの土地で、優しい人たちに助けられなければ、アトリは間違いなく命を落としていた。

 自分は何度も助けられてきたのに。
 どうして、オルシュファンが死ななければならなかったのか。
 自分が正義感を振りかざして、暁の血盟やルキアたちと一緒に教皇庁に行かず、オルシュファンにもこの戦いには手を貸さないよう訴えれば良かったのか。
 けれど、オルシュファンはきっと、アトリに止められても冒険者に力を貸す事を選んだだろうし、そして、あの場で冒険者を庇って命を落としただろう。
 どうすれば、こんな悲劇が起こらずに済んだのか。考えたところでオルシュファンが生き返るわけではないのに、それでもアトリは思考を止める事が出来なかった。

 黙り込むアトリに、フランセルは力なく呟いた。

「……ごめん。君をここに連れて来たのは、僕ひとりでは耐えられそうになかったからなんだ。アトリの事は任せろと、皆に言っておきながら……」

 その言葉を、アトリは自分でも驚くほどすんなりと受け容れていた。
 この悲しみを、ひとりで抱えるのは耐え難い。
 その気持ちは、痛いほどよく分かるからだ。

 辛いのは、自分ひとりだけではない。フランセルも、冒険者も、アルフィノも、そして、フォルタン家の人々も。
 アトリはフランセルの手を取り、漸く顔を上げて彼と目を合わせた。
 その双眸も頬も涙で濡れて、いつもの優しい笑顔はない。

「……フランセル様、私も同じ気持ちです。それに、ここに連れて来てくださった事を心から感謝しています。あの場に留まる事も、キャンプ・ドラゴンヘッドに帰る事も、今の私には耐えられません」

 アトリはそう言って首を横に振れば、言うべきか暫し躊躇った後、静かに呟いた。

「それに、フォルタン家の屋敷に、私の居場所はありませんから」

 そんな事はない、と返すのが普通なのだろう。
 だが、フランセルもアトリが何を言わんとしているのか、痛いほど分かっていた。
 フォルタン伯爵の実子とは見做されず、お前は所詮道端の石に過ぎぬと与えられたグレイストーンの姓。本来ならば、フォルタン家の貴族として生きる事が出来たはずの彼は、義母に受け入れられる事は最後までなかった。
 だが、そんな環境でも、オルシュファンは逞しく育ち、努力の果てに騎士の称号を得るに至った。決して胡坐を掻いたわけでもなく、自らの実力で地位を得たのだ。

 仮に今のフォルタン家がアトリを家族の一員として受け入れると言おうとも、何もかもがもう遅いのだ。
 オルシュファンが命を落とした、今となっては、何もかもが。

「……アトリ、暫くここで過ごすといいよ。今後の事は、ゆっくり考えていけばいい。オルシュファンから聞いていた限り、君の雇い主も、決して悪いようにはしないはずだ」

 アトリは頷いて、フランセルの好意に甘える事にした。皇都にも、キャンプ・ドラゴンヘッドにも、今はもう戻るのが恐かった。

 オルシュファンがいない現実を受け入れたくない。
 ここにいれば、五年前の何も知らない自分でいられる。
 ただの現実逃避だと分かっているのに、冒険者たちは仇を討つために前に進んでいるのに、今のアトリにはそれが出来なかった。

「……そういえば、僕とオルシュファンがはじめて出会った時の事は、アトリは聞いたかい?」
「いえ、詳しくは」
「じゃあ今日は、想い出話をしようか。お互いに眠くなるまで、ずっと……」

 誰も彼も、心の整理など付くわけがない。
 この悲しみや後悔は、いずれ時間が解決してくれるとしても、今が辛いのは皆同じだ。
 戦う力を持たぬ者たちは、互いに支え合いながら、ただ悲しみに打ちひしがれる事しか出来なかった。

2024/03/16

- ナノ -