- 明滅する塵芥 -

 僕は彼女の事を何も知らなかった。

 アカデミーの頃だって、仲が良かったどころかまともに会話をした事すらない。……いや、一度だけあったけれど、向こうは覚えているわけがない。それは決して己の思い込みではなく、このHELIOSで彼女と再会した事で、悲しくもはっきりと証明されてしまったのだった。

『私あなたの事覚えてなくて……ごめんなさい』

 彼女にとって己など、取るに足らない存在である事ぐらい分かっていた。傷付かなかったと言えば嘘になる。けれど、忘れてくれていてどこか安堵した自分もいた。
 アッシュに虐げられ続けていた己の事など、覚えていない方が余程有り難いからだ。
 尤も、折角ヒーローになった今も、アッシュとの関係は当時とまるで変わっていない。それだけに、彼女ももしかしたらふと昔の事を思い出し、かつての己の存在も認識してしまうかもしれない――そう思うだけで気が滅入った。



「グレイ〜、休憩中も落ち込むなんて良くないヨ〜」
「ひえっ、ビリーくん!?」

 今日も日課のパトロールを行い、昼休憩の時間が訪れると同時にビリーが突然どこかへ行ってしまい、一人になった反動でつい余計な事を考えて落ち込んでいたものの、すぐに戻って来てつい驚きの声を上げてしまった。

「ど、どうしたの? 何か用事があるんじゃないの……?」
「ううん、電話が来たからちょっと席を外しただけ! じゃあ、行こっか」
「行くって、どこに?」
「勿論、お昼ご飯〜! まさかグレイ、食べないなんて言わないよネ?」

 ごく当たり前に、己と食事を共にすると言ってくれるなんて。今までこんな風に接してくれる人なんて一人もいなかったと断言出来る。いくら同じチームとはいえ、どうして己にここまで良くしてくれるのだろう。ぼうっとしていると、ビリーが不思議そうに己の顔を覗き込んで来た。
 こんな有り難い誘いを断るわけがない。

「……僕もお昼どうしようか迷ってたから……一緒に行こう、ビリーくん」

 こんな己に優しく接してくれる仲間がいて、何を落ち込む必要があるというのか。トライアウトに合格し念願のヒーローになれたとはいえ、それで終わりではない。まずはビリーの足を引っ張る事なく、少しでも成長出来るよう地道にやるべき事をこなしていかなければ。落ち込んでいる暇などない。





「グレイ、『ルリちゃん』とは仲良くやってるの?」

 食事中、突然ビリーにそんな事を聞かれて、危うくフォークを落としそうになった。

「な、何……? なんで? どうしてそんな事聞くの……?」
「その動揺っぷり、やっぱりグレイが落ち込んでたのは恋の悩み?」
「恋って、そ、そういうのじゃないよ……」

 大前提として、恋とか愛以前に彼女とは二言三言ぐらいしか言葉を交わした事がない。果たして会話にカウントして良いかも怪しいぐらいだ。

「ビリーくんには前にも話したけど……僕が一方的にルリちゃんの事を知ってるだけで、向こうは僕の事なんて忘れてたし……」
「本当に?」

 ビリーは決して茶化しているわけではなく、ゴーグルに覆われた双眸は真剣そのものだった。けれど、どうして疑ってかかるのだろう。よく分からないけれど、こればかりは己も間違った事は言っていない。事実を述べるまでだ。

「……本当だよ。ルリちゃん自身がそう言ってたから。僕の事、覚えてないって」
「ふーん。ちょっと引っ掛かるけど、グレイの言う事を信じるヨ」

 ビリーが『引っ掛かる』と言ったのは、彼女から彼に接触し、己の事を探っていたからなのだと当然知る由もなく、この話はここで終わる――筈だった。

「それで、グレイはルリちゃんとどうなりたいの?」
「えっ? どうって……?」
「恋人になりたい? それとも」
「こっこここ、恋人なんて! 無理だよ、そんなの……!」

 ちょうど昼食時で人も多い時間帯だというのに、つい大きな声が出て、一気に店内の視線を集めてしまった。念願のヒーローになれたとはいえ、注目を浴びるのはどうしても苦手だ。あまりに恥ずかしくて、テーブルを挟んで向かいに座るビリーから真下の料理へと自然と視線が落ちる。

「うう……」
「まあ今すぐ恋人!ってワケじゃなくて、まずは友達から始めてみたら、グレイも色々と思い悩むことがなくなるんじゃないかな」
「そ、そういうものかな……僕としては、見てるだけでいいんだけど……」
「ダメダメ! それじゃ下手したらストーカーになっちゃう! 同じHELIOSに所属する同僚なんだし、友好を深めるのはごく自然な事だと思うけど。それに、仲良くなって色々な事が分かったら、グレイの中のルリちゃん像が壊れて、熱も冷めるかも知れないし」
「冷めるって……あの、そもそも恋とかそういうのじゃないから……」

 一体ビリーは彼女の事をどう解釈しているのか。
 確かにアカデミー時代の彼女は、己にとって自然と目を引く存在だった。苛めにも負けず、言いたい事をはっきりと言える彼女はある種の憧れだった。
 けれど、今の彼女はあの時の淡雪ルリではない。六年も経てば大人になり、変わるのは当然だ。だからといって冷めたなんて思った事はなかった。
 例え会話と呼べる程ではなくても、彼女は己を認識し、目を合わせ、このHELIOSの仲間の一人として対等に接してくれる。アカデミーの頃はそんな事などなかっただけに、出来ればずっとこのままの距離でいたい。嫌われなければそれで良い。もっと深い関係になりたいだなんて、烏滸がましいにも程がある。

「ビリーくん、僕……ルリちゃんと無理に仲良くなろうとは思ってないから……」
「え〜、本当に?」
「うん……」

 頷くと、ビリーは不満げに唇を尖らせてみせたけれど、こればかりは己の本心なのだから仕方がない。己のような存在が距離を詰めようとすれば、これまで顔を合わせれば笑顔を向けてくれていた彼女も、気持ち悪いと思って最悪己の事を避けるようになるかも知れない。そんな事態に陥るぐらいなら、何の進展もなく今のままで良い。その方がきっと、彼女にとっても一番良い事だと思うから。





 HELIOSに入所してまだ数日しか経っていないのに、本当にこの先ヒーローとしてやっていけるのか、早くも暗雲が立ち込めていた。必死に前向きになろうとしても、アッシュの鋭い視線を受ける度に委縮して、アカデミーでの出来事が脳裏をよぎる。それに、初日にジェイ・キッドマンから叱責を受けて、つい彼を避けてしまっている。
 決して理不尽な事を言われたのではなく、寧ろ間違った事は何ひとつ言っていない。正論だった。

『正義を伴わない力は暴力であり、力を伴わない正義は無力である』
『グレイ、君には力が足りていない。無力な者はヒーローにはなれない』

 言っている事は当然の事だった。決してアッシュのように己を追い詰めようとしているのではなく、ヒーローとして正しい道を歩んで欲しいからこそ、敢えて厳しく言ったのだという事も頭では理解している。
 だからこそ、自分はここに居てもいいのかとどうしても悩む瞬間がある。ジェイ・キッドマンが思い描くヒーローに、己のような存在も本当になれるのだろうか、と。
 そして、初めから諦めてはいけない、何の為にここまで頑張って来たのかと、自分を奮い立たせ――落ち込んでは復活し、そんな思考を繰り返していた。

 常にネガティブな感情に襲われている己が、なんとか投げ出さずにここでの生活を続けられているのは、ひとえに同じチームのルーキーであり、ルームメイトでもあるビリーの優しさや気遣いが大きかった。それに、

『色々大変だと思うけど頑張ってね、愚痴ぐらいならいくらでも聞くから』

 淡雪ルリ。彼女の存在は、自分が思っていたよりもずっと励みになっていた。恋人になんてなれなくていい。友達になる事だって難しいだろう。
 けれど、このHELIOSで再会した彼女が言った事は、例え本人にとっては何気ない、誰が相手であっても当たり前に紡ぐ言葉であっても、己の胸に刻み込まれていた。

 ――会いたい。
 別に何か嫌な事があったわけじゃない。良くも悪くもいつもと変わらない日だ。高望みをしてはいけない。それなのに。
 パトロールとトレーニングを終え、普段はまっすぐ部屋に戻る筈の足は、自然と共有スペースへと向かっていた。偶然彼女と会えないかと、微かな期待を抱いて。





 結論から言うと、大人しく部屋に戻っていれば良かった。アッシュに出くわして絡まれたわけでもないし、彼女に会えず無駄足に終わったわけでもない。否、無駄足に終わっただけならどんなに良かったか。適当に歩いてばったり会えるほど、彼女も暇ではないだろうから。
 暇ではない――単にヒーローとして忙しいだけではなく、ひとりの女性として、という意味だ。

 行く当てもなくふらふらと歩いていた己の視線の先に、突然彼女の後姿が現れた。見間違えるわけがない、紛れもない淡雪ルリの姿を捉え、思わず息を呑んだ。
 いきなり声を掛けても大丈夫だろうか。表向きには優しく接してくれているけれど、本当はアカデミーで一緒だったというよしみで、知りもしない己の事を仕方なく気に掛けるようにしているのかも知れない。だとしたら、こちらから声を掛けて彼女の時間を割いてしまうのは迷惑ではないか。
 いや、彼女がそんな風に考えるわけがない。裏表もなく、嫌なら嫌とはっきり言える子だった。いくら大人になって雰囲気が変わったと言えど、根本的な性格までは変わらない筈だ。だからきっと、己が話し掛けても、少なくとも嫌だとは思わないだろう。

 このチャンスを逃したら、次いつ会えるか分からない。勇気を出して声を掛けよう。敵と戦うより余程簡単な事なのだから。そう意を決して一歩踏み出した、瞬間。

「――ルリ、探したぞ」

 彼女の傍に駆け寄る長身の男性。一般のヒーローが纏う制服ではなく、メンター用の制服。AAAランクである事を意味する三星のプレート。そこまで確認せずとも、彼がこのHELIOSにおいて特別な存在だという事は、醸し出す洗練された雰囲気から、嫌でも察する事が出来た。
 ブラッド・ビームス。己たち第13期生のメンターリーダーだ。
 そんな彼に声を掛けられた彼女は、慌てて顔を向けたものの、変に畏まるでもなく、ごく普通に淡々としていた。

「ブラッドさん、お疲れ様です。何かあったんですか?」
「いや、大した事ではないんだが……」

 どんな話かは当然知らないし知る必要もないけれど、少なくともこの流れだけで、この二人が単なる同じHELIOSに所属するヒーロー同士、というだけの関係ではないと分かった。メンターリーダーに選ばれるような立場のある人間が、多忙な中ただの一端のヒーローをわざわざ探すなんて有り得ない。しかも大した話ではないというのだから尚更だ。きっと己のように、ただ彼女に会いたくて――そこまで考えて、一気に絶望感が押し寄せて気を失いそうになった。

 ふと、ブラッド・ビームスの顔が彼女から己へと向けられた。視線が合った瞬間、己の醜い感情が全て見透かされてしまったように感じて、居た堪れなくなって、最早まともに思考を巡らす事すら出来ずにいた。そして相手が何か言葉を発するよりも先に、己の足は自然と逃げるように逆方向へと走っていた。



 僕はいつもこうだ。嫌な事から逃げてばかりで、立ち向かう事すら出来ず、ただ嵐が過ぎるのを黙って耐えるばかりだった。
 彼女のように立ち向かう事もせず、理不尽な目に遭っても毅然とした態度で戦う事もせず、いつもいつも逃げてばかりで、その結果がこれだ。いざ一人になって冷静になれば、己があの場で逃げる必要なんて何ひとつなかったと気付いて、尚更恥ずかしくなった。普通に挨拶して、そのまま立ち去れば良いだけの話だった。逃げ癖が付いた結果、なんでもない場面でも逃げて――。

「なんでもない……それなのに、どうして……」

 もう己たちの年齢になれば恋人もいて当たり前で、彼女だってもしかしたらそういう人がいるかも知れないし、いても何もおかしくはない。
 先程の会話だけで、ブラッド・ビームスと淡雪ルリが恋人同士だとは思わない。けれど、絶対に違うという確証はない。こんな事を考えるなんて無意味な事で、己には何の関係もない話だというのに、どうしてかあの二人が立ち並ぶ姿が脳裏から離れなかった。
 彼女の隣に立つべきなのは己ではない。もっと相応しい人が現れる、あるいは既にいるのだと、思い知らされたような気がしていた。

 僕は『今の』彼女の事を何も知らなかった。
 もう六年も経っているというのに、己の時間はあの時から止まったままだ。

2020/11/15
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