- 夜が優しかったころ -

 グレイの今後については、次の来るべきLOMで再度トライアウトの場を設け、見事合格すればヒーローとしての復帰を許可する――それが上層部が出した結論だった。
 眠りから目覚めてグレイの顔を見た時は、本当に舞い上がってしまって、『ヒーロー復帰おめでとう』なんて口走ってしまったのだけれど、当然まだ確定ではない。LOMで合格ラインに達する事が出来なければ、結局グレイはこのHELIOSを去ってしまう。
 そんな事態、絶対に避けなければ。
 グレイ自身の気持ちは勿論、私だって、グレイには折角叶えた夢を諦めて欲しくないのだ。

 でも、私に一体何が出来るんだろう。



「グレイ! ちゃんと本気出して!」
「む、無理だよ……! ルリちゃんを傷付けるなんて、僕には……」
「絶対傷付かないから! グレイ、私の事そこまで弱いって思ってるの!?」
「ち、違っ……そうじゃなくて……」

 ある日の夜。グレイが連日トレーニングルームを借りて、LOMに向けて特訓しているとジェイから聞いて、私も付き合いたいと立候補した。メンター、それもジェイと同じような指導が出来るとは到底思えないけれど、居ても立ってもいられなかったのだ。そんな私の気持ちを察したのか、ジェイは快く承諾してくれて、今日は私がグレイと一緒に特訓する事になったというのが事の顛末だ。
 けれど、残念ながらまるで特訓になっていない。
 グレイがどうしても私に遠慮して攻撃出来ず、私も私でグレイを傷付けるわけにはいかず、微妙に当たらないすれすれの攻撃を繰り出すばかりで、はっきり言って何の役にも立たない時間を消費していた。

「も〜……出てこいジェットっ!!」

 この訓練には二つの意味がある。グレイ自身を鍛える事、そして、LOM本番でジェットの力を借りる為に、グレイの意志で人格交代を出来るようにする、というものだった。
 そのジェットが、何をどうしても出て来てくれない。グレイが危険な目に遭えば代わってくれると思っていたのだけれど、考えが甘かった。
 ゆえに、二重の意味で無益な時間と化してしまっていた。





 結局成果がないままトレーニングルームの貸し切り時間が終わってしまい、グレイと私はおとなしく退室して共有スペースへと向かう事にした。

「ごめんね、ルリちゃん……僕の為に時間を作ってくれたのに……」
「私こそ、ジェイさんに頼み込んだのに何も出来なくて……やっぱりそこがメンターに選ばれる人との差なのかな」
「そ、そんな事……アッシュなんかよりルリちゃんがメンターだったら、どんなに幸せだったか……」

 思わず近くにアッシュがいないか見回してしまった。
 私を気遣ったのだろうし、グレイの言わんとする事は理解出来るけれど、タワー内だといつ誰に聞かれているか分からない。私なら仮にアッシュに聞かれても、軽く詫びつつ流す事がまだ出来るけれど、グレイはそういうわけにはいかない。

 私の胸中など知る由もないとばかりに、グレイは不思議そうに小首を傾げて私を見つめている。正直、可愛い……なんて見惚れている場合じゃない。グレイがLOMで結果を出すには、一体どうすれば良いのか。ジェットに頼らず実力で合格出来るのが一番良いけれど、時間は待ってはくれない。
 取り敢えずこの後どうするか。このまま一緒にいたいけれど、グレイの身体を考えてここで解散した方が良いかも知れない。なんて考えていると、進行方向に見慣れた姿が目に入った。見慣れた、というより私が一方的に慕っているだけだけれど。

「リリー教官、お疲れ様です」

 そう言って頭を下げると、教官――リリー・マックイーンは気さくな笑みを浮かべてみせた。

「ルリ、珍しいなこんな時間に……ああ、グレイに付き合っていたのか」
「つ、付き合う!?」

 リリーの何気ない言葉に反応したのは、私ではなくグレイだった。視線をちらりと彼へ向けると、頬が赤く染まっていた。多分『付き合う』の意味を勘違いしている。ひとまずグレイの誤解を解くためにも早々に言葉を返した方がいい。

「はい! グレイのトレーニングに付き合ってました。私、別にメンターでも何でもないんですが……」
「仲間の力になりたいという思いはヒーローとして大切な事だ。メンターやチームメイト以外は助けてはいけない、なんて方が馬鹿げているぞ」

 恋愛感情があると察されるとグレイに迷惑が掛かるかと思って、つい自虐的に言ってしまったのだけれど、リリーはあっさりと私の弱音を吹き飛ばしてくれた。そして、横で「なんだ、そういう意味か……」とグレイの小さな声が聞こえて、私も胸を撫で下ろした。

「そうだ、ルリ。今度一緒に飲みに行かないか?」
「リリー教官と!? ぜ、是非!!」
「ふふっ、いい返事だ。私は決して社交辞令では言わないからな。日程が決まったら連絡する。心しておくように」
「はい……! 楽しみにしてます!」

 突然の誘いに自然と声も弾んで、颯爽と去ルリリーの後姿を見えなくなるまでずっと追ってしまっていた。そして静寂が訪れ、改めてグレイへ顔を向けると――どういうわけか私から目を逸らして、どこか不貞腐れている……ように見えなくもない。

「グレイ、どうかした?」
「べ、別に……」
「嘘。ちゃんと分かるんだから」

 目を逸らすグレイの視界に入るように移動して、視線を合わせようとしても、またすぐに逸らされてしまう。かくなる上は、はっきり聞くしかない。

「疲れてる? それとも……私また、グレイを傷付ける事言った……?」
「い、言ってない! ルリちゃんは何も悪くない……!」

 やっとグレイが私の顔を見て、必死で首を横に振った。じゃあ、やっぱり疲れているのか、それとも満足なトレーニングが出来なかった事に落ち込んでいるのか。後者なら私に責任があるし、これからどうすれば良いか一緒に考えたいし、勿論ジェイにも共有するつもりだ。
 そう思っていたのだけれど。

「……リリー教官と話している時のルリちゃん、凄く嬉しそうで……そんな顔、僕の前で見せた事なかったから……」
「嘘、そんなわけない!」

 グレイがとんでもない誤解をしていて、つい声を荒げてしまった。確かに嬉しかったのは事実だけれど、グレイの前で嬉しそうにした事がないなんて、そんな事あるわけがない。有り得ない。
 どうしてそんな風に感じてしまったのかは分からないけれど、言葉で分からないなら行動で示すしかない。

「私、グレイと会うだけで嬉しいし、話していると心が落ち着くし、ずっと一緒にいたいって思えるし……それに、本気で好きじゃないとキスだってしないよ」

 とにかくグレイに信じて貰いたい一心で、この時の私はここが公共の場だという事をすっかり忘れていた。背伸びして、グレイの耳に手を掛けて、口元に唇を寄せた瞬間。

「フェ、フェイスくん!?」

 グレイの口から私ではない人物の名前が飛び出て、咄嗟に顔を離した。本来ここにいない筈の存在が示唆される、という事は、間違いなくその存在は今この場にいるのだ。
 恐る恐る振り返ると、少し離れた場所でこちらを見ているフェイス・ビームスと目が合った。彼はヘッドホンを外せば、口角を上げた。

「アハ、邪魔しちゃった?」

 その口許は完全に面白がっている笑みだ。よりによってこの子に見られてしまうなんて。私ひとりが恥ずかしい思いをするだけならまだしも、完全にグレイを巻き込んでしまった。どうにかして庇わないと、と必死で頭の中で言葉を選んでいると、

「じゃ、邪魔じゃないよ……? ええと、ルリちゃんが僕の髪に付いた埃を取ってくれただけで……」
「ふーん? じゃあグレイに免じて、そういう事にしておこうか」

 フェイスはあっさりと納得して、すぐにこの場を通り過ぎていった。こんな時間に出くわすなんて、夜の街に繰り出すのか、それとも単にタワー内で用事があるのか。ルーキーとしてチームで共同生活を送っているのだから、どの時間でも遭遇するのは当たり前だ。

「なんとかバレずに済んだ……かな……?」
「ありがと、グレイ。私、頭が真っ白になっちゃって……やっぱりいざという時頼りになるね」
「そ、そうかな……? そんな事、初めて言われた、かも……」
「自信持って! グレイはちゃんと周りを俯瞰して、冷静に物事を考える事が出来てるよ。いや、ジェイさんから聞いた話なんだけどね」
「ジェイさんが、ルリちゃんにそんな話を……?」

 これは私がオーバーフロウを起こした時、イーストセクターの皆で協力してイクリプスを倒したのだけれど、その際にグレイの案を採用した事が勝利に繋がったのだという。熟考している時間はなかったとはいえ、冷静さを失っていては無闇に攻撃するだけで解決には至らない。それは私が身を以て証明している事だ。
 グレイは信じられないのか、頬を染めて心ここにあらずといった様子でぼうっとしている。

「私、『もう』嘘は吐かないって決めたから」
「うん、嘘だとは思ってない……でも、まさかジェイさんとルリちゃんの間でそんな話をしてると思わなかったから、嬉しくて……」
「安心してくれて良かった。グレイには人として、そしてヒーローとしても良いところが他にもあるんだから、やっぱり、HELIOSに必要な存在だと思うんだ」

 そう言って励ましはしたものの、結果的にこの日はグレイのヒーロー復帰としての協力は何も出来なかったと言っていい。あまつさえキスしようとしてフェイスに見られるなんて、馬鹿な事もやらかしてしまったし、寧ろ余計な事をしないで陰ながら見守るのが一番グレイの為になるんじゃないかとすら思えて来る始末だった。





「お疲れ〜、『ルリちゃん』」
「はい?」

 それから暫くして。リリーと飲みに行く日が決まり、集合時間に目的の店へ馳せ参じた私を待っていたのは。

「飲みに行くと言ったら、この男も付いて来る流れになってしまってな。ルリが嫌なら追い返すが」
「お〜い、勘弁してくれよリリー。こっちはルーキーが未成年で飲みに行く機会が減って参ってるんだよ」

 リリーと共に待っていたのは、ウエストセクターのメンター、キース・マックスだった。ウエストセクターもルーキーのレオナルド・ライト・Jrが他セクターに移籍したいと言ったり、先日のタワー襲撃で怪我を追ったりと、何かと大変な様子だけれど、それ以上に大事があったのは私の知るところではなかった。
 とりあえず、拒否する理由もないし、リリーと二人きりで飲みに行くのはまたの機会にすればいい。その『また』の機会があるかは別として。



「あの、どうして突然私を飲みに誘ったんでしょうか?」
「理由がないと可愛い女の子を誘ったらダメか?」
「いや、リリー教官。私はもう女の『子』なんて年齢じゃないですよ……」
「私にしてみれば充分可愛い女の子だぞ?」

 リリーは決して社交辞令を言うタイプではない、と思う。でもさすがに二十五にもなる女に対してどうなのかと思って、キースの方へ視線を向けると、こちらの話などまるで耳に入っていないのか、黙々と飲酒に興じていた。

「そこの酔っ払いは放っておいていい」
「早くも出来上がってますね……それだけメンターも大変でストレスが溜まるんでしょうね」
「違うぞ、ルリ。キースはメンターであろうとなかろうと『こう』だ」

 リリーは溜め息を吐いて言ったけれど、本当にどうしようもない人なら突き放している筈だ。きっとキースはメンターとしての責務を果たしているのだろう。それ以前にヒーローとしての実績も十二分にある。一見やる気がないように見えても、やるべき事はしっかりやっているからこそメンターに選ばれたのだろうし。

「可愛い女の子と飲みたかったのも事実ではあるが、ちょっとブラッドに頼まれ事があってな。業務時間外で仕事の話をするのもどうかと思うが……」
「ブラッドさんが?」
「ブラッドから直接言うと、ルリが深刻に考えてしまう可能性もあるからな。それもあって、こうしてカジュアルな場で私から切り出そう、と」

 深刻に考える必要のない話、となると悪い事ではないのだろうけれど、それでも一体何の話なのか徐々に不安になって来た。折角のアルコールも味を感じなくなるほど動揺している。

「……ブラッドの名前を出したのは拙かったか。ルリ、死にそうな顔をしてるぞ」
「いえ、早く楽になりたいので是非用件をお聞かせいただきたく……!」
「はは、そんなに堅苦しくなるな。別に不利益な話をするわけじゃない」

 リリーはアルコールを一気に平らげれば、一切酔いを見せない顔で不敵な笑みを浮かべた。

「ルリ。そろそろ昇格試験にチャレンジしたらどうだ?」
「え?」

 思いもしない言葉に呆けた声を出してしまった。確かに、十八歳で入所して二十五歳になった今もAAランクのままというのは、もどかしい部分もある。尤も、オーバーフロウのトラウマで恐くて昇格したくなかった、なんて情けない理由があるのだけれど。
 でも確かに、そのトラウマを克服出来そうな今、もし出来るならチャレンジしたい。
 ただ、そう簡単には行かない筈だ。

「私、前に昇格試験を受けようとして、結局土壇場でキャンセルしてしまったんですが……確か二年は間をあけないと駄目でしたよね?」
「実のところ、その辺りも臨機応変に対応していかなければならなくなった。HELIOSも人員不足に悩まされていてな。勿論誰彼構わず昇格試験を受けさせるわけにはいかんが、ルリ、今のお前なら『AAA』に充分相応しい」

 まさかリリーにそこまで評価されているなんて思っていなくて、恐縮してしまった。ただ、昔は意気がっていただけに、客観的に自分の実力を判断する事に不安があって、視線が自然とキースへと向かう。特別私と親しいわけではない第三者なら、冷静に見てくれる筈だ。

「ん? 何、『ルリちゃん』」
「あの、キースさんから見て、私ってAAAランクに相応しいですか?」
「それを判断する為に昇格試験を受けるんだろ」
「た、確かに……」

 そもそもキースが私の事を詳しく知るわけがないし、質問自体がどうかしていた。馬鹿な事を言ってしまったと後悔したのだけれど、キースはさして気にしている様子はなく、寧ろ質問を投げかけて来た。

「……確かルリちゃんって11期生だったよな」
「はい。同期のアッシュやオスカーはとっくにAAAランクに昇格してますし……私も逃げずに頑張らないと駄目ですね。もう甘えていられる年齢じゃないですし」
「同期と比べる必要もなければ、『しなきゃいけない』なんて事もないがな。ま、ルリちゃんの好きにしたところで、誰も咎める権利はない」

 言っている事は至極真っ当だ。人に聞いて判断を委ねるのは、自分で自分の人生に責任を負わず押し付けるのと同じだ。自分でちゃんと決めないと。
 ただ、物凄く良い事を言っているのは分かるのだけれど、どうしても気に掛かる事がある。

「キースさん、ありがとうございます。折角チャンスを頂きましたし、前向きに検討します。ただ……」
「ただ?」
「ルリ『ちゃん』って何ですか?」

 ノヴァ博士が言うなら百歩譲ってまだ分かる。でも、キースとはそこまで関わる事もないし、飲み会の場で皆と一緒に過ごす以外に接触する事はほぼほぼないと言っても過言ではない。ブラッドとそれなりに交流があるのは、彼の従者のオスカーと同期だという大前提があるからだ。

「おい、キース。『ちゃん』付けはセクハラだ」
「なんでだよ〜、フェイスは良くて俺は駄目なのかよ」
「フェイス?」
「ああ、何かの拍子で『ルリちゃん』って言ってたぞ、あいつ」

 全く想像もしない展開で、軽く酔っていた筈が急激に冷めた感覚を覚えた。
 フェイスにルリちゃんなんて言われる謂れはない。一体どうしてそんな呼び方をしているのか、記憶の糸を手繰り寄せるより先に昨日の出来事が脳裏をよぎった。
 そもそも、グレイは私がフェイスの地雷を踏んだ時に、その理由を探る為に彼と接触してくれた。多分、その時にいつもの拍子で『ルリちゃん』と言ってしまったのだろう。

「……やっぱりあの子、腹立つ!」
「そう怒んなって、フェイスも悪い奴じゃないからさ」
「違いますって! 絶対グレイの真似して言ってるんですよそれ!」
「グレイ? 誰だ、そいつ」

 無性にむしゃくしゃしてしまって、目の前のアルコールを一気に飲み干した。私は怒り上戸ではない筈だけれど、今の私を見れば誰もがそう勘違いしてしまうに違いない。尤も、素面でも怒ってたと思うけど。

「キース、『誰だ』はないだろ。13期生のルーキーだぞ。そしてルリがヒーローを目指したきっかけの男子でもある」
「あ〜、ルリちゃんの初恋の相手か。何、付き合ってんの?」
「だからそういうのがセクハラだと言っている!」

 見かねたリリーがキースをどついて、くぐもった声がした。キースも悪い人ではないだけに、リリーがこの場にいなかったらうっかり打ち明けてしまったかも知れない。まあ、キースと二人きりで飲みに行く事自体ないけれど。

「痛て……少しは手加減しろよ〜」
「悪酔いでもしてるのか? 普段のお前なら、女子にそんな質問はしないだろ」
「いや、フェイスから微妙に話を聞いてるってのもあるが……というか、てっきりアッシュと付き合ってるもんだと思ってたが」
「は?」

 リリーより先に、私が呆けた声を出してしまった。天地がひっくり返っても有り得ないと言い切れる言葉に、唖然としないわけがない。

「なんで私がアッシュと?」
「昔から仲良いじゃん、お前ら。こないだもバイク二人乗りしてデートしてたって誰かが言ってたぞ」
「それ、アッシュが聞いたら怒り狂いますよ? それにデートじゃなくてフライドチキン屋に連行されただけです」
「まあ、傍から見たら誤解されるから気を付けたほうがいいぞ〜」

 私の知らない間に、もしかして妙な噂が流れていたのだろうか。『昔から仲良い』だなんて、寧ろ逆で、口論になりそうになったら間にオスカーが入って助けてくれた程相性が悪いのに。
 せめてこの話がグレイの耳に入っていなければ良いけれど。いや、入ったとしても私が好きなのはグレイだし、いくらでも否定してみせる。そう決意したものの、思うようにいかないのが恋愛なのだと、様々な意味で経験不足な私はまだ知らずにいたのだった。

2021/06/29
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