- 臆病な僕らは孤独を知らない -

 もうヒーローを続ける資格なんてないと思っていた。たまたまイクリプスに出くわして、アッシュに煽られて、その後の記憶は少しだけ失われている。
 ただ、どういうわけか己の中のもうひとりの人格――ジェットとの対話が叶い、イーストセクターの皆と協力してイクリプスを倒し、そして、ずっと大好きだったあの子が苦しんでいるのを見た瞬間、無我夢中で抱き締めて……それからの記憶は完全に途切れている。

 目を覚ますと、そこは実家でも病院でもなく、紛れもなくエリオスタワー内の医務室で、信じられない事に己の処分を再検討する方向で話が進んでいるのだという。なんでも、ジェイとヴィクターが処分の撤回を訴えた事で上層部も考えを改めたらしい。
 しかも、ヒーローとしての能力を失わせる薬も、実はヴィクターがすり替えていて、己は能力を失っていないのだという。
 本当にこんな事が起こるなんて。今この瞬間も現実ではなく夢だと言われた方が納得できる位だ。
 だって、この先もずっと、イーストセクターの皆と一緒にいられるかもしれないなんて。

「シケた面してんじゃねぇよ、復帰する前にやる事があるだろうが」

 少し離れた場所でこちらを見ているアッシュにそんな事を言われたけれど、すぐに意図が理解できず言葉が出て来なかった。そんな己に、傍に居てくれているビリーが嬉しそうな顔で教えてくれた。

「そうだよ、グレイ。ルリパイセンに会いに行かなきゃ!」

 彼女の名前が紡がれた瞬間、漸く夢見心地だった脳が一気に覚醒した――ような気がする。彼女がこの場に居らず、『こちらから会いに行く必要がある』という事は、オーバーフロウを起こして未だ回復していないのではないか。

「ビリーくん……! ルリちゃんの容態は……」
「安定はしてるけど、少しの間安静にしてないといけないみたい。グレイがお見舞いに行ったらすぐに治っちゃったりして」
「そ、そう……かな……」

 となると、彼女は自由に動けない状態なのだろうか。それなのに、己が出向いてしまっても良いのだろうか。恋人というわけではまだないと思うし、一応、キス……はしたけれど、退所の危機にある己を憐れんで、感傷的になってその場の雰囲気に流されてあんな事をしたのかも知れないし。こんな事を考えては彼女に失礼かも知れないけれど、本当に彼女は己なんかの事を好きなのか不安になって来ている。
 そんな心境が顔に出ていたのか、ビリーの隣にいるジェイが微笑を浮かべながら己へと言葉を紡いだ。

「グレイ、俺からも頼む。正直、ルリについては体より心の方が気掛かりだ。戦場での君たちのやり取りをこの目で見て、ルリを救えるのはグレイしかいないと思ったぞ」
「そ、そんな……僕が……?」
「ああ。あんなに弱みを見せるルリなんて、入所の時から見て来たが初めてだな。それだけグレイを信頼しているんだろう」

 そこまではっきり言われると気恥ずかしさを覚える。けれど、前にジェイに言われた『弱い人間の気持ちが分かる君にはヒーローの素質がある』という言葉を思い出して、もしかして、己は彼女にとってのヒーローになれたのかも知れない。随分と調子の良い事を考えてしまっているけれど、今日ぐらいは許されたっていいだろう。





 自分自身の身体は特に問題ないようで、彼女が眠っている別室を訪れる事にした。容態は安定している、というのは身体は回復に向かっているという意味であって、ジェイの言うように心に傷を負っていないかが気掛かりだった。オーバーフロウによって身体を蝕まれるなんて、どれほどの恐怖を味わうのだろうか。全く想像が付かないけれど、彼女が子どものように泣きじゃくる時点で、相当辛かったに違いない。
 そう考えると、別に己を信頼しているから弱さを見せたのではなく、助けに来たのが誰であっても同じ状態に陥ったのではないか。
 ここに来て後ろ向きになってしまったけれど、きっと彼女もあの時の事は覚えていないだろう。それこそ、忘れてあげた方が彼女の名誉の為かも知れない。

 そこまで考えて、今の己の思考が、まさに彼女が己と再会した時に『敢えて覚えてない振りをした方が良い』と判断したのと似たようなものだと気付いた。

「やっぱり、ルリちゃんは悪くない……」

 似たもの同士だと思ってしまうのは、さすがに彼女に失礼かも知れない。けれど、アカデミー時代の己に手を差し伸べなかった事を悔やんでいる彼女もまた、弱い人間を助けたいという思いでヒーローになった筈だ。きっと、君と僕は自然と惹かれ合う運命だったのかも――なんて言ったら、さすがに引かれそうだから黙っておくけれど。



 彼女が眠る一室の扉をノックしたけれど、返事はない。日を改めようと思ったけれど、扉が少しだけ空いていた。鍵は掛かっていない。勝手に入って良いものか少し悩んだけれど、退所を免れたのだから堂々としていて良い筈だ。同じHELIOSの仲間を見舞うのに、許可を得る必要もない……と思う。

「し、失礼します……」

 そう言って恐る恐る部屋に足を踏み入れたものの、返事はない。ベッドの傍までゆっくりと歩を進めれば、近くにあった椅子を引き寄せて腰掛けて、横たわる彼女を見遣った。
 彼女は目を閉ざしていて、点滴を打たれている状態だ。幸い顔色は良く、経過は良好なのだと思う。それでも、もし彼女がオーバーフロウへの恐怖を感じて心に傷を負っていたとしたら、一体己には何が出来るだろう。
 点滴の針が刺さっていない腕の手を取ると、温かさが伝わってきた。自分よりも小さく細い指に触れて、改めて、彼女を守りたい――なんて出来もしない事を思ってしまった。彼女のほうがずっと強くて、逆に守られるのはこちらの方かもしれないのに。

「ん……」

 彼女の口から吐息が漏れて、思わず身を乗り出した。声を掛けようか迷ったけれど、気持ち良く眠っているのだとしたら、起こさない方が良い。そう思って様子を窺っていると、ゆっくりと彼女の双眸が開かれた。

「……グレイ……?」
「ルリちゃん、無理しなくていいよ」

 もしかして己がいるから起きようとしているのか、と思ってそう告げたのだけれど、彼女は己の手を握り返して、愛おしそうに微笑んでみせた。

「良かった、グレイが元気になって」
「僕? そ、それよりもルリちゃんが……」
「私は大丈夫だよ、グレイが守ってくれたから」

 一緒に戦う事も出来なければ、守る事も出来なかったのに。ただ、苦しんでいる彼女の傍にいただけだというのに、オーバーフロウの影響で現実と夢の区別が付かなくなっているのだろうか。己が彼女を助ける夢を見ていたとか。そんな影響が起こり得るのか分からないけれど、どちらにしても誤解されるのは良心が痛む。

「あの、ルリちゃん……夢でも見てたの? 僕が助けるなんて、出来るわけない……」
「夢じゃない。覚えてるよ」

 己の手を握る彼女の手に力が込められた。夢と言われた事を怒っているのだろうか。でも、本当に助けてなどいないし、嘘なんて吐きようがない。

「サブスタンスに身体を蝕まれて、このまま死んじゃうじゃないかって思った時……グレイが連れ戻してくれたんだよ」
「連れ戻す……?」
「ええと、感覚的なものだから、なんて言ったらいいか分からないけど……でも、グレイが励まして、抱き締めてくれなかったら……例え身体は無事でも、心はぼろぼろになってたと思うんだ」

 彼女はそう言って、ゆっくりと上体を起こした。そして己と視線を合わせて、目を細めて笑みを浮かべた。

「グレイ、ヒーロー復帰おめでとう」
「……え?」
「あ、さすがにまだだよね。でも、私は絶対復帰できると思ってるけど」

 どうして彼女がその事を知っているのか。混乱して言葉が出て来ず黙り込んでいると、彼女は変わらず優しい笑みで説明してくれた。

「ブラッドさんに聞いたんだ。ヴィクターさんがかなり説得してくれたみたいで、処分の話は再検討になったって」
「……ブラッドさんが? どうしてルリちゃんに……」

 その名前を聞いて、少しばかり嫌な気分になってしまった。メンターリーダーといっても、彼女は何の関わりもない筈だ。いや、己が入所する前に既に深い仲だったのかも知れない、と落ち込みかけた時、彼女から続いて紡がれた言葉は想像もしないものだった。

「ブラッドさん、私がグレイの事好きだってずーっと知ってたんだって。もう、恥ずかし過ぎて顔から火が出るかと思った」
「……え? ごめんね、ちょっと言ってる意味が分からないんだけど……」

 確かに、己が彼女を振ったなどという噂が一時的に立っていた事は把握しているけれど、彼女の言う『ずーっと』とは、それより前の話だろう。一緒に食事した事もあるとはいえ、メンターリーダーたる彼がいちいちそんな事を気に留める余裕なんてあるだろうか。

「……私が六年前にトライアウトを受けた時、グレイの話をしたみたいで……いや、しちゃったんだけど。ごめんね」
「え? ええ?」
「で、その話がブラッドさんやジェイさんにも伝わってて……グレイが入所した時から、ずっと私たちの事見守っていたみたい」

 まるで要領が掴めないけれど、取り敢えず彼女の断片的な言葉から状況を整理しないと。彼女がトライアウトを受けた時、何故か己の話をして、それが一部の人にも伝わっていて、その一部に該当するブラッド・ビームスが、彼女が己の事を好きだと把握して、見守っていた……らしい。
 いや、これでは肝心な事が分からない。

「ルリちゃん、トライアウトの時にどんな事を話したの……?」
「うっ」

 彼女は一瞬だけ目を逸らしたけれど、意を決するようにひとり頷いて、改めて己の目を見つめた。そして、己に向かって頭を下げた。

「ごめん、グレイ! 私、グレイの名誉を傷付けるような事を言っちゃって……」
「い、いいよ。怒らないから……それより分からない方がもやもやするし……」

 聞いてみなければ怒りようがないし、というか、多分怒らないと思う。聞く前から判断するのもどうかと思うけれど。
 彼女は恐る恐る顔を上げて、心底申し訳なさそうに目を伏せていた。

「アカデミーで、非がないのに虐められていた優秀な男子がいて……彼を助けず見ない振りをしていた弱い自分が嫌で、だからヒーローになって本当の意味で強くなりたい……みたいな事を……」

 なんだ、そんな事か。いや、安堵するのもおかしいかも知れないけれど、彼女は事実を言ったまでだ。寧ろ、それよりも己という存在が彼女のヒーローとしての人生に影響しているなんて、なんだか不思議な気分だ。

「ごめんね、勝手に話題に出して……謝って済む事じゃないけど……」
「……つまり、ルリちゃんがヒーローになったのは僕の影響もあるって事……?」
「え?」
「ご、ごめん……! そんなわけないよね、つい……」

 反射的に謝ってしまったけれど、彼女は何か閃いたように目を見開いて、今度は両手で己の手を握り締めた。点滴の針が刺さっている腕を強引に動かしたせいで、管に引っ張られて少し痛そうに見える。

「ルリちゃん、どうしたの……?」
「私、どうして気付かなかったんだろう。そうだよ、私がヒーローになれたのはグレイのお陰! 自分の無力さを自覚して、成長したいっていう謙虚な気持ちがなかったら、合格しなかったかもしれない。いや、自分で謙虚って言うのもおかしいけど……」

 己の存在が彼女のトライアウトの合否に影響したかは分からないけれど、それでも、ほんの僅かでも彼女の人生に己の存在が刻まれていたなら。
 こんな事を思うのはおかしいかも知れないけれど、正直言って嬉しい事だ。虐めを受けていた己の事を嫌わず、優秀な生徒だと認識してくれていただけでも嬉しかったのに。

「ルリちゃん、僕は全然怒ってないから。だから、謝らなくていいよ」
「グレイ……お人好し過ぎて心配になるよ。まあ、だからもうひとりのグレイが代わりに怒ってくれるのかな……?」
「もうひとりの僕? ああ、ジェットっていうんだけど……でも、彼は僕じゃない。ジェットの言っている事は気にしないで……僕の顔で言われたら、そう思えないかも知れないけど……」

 頼むからジェットには彼女を悪く思わないで貰いたいけれど、果たしてこの先上手くやっていけるのだろうか。取り敢えず今は、『ジェット』は明確には己ではなく、発言も己の意志とは反しているのだと分かって貰うしかない。

「その『ジェット』の言っている事は、グレイ本人の意思とは関係ない……そう思う事にするね。ただ、ジェットは間違った事を言っているわけじゃないと思うな」
「僕、ルリちゃんの事を悪く言おうなんて絶対に思ってないから……!」
「う、うん。グレイとジェットは全くの別人……つまり、グレイが辛い事を我慢していたりしたら、代わりに怒ってくれる友達、ってところかな?」
「友達……ではないと思うけど……」

 まさかネットゲームで己が作り出したキャラクターが具現化した存在だとは言い出せず、どう説明すれば良いか分からないけれど、彼女の中で納得出来ているなら、友達という事にしておこう。
 ただ、あの日からジェットは出て来ていないようで、脳内で声を掛けても返事もない。あの時対話が叶ったのは奇跡だったのだろうか。ただ、このまま存在が消えたとも思えず、また何かきっかけがあればジェットと話す事が出来ると思っている。その時は、彼女の事を傷付けないよう改めて伝えないと。

「グレイ、ヒーロー復帰……本当におめでとう」
「いや、まだ復帰するか分からないけど……もう一度トライアウトの場を設ける、ってジェイさんが言ってたけど……」
「大丈夫だよ、だってビリーくんとも頑張って来たんだし……HELIOSでヒーローとして過ごした時間は、ちゃんとグレイの身になっていると思うよ」

 根拠なんて何もないけれど、彼女にそう言われると、本当に乗り越える事が出来ると思える。
 彼女の言う通り、ここで過ごした時間はきっと無駄にならない筈だ。無駄にしてはいけない。
 諦める事なんて出来なかったヒーローに漸くなれたのだから、与えられたチャンスを逃したくない。絶対にトライアウトに合格してみせる。彼女と一緒に、未来を歩むためにも。

2021/06/19
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