- 痴れびとのよろこび -

 オーバーフロウを起こした後の記憶は途切れ途切れで、何が起きたのか、自分は何をしたのか時系列で説明しろと言われたら、たぶん、即答できないと思う。
 溢れ出る力をコントロール出来ると初めは思っていた。初めてじゃないし、今度は上手くやれるはず。何の根拠もなく単なる思い込みで突っ走って、その結果、呆気なく『飲まれて』しまった。
 あの明らかに異質なイクリプスを追い掛けていたら、いつの間にかジェイ・キッドマンも私と一緒に戦っていて、気付いたら――身体が蝕まれていくような感覚を覚えて、苦しくなって、動けなくなって。

『ルリちゃん、皆が来るまであと少しだけ頑張って……!』

 ここにいるはずのない、大好きな人の声が聞こえた気がして、必死で目を開いた。ラボにいるはずのグレイが、なぜかヒーロースーツを身に纏って私の傍にいた。状況が理解出来なかったけれど、目が合った瞬間感極まって、涙が込み上げて来た。
 身体は痛いし、息は苦しいし、もう完全に頭が働いていなかった。夢なのか現実なのか判断が付かなかったけれど、ここまで痛覚がはっきりしている夢があって堪るか、なんて冷静に思っている自分もいた。
 これが夢ではなく現実なら、どうしてグレイはここにいるのだろう。もう退所は決まっているとアッシュが言っていたし、昨日の今日で撤回になってヒーローとして戦って来い、なんて話があるだろうか。でも、間違いなくグレイは目の前にいて、私の身体を優しく抱きしめてくれている。
 本当に、これが夢じゃないなら。後悔なんてしたくない。
 もう二度と、絶対に離れたくない。
 力が入らない手を必死でグレイの背中に回して、子供のように泣きじゃくった。寧ろ、子供の頃ですらこんな泣き方をした事なんてあっただろうか。人前で泣いたのなんて、覚えていない程遥か過去の事だ。
 よりによって大好きな人の前で物凄い醜態を曝してしまったのだけれど、この時ばかりはもうなりふり構っていられなかった。グレイがヒーローとしてそこにいる理由が、本当に退所も処分も全てがなかった事になったのか、真実は何も分からない。ただ、考えられる可能性は――理由は分からないけれど、彼がヒーローとして再起する最後のチャンスを与えられたのかも知れないという事だ。
 だとしたら、今伝えなきゃいけない事は、私自身の辛さじゃない。

『……グレイ、ヒーローやめちゃ……だめだよ……』

 ずっと叶えたかった夢を、やっと叶えられたんだから。不正だろうと何だろうと、今ここで私に寄り添ってくれている人は、紛れもないヒーローだ。少なくとも、私にとっては。
 もしかしたら何らかの理由ですべてがお咎めなしになって、ヒーローとして復帰出来たのかも知れない。だとしたら相当見当違いな事を言っているけれど、どちらにしてもグレイが夢を諦めないで済むならそれに越した事はない。私がちょっと恥ずかしい思いをしたって、これまでグレイが受けて来た傷に比べたら、かすり傷にすらならないのだし。





「おや、思ったより早い回復ですね」

 目を覚ますと、そこは住み慣れたマンションの一室でもなければ、エリオスタワーの仮眠室でもなく。見慣れない真っ白な天井が目の前に広がっていた。いや、一度だけ同じ光景を目の当たりにした。過去にオーバーフロウを起こし、生死の境を彷徨った時だ。
 徐々に視界と思考がはっきりして来て、腕に点滴が繋がれている事に気付いた。そして、つい先程私に話し掛けた人物が誰なのか、顔を見ずとも声だけで理解出来た。

「ルリ、具合はどうですか?」
「……それが、割と平気です。ヴィクターさん」

 声のした方へと顔を向けて、私の様子を窺っているヴィクター・ヴァレンタインへ正直な感覚を答えた。強がりでも何でもない。前のオーバーフロウを起こした時なんて、暫くは苦しかった記憶があるけれど、今はもうこのまま立って歩いても平気だと思える位、安定している。

「今回は救助が早かったお陰でしょう。イーストセクターの合流と、増援が遅れていればまた生死の境を彷徨っていたかも知れません」
「イースト……そう、グレイは!? グレイもあの場にいたんです!」

 思わず上体を起こして声を上げる私に、ヴィクターは顔色ひとつ変えずに淡々と答えた。

「彼も別室で療養しています。と言っても『いつもの』失神ですから、すぐに回復すると思いますが」
「良かった……いや、全然良くないけど」

 そもそも、グレイはHELIOSを退所し、ヒーローとしての能力も失う、という話だったはずだけれど、今現在どんな状況なのか見当も付かない。まだ不正の件は解決していないのか、もう取り返しの付かない状態なのかも。
 ヴィクターならすべて知っているはずだ。今ここで聞かない理由はない。

「あの、ヴィクターさん……!」
「そういえば、薬は使わなかったのですね」
「はい?」

 質問の意味が理解出来なくて、咄嗟に呆けた声を出してしまった私に、ヴィクターは私が持っていたはずの錠剤を差し出してみせた。

「私以外の者に見つかるとさすがに支障が出ますので、ルリの衣服から回収させて頂きました」
「あ、そういう……実は使おうとしたんですが、タイミングが掴めなくて」
「そうですか、残念ですね」

 ヴィクターが私を実験体にしようとしているのは察しているけれど、まさか私が薬を飲まずにオーバーフロウを起こした事をこうもはっきり残念と言われるとは。まあ、何を考えているかも分からない無表情で言われれば、怒る気にもならないのだけれど。

「どうしますか、ルリ。今後薬に頼る機会がある時に備え、回復次第お渡しする事も出来ますが」
「……すみません、今は即答出来ません。検討はします」
「分かりました。いつでもお声掛けくださいね」

 ヴィクターは特に落胆するでもなく、口角を上げて薬を仕舞い込んだ。あっさりと引き下がってくれてどこか安堵している自分がいた。薬の効果や副作用も分からないし、今回のようにすぐに回復出来ない可能性だってある。楽してトラウマを克服しようとするよりも、地道に頑張った方が良い。自分自身に誠実でありたいというより、単なる『逃げ』に近いけれど。

 突然、部屋の扉が外から叩かれた。誰なのか予想するよりも先に、ヴィクターが歩を進めて扉を開ける。その先にいたのは、第13期生のメンターリーダーであるブラッド・ビームスだった。

「……取り込み中か」
「いえ、ちょうど話は終わりました」

 一瞬躊躇ったブラッドをよそに、ヴィクターはあっさりと言い切ってすれ違うように部屋を後にしようとした。
 まだ話は終わっていない、と私はヴィクターの背中に向かって声を上げた。

「ヴィクターさん! あの、グレイは大丈夫なんでしょうか?」
「相変わらずルリの質問は具体性に欠けて、回答に困りますね」

 つい前もこんなやり取りをしたばかりだ。回答は期待しないでおこう、と思った瞬間、ヴィクターの代わりにブラッドが口を開いた。

「ルリの質問は俺が巻き取ります」
「そうですか。よろしくお願いしますね」

 ヴィクターはそう告げて部屋を後にして、入れ違いにブラッドが室内へと歩を進めた。

「アキラに続いてルリもとは……全く、無茶をするな」
「アキラくんもオーバーフロウを?」

 最近はオスカーと会話する機会も減って、サウスセクターの状況が詳しく分かっていなかったのだけれど、まさか入所一年目でそんな事になるなんて。ブラッドの様子を見る限り、アキラは特に命に別状はなそうだけれど。

「尤も、今回は相手が相手な上、増援部隊もその事を把握出来ていなかった以上、ルリの単独行動を止められなかったのは致し方ない話だが……」
「『相手が相手』?」

 あのイクリプスは、一度対峙すればその『異質さ』が分かる。後で駆け付けてくれたイーストセクターの皆も理解したと思うし、ジェイ経由でブラッドにも報告が上がっているだろう。ただ、まるであのイクリプスの正体を知っているかのような言い回しが気に掛かった。

「――いや、こちらの話だ」

 残念ながらはぐらかされてしまった。機密事項なのか、それともブラッド個人の憶測の段階で他言出来ないのか。どちらにせよ、私が関わる範疇ではない。

「それより、グレイ・リヴァースの事だが」

 ブラッドは私の傍に来て、近くにある椅子に腰掛けた。その先の話を待つより先に、私は自然と身を乗り出していた。

「グレイは……どうなってしまうんですか?」

 自分でも驚くほど声が震えていて、恥ずかしくもまた泣きそうになっていた。それほどまでに、グレイの事が心配で仕方なかった。

「ブラッドさん……私、どうしてもグレイにヒーローを辞めて欲しくないんです。HELIOSに所属する立場として、有るまじき事を言っていると分かっています。それでも……」

 こんな事を言うなんて、本当にヒーロー失格だ。グレイがヒーローを辞めるなら私も辞めるべきだと思うほど、私はグレイの事を好きになっていた。こんな感情論で将来を台無しにするなんて、傍から見ればどうかしている筈だ。だから、ブラッドが喝を入れるか呆れて見放すかのどちらかだと思っていた。けれど、

「まずは一番最初の質問に答えよう。ルリ、グレイは大丈夫だ」

 一番最初の質問、とは私がヴィクターに向けて放った言葉だ。大丈夫、とは本当にどういう意味なのか。いざこうして回答を貰って、漸くヴィクターが漠然とした質問に対して困惑する理由を身を以て理解した。
 ブラッドも私の胸中を分かっているようで、怒ったり呆れたりするどころか、優しい微笑を浮かべてみせた。

「実は、グレイの処分を見直す方向で動いている。意外にも、ヴィクターが必死で上層部を説得したお陰でな」
「見直す……!? じゃあ、グレイはヒーローを辞めなくて済むんですか!?」
「確定ではないがな。今後の対応については検討中だが、グレイの頑張り次第と言ったところかも知れん」

 私が意識を失っている間にそんな事が起こっていたなんて。とにかくグレイがヒーローを辞めずに済みそうな事が嬉しくて、一気に涙が溢れて来た。

「良かった……」

 みっともなく涙を零す私に、ブラッドがハンカチで拭ってくれた。男と女というより、大人と子供みたいで情けなく感じたけれど、それよりもグレイの事が嬉しくて仕方がなくて、取り繕う余裕なんてなかった。グレイの処分がなくなると確定したわけじゃないけれど、チャンスが与えられるだけでも充分だ。

「ブラッドさん、ごめんなさい、私……」
「構わん。お前がグレイに人並ならぬ思いがあるのは、我々も理解しているつもりだ」
「……は?」

 涙が引っ込むなんてあるのだと、この瞬間生まれて初めて体感した。
 百歩譲ってブラッドだけが、私がグレイの事を好きだと知っているならまだ分かる。いや、そんな感情匂わせた事もないし全く分からないけれど。というか、『我々』ってどういう事? まさか私の感情がHELIOS全体に知れ渡っているとか? そんな事有り得ない――いや、私がグレイ(正確には別の人格)に拒否された時、周囲がこそこそと『淡雪ルリがイーストセクターのルーキーに振られた』なんて言っていた……気がする。だとしたら、皆が知っていても全くおかしい話ではない。
 混乱して、別の意味で泣きそうになっている私に、ブラッドは当たり前のように言葉を紡いだ。

「お前がトライアウトを受けた時、何と言ったか覚えているか?」
「は、はい?」

 目の前で苦しんでいる人がいたら、迷わず手を差し伸べたい。今の私ではまだ弱く、躊躇ってしまう時もある。だから、ヒーローになって、躊躇なんてする必要もないほど強くなって、たくさんの人たちを助けたい。
 もう二度と、後悔しないように。

「あの、それが何の関係が……」
「試験官に熱意を語った際、『苦しんでいる人が目の前にいて、躊躇した事が実際にあったのか』と聞かれて、何と答えたか覚えているか?」

 さすがに六年以上前のやり取りを一語一句覚えてはいない。何を言わんとしているのか理解できず、無言で混乱している私に、ブラッドは答えを告げた。

「『アカデミーで同級生の男子が虐められていて、自分は何も出来なかった。その子は私よりもずっと頭が良くて、悪い事なんて何もしていない。けれど、助けたら今度は自分がターゲットにされる。そう思うと恐くて、見て見ぬ振りをしてしまった。だから、ヒーローになって力だけでなく心も強くなりたい』――多少文言は異なるだろうが、俺はそう聞いている」
「そ、そんな……い、言ったかも知れません……」

 あまりにも忘れたい出来事は記憶から抹消される、都合の良い脳をしていたつもりでいたけれど、こうして強引に思い起こされるような事を言われると、さすがに嫌でも思い出す。
 こんな馬鹿正直に答える奴が、トライアウトに受かるわけがない。実技がどれだけ良くても人格でアウトだ、とこの日は非常に落ち込んで家に帰ったのだけれど……意外にも合格してしまったのが事の顛末だ。実技が大変良くできたからだろう、と自分に言い聞かせて、都合の悪い事は脳内から消し去っていたのだ。

「その男子とは、グレイ・リヴァースの事じゃないのか?」
「はひっ、そ、そう……って、馬鹿正直に言ったらグレイの名誉に傷が……」
「同級生且つルリより成績上位、となればそこそこ絞られて来る。13期生のデータを見た瞬間、もしや、と思ってな」
「うう……あの、その事ってもしかして相当の人数が知ってます……?」
「そこまで細かい事に気を留めている者が多いかは即答出来んが、俺とジェイ、リリー教官、……それと申し訳ないが、この話題を出した際にキースも同席していた事がある」

 口の軽い人たちではないのが幸いだけれど、そこまで私の存在が認知されているのかと、嬉しいのか悲しいのか――どちらかというと後者だ。同期のアッシュとオスカーは今やメンターとして出世していて、かたや私はずっとくすぶり続けている。気に掛けるとしたら、悪い意味でしかない。

「そこで、お前たちが再会して打ち解ければ、相乗効果で良い方向に向かうのではないか……とジェイに相談もしている。そこからはルリも知っての通りだと思うが」
「なるほど、そういう話の流れだったんですね」

 ジェイが突然、グレイとアッシュの確執を探って来て、最後には「グレイの支えになってやってくれ」などと言うなんて、何らかの示し合わせがあるような気がしていたけれど、これで全ての辻褄が合ったというか、妙に納得した。

「ルリもなかなか本来の力が出せず、もどかしい日々を送っていたのではないかと思っていてな。グレイと接触する事でルリ自身も成長出来るのではないかと……余計なお世話だと分かってはいるのだがな」
「いえ! 余計なお世話どころか、グレイと再会出来て本当に幸せです……」

 今度こそ涙も完全に止まって、呑気にそんなことを口走ってしまったけれど、私が恋愛感情を抱いているかどうかなんて、今の話だと誰も思ってはいない。こんな発言をしたら自分から暴露しているようなものじゃないか、と焦りで一気に顔が熱くなるのを感じた。
 ただ、幸いブラッドは人の色恋沙汰を茶化すような人ではなく、そこは多分、敢えて聞かない振りをしてくれていたと思う。それか、それ以上の事は全く興味がないか。

「お前が立ち直ってくれたなら何よりだ。ただ、無理はするな。力を上手くコントロール出来なければ、命を落とす危険があるという事は常に肝に銘じておけ」
「はい! もっと上手くこの力と付き合えるように……色々と模索してみます」
「それと、一人で抱え込むな。周囲に頼るのは全く悪い事ではないからな。俺もオスカーも以前のように関わる事は難しいが……諸々の事が落ち着けば、また食事にでも行こう」
「ありがとうございます、その時は是非、アキラくんとウィルくんも一緒に」

 ブラッドは一通り話し終えると、「まずは静養するように」と告げて部屋を後にした。
 静かな病室で一人になって、薬剤がゆっくりと落ちる点滴のバッグをぼんやりと眺めていると、随分と時間の流れがゆっくりに感じる。こんなゆったりした、何もしない時間なんていつぶりだろう。
 グレイがヒーローを続けられるかもしれない、ただそれだけで幸福感に包まれていた。絶対になんとかなる、なんて根拠のない自信に溢れていて、我ながら単純だと自嘲してしまった。次に目を覚ます時は、グレイに会う事が叶うだろうか。会ったら何を話そう。色んな事を話したいし、グレイの事をもっと知りたい。そんな事を考えているうちに、自然と深い眠りへと落ちていった。今度は笑顔で会える事を心待ちにしながら。

2021/06/16
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