教会を訪れる機会なんて、自身が信徒かあるいは教会自体が観光地と化している場合ぐらいだ。ごく普通の住宅地にひっそりと佇む教会は、特にクリスチャンでも何でもない家庭で育った、子どもの頃の私にとっては近寄りがたいものだった。勝手に知らない場所に入ってはいけないという親の教えもあるけれど、単純に教会という美しい建築物が幼い私にとっては崇高に見え、自分のような人間が気軽に立ち寄ってはいけない場所なのだと漠然と感じていた。

 近所の教会に足を踏み入れる事は人生で一度もないと思っていたけれど、人生とは不思議なもので、ふとしたきっかけで妙な縁が生まれる事もある。
 私がまだ小学生で、アイドルを目指す事すら考えていなかった頃の話だ。



「あの教会、『恵まれない子どもたち』がいるんだって」

 放課後の帰り道。ちょうど通り道になっている場所に佇む教会のそばで、友達が何気なくそんな言葉を口にした。
 その表現が何を意味するのか瞬時に理解出来ず、黙っている私を見て、友達はどこか得意気に笑みを浮かべて解説する。

「お父さんもお母さんもいないって事」
「……孤児院みたいな感じ?」
「だと思う。可哀想だよね〜」

 心からそう思っているとは思えない程軽い口調で紡がれる同情に、私は「そうだね」とだけ答えて、教会を横切った。
 両親がいない子どもたちは、傍から見れば『恵まれない』と簡単にレッテルを貼られてしまうのだろう。まだ口にして良い事と悪い事の区別も付かない子どもは残酷だ。
 けれど、本当に可哀想なのかどうかは、実際にその立場になってみないと分からない。例え両親のいない境遇であったとしても、そういった子どもたちを保護する教会が満足な衣食住を与え、社会に出るまで面倒を見てくれて、虐待もないのであれば、それを簡単に不幸だというのは想像力に乏しい。今、この教会で平穏に暮らしているのなら、それを可哀想だと決めつけるのは違うのではないか。幼い私はそういったもやもやとした感情を上手く言語化できずに黙っていた。

 私の家はいわゆる機能不全家族というものに近く、家にいる時間は憂鬱で、学校にいる間のほうが心が休まると思うほどだった。子どもの頃はそれが当たり前だと思って生きていたけれど、歳を重ねれば、自分の家が他所の子とは違うと嫌でも分かるようになる。
 自分の環境が歪だと気付き始めてからは、家を出る事ばかり考えるようになっていた。通り道の教会のそばを横切る度に友達の言っていた『恵まれない子ども』という単語が脳裏をよぎり、自分のほうが余程不幸なのではないかと、泣きたい気持ちを必死で堪えた。そうして、いつしか教会の中の世界に思いを馳せながら、遠目に眺める習慣が付いていた。

 転機が訪れたのは、ついに耐え切れなくなって家を飛び出したある日の夜の事だった。

 勢いに任せて家を出たは良いものの行く当てもなく、夜の道をふらふらと彷徨う私の足は、自然と見慣れた教会へと進んでいた。
 けれど、教会の固く閉ざされた扉の前まで来た瞬間、そもそも親がいる私は保護の対象ではないのだと今更ながら気付き、どうしたら良いか分からず呆然と立ち尽くしてしまった。

 のこのこと帰ったところで、酷いことを言われるのは目に見えて分かっている。それよりも、己には逃げる場所すらないと突き付けられた事が耐え難かった。
 恵まれない子どもなのは、私だ。
 耐え切れず双眸から涙が零れそうになった瞬間、目の前があたたかな光で照らされた。
 固く閉ざされた扉が開いたのだ。

「――迷える仔羊よ」

 目の前に現れたのは、この教会を管理している大人のひとではない、自分より少し年上に見える男の子だった。

「どういう事情かは分かりませんが、宜しければ話を聞きましょう。尤も、俺で解決できるかはわかりませんが」
「……あ、あの! すみません、そういうつもりじゃ……」

 一瞬頭が真っ白になってしまったけれど、その口振りから、彼は教会に保護された子どもではなく、『教会の人間』なのだと察した私は、慌てて取り繕おうとした。入信に来たわけでもなければ、保護される資格があるわけでもない。ここにいては迷惑になる。そう思った私はとにかくここを去ろうと後ずさった。

「教会の門は常に開かれています。勧誘するつもりもありませんので、安心して頂けると助かりますな」
「でも……」
「迷惑でもありません。涙で頬を濡らす者を助けるのもまた、聖職者の務めですから」

 口角を上げ淡々と告げれば、こちらに向かって手を差し出す少年に、私は最早抗う理由も思い浮かばず、半ば諦めるようにその手を取った。
 この夜の出会いは一生忘れる事はない。相手にとっては当たり前の事をしただけだとしても、私にとっては、例え一時的なものであっても間違いなく救われ、その後の人生の支えになったのだから。





「あの、どうして外に私がいるって分かったんですか?」

 手を引かれるまま教会の中に足を踏み入れ、共同生活を送っていると思われる子どもたちのいる部屋へと迎え入れられた私は、未だ己の手を繋ぐ少年へと訊ねた。偶然だとしたら、本当に神様はいるのかも知れない、いっそ入信してしまえば私は救われるのではないかという考えが浮かんだからだ。

「足音と人の気配がしましたからな」
「聞こえたんですか? そんなに大きい音を出したつもりはなかったんですが……すみません」
「いえいえ。俺は人より耳が良いようで、僅かな音でも自然と聞こえるんです」

 どうやら神様が巡り合わせてくれたわけではないらしい。やっぱり非科学的な事など信用すべきではないと少しばかり落胆しつつ、私は少年に促されるまま椅子に腰掛けた。私の隣に座り、穏やかな微笑を湛えながら傾聴の姿勢を見せる少年に、私はかえって何も言い出せなくなってしまった。

「……あの、やっぱり私、帰ります」
「無理に話そうとしなくても大丈夫ですよ、そもそも得体の知れない相手に胸の内を明かすのは抵抗があるでしょうしな」
「いえ、得体はわかりますが……聖職者、ですよね?」

 この教会に足を踏み入れる前、少年がそう自称していたのをふと思い出して恐る恐る訊ねると、彼はこくりと頷いた。

「はい。牧師……と言って良いものか悩みますが。祢宜と言えば分かるでしょうか」
「ね、ねぎ……?」
「おや、かえって混乱させてしまいましたな。すみません」

 宗教というものに馴染みがない生活を送っているとはいえ、無知な自分が恥ずかしくて俯いてしまい、言葉を返すことも出来なかった。
 ただ、このまま黙っていても時間が無意味に過ぎるだけだし、目の前の少年の時間を奪っている事にもなる。この大部屋には一緒に生活していると思われる子どもたちもいて、ますます自分はここにいてはいけない存在なのだと思わざるを得なかった。自分に居場所がないのは同じだ。家でも、ここでも。

「居心地が悪いと感じているかも知れませんが」

 まるで私の考えている事を読み取ったかのように、少年は淡々と言葉を紡いだ。

「俺としても教会の前で泣いている子をこのまま何もせず帰すのも忍びないです。いつものように、教会を眺めているだけとは訳が違いますから」

 いつものように、というのは私にいつの間にか身に付いていた習慣の事を言っているのだとすぐに察し、私は居た堪れなくなった。じろじろ見られて嫌な気持ちにならないわけがないと思ったからだ。俯いていた顔を上げ、視線を少年へと向ければ、深く頭を下げた。

「ごめんなさい」
「何故謝るのでしょうか? 別に悪い事をしているわけではないのですから、必要以上に頭を下げるのは止めた方が良いですよ。ええと……」

 彼は何か言い留まった後、再び私の手に触れた。思わず顔を上げると目が合って、その双眸を捉えた瞬間、何故か顔が一気に熱くなった。どこか浮世離れしたような雰囲気を漂わせ、あたたかな微笑は全てを受け容れてくれると錯覚してしまいそうで、特別な感情を抱くのにそう時間はかからなかった。

「俺は風早巽といいます。名前も分からない相手に悩みを打ち明けるのも抵抗があるでしょうしな。名乗るのが遅れてすみません」
「いえ、そういうわけでは……」

 別にこの少年の名前が分からないせいで言えないわけではないのだけれど、名乗られたからにはこちらも名を明かさないといけない。それに、悩みを打ち明けるというより教会を訪れた理由を説明しないことには、この風早巽という少年も納得しないだろう。このまま黙っている方が、余計迷惑を掛けてしまう。

「……花城光莉です。私の、名前」
「光莉さん、宜しくお願いします。これで一先ず赤の他人ではなくなりましたな」

 ほぼ強引に握手をされて、もう逃れられないと観念するしかなかった。まあ、教会を訪れた時点で、私はきっと誰かに話を聞いて貰いたかったのだろうと思う事にした。どうしていいか分からず自然と辿り着いたとはいえ、無意識に救いを求めていたのかも知れないから。
 ただ、この当時の私は、状況を説明する能力に欠けていて、言いたい事の一割も言えなかった。

「……家に居場所がないんです。耐えられなくて、家を飛び出して、気付いたらここに」
「耐えられない、という事は、一時的ではなく随分と長い間そういう思いをしているという事でしょうか」
「はい……でも、こうやって逃げたところで何の解決にもならないと、冷静になって分かりました。折角中に入れて貰ったのに申し訳ないです」

 一時的に逃げたところで、余計家に帰りづらくなるだけだ。長居するよりもなるべく早くここを去った方が、何よりも自分がこの後辛い思いをしなくて済む。我ながら身勝手だと思いながら立ち上がると、彼も少し遅れて立ち上がれば、私の顔をまじまじと見遣った。

「あ、あの、何か……」
「不躾ですが、ご両親から暴力を振るわれたりはしていませんか?」
「それはないです。そういう、分かりやすいのではなくて、なんというか……上手く説明できないんですけど」
「尋問するつもりではないので、無理に言わなくても大丈夫です。外傷はなくても心の傷も厄介ですからな」

 彼はそう言えば、まるで子供をあやすように私の髪を優しく撫でた。人に撫でられる機会なんて、思い出せないくらいなかったせいか、驚いて一瞬肩を震わせてしまったけれど、不思議と胸が高鳴った。優しく触れられるだけで、人はこんなにもあたたかな気持ちになるのだろうか。

「辛くなったらまたいつでも来てください、教会はいつでも弱き者の味方です」
「……はい、気が向いたら」

 逃げ癖が付いたら困りそうだ、とつい素っ気無い返事をしてしまったけれど、そう言って貰えただけで随分と心が軽くなった気がした。何も解決しなくても、心を守れる場所にいつでも行けると考えれば、これからもなんとか頑張れそうだと思ったからだ。

「家庭の事情にあまり踏み込むのも如何かとは思うのですが」

 彼は言うべきかどうか言い留まったものの、少し思案したのち、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「俺がこれから言う事は、あくまで選択肢のひとつとして、頭の隅に留めておくだけにしておいてください」

 その言葉に、私は素直に頷いた。神様などいるわけがなく、見えないものに縋ったところで人生が変わるわけではないと思っていたからか、当たり前だけれど彼に対して特に期待はしていなかった。

「これから進学する際、寮のある学校を選べば、波風を立てず合理的にご両親から離れる事が出来ます。尤も、その頃には光莉さんの御家庭の状況も良い方向へ変わっているかも知れませんが」

 寮生活を送るとなると高校の話だ。そんな先の事なんて知るわけがない。そう思いながらも私はとりあえず頷いてみせたけれど、結果的にこの人を追い掛けて玲明学園に入学し寮生活を送る事になるなど、当然分かる筈もないのであった。

「では、俺が家まで送りましょう」
「いえ、大丈夫です。近所なので。私なんかより、ここにいる子たちの面倒を見てあげてください」

 言った後、知ったような口を利いてしまったと後悔したけれど、彼は特に気にしてない様子だった。

「私なんか、などと仰られないでください、人は神の下に平等です。ご自身よりも周りの事を気遣える光莉さんならば、いつか神が報いを与えてくださいます」

 善行を積めば幸せになれる、というのは大体どの宗教でも同じだろう。信徒ではなくても、良い事をしていればいつか自分に返って来るぐらいの軽い気持ちで考えるのは誰しもある事だ。神様なんて信じていないけれど、彼の言葉に耳を傾けるのは良い事かも知れない。素直にそう思えたのは、既に自分にとって彼が特別な存在になりかけているからなのだろうか。

「……ありがとう、巽くん」
「いえいえ、聖職者として当然の事を言ったまでです。寧ろ直接何も出来なくて申し訳ないですが……繰り返しになりますが、いつでも来て構いませんからな」
「……はい、ご迷惑でなければ」

 そうしてこの夜を境に、私の人生は少しずつ良い方向へと変わっていった。本当に神様が存在して、私の人生を軌道修正してくれたのかは分からない。けれど、風早巽という少年に恋心を抱いた私は徐々に前向きに生きられるようになった。小学校を卒業して中学生になり、暇を持て余す時間が減った後も、私は何かと理由を付けて教会を訪れた。ここに住まう人達の邪魔にならないよう、日を空け、時間を見計い、日があまり空いていなければ遠目から教会を眺め、風早巽という少年へと想いを馳せていた。

 そして月日は流れ、彼が玲明学園へ進学する事を知った私は、自分の進路に最早迷いはなかった。その先に待ち受けていた彼の運命を知る由もなく、私は親元を離れ、華やかに見える残酷な世界へと踏み出していったのだった。

2020/04/05

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