「はあ……本当に申し訳ありません。HiMERUも大概どうかしていたのです」
「は?」

 明らかに切羽詰まった状況で、助けを求めているかも知れない、と思ってわざわざ玲明の寮からESビルまで駆け付けたというのに、玄関口で出迎えてくれた彼は、事もあろうに私のこの労力を無駄にするような言葉を溜息混じりに言いのけた。

「あの、HiMERUさん。私は桜河くんが行方不明だと聞いて、駆け付けたわけですけど……『どうかしていた』ってどういう意味ですか」
「桜河の件ですが、どうやら身の安全は保障されているようなのです」
「……それって、つまり拉致ではなかった……と?」
「拉致である事に変わりはないのですが、『向こう』にしてみたら桜河を保護したという認識でしょう」

 きっと、彼が私に連絡してからここに駆け付けるまでの間に、桜河くんについて詳しい事が分かったのだろう。そう思う事にした。まさか知っていて言わなかった、なんて事はしないだろうし、だからこそ『大概どうかしていた』なんて台詞が出てきたのだ。冷静に考えて、私に呼び寄せても何の解決にもならないと気付けない程、彼は狼狽していたという事だ。

「詳しい事は分かりませんが……桜河くんが無事で、安全な場所にいるなら良かったです。それに、HiMERUさんも」
「――花城、HiMERUの事を気に掛けてくれていたのですか?」
「勿論ですよ。じゃないと、MDM前日の夜にわざわざこうして来るわけないじゃないですか」

 出会い頭に言われた事の仕返しで、つい嫌味っぽい言い回しをしてしまったけれど、彼は特段気にせず、寧ろ口角を上げてみせた。

「花城の貴重な時間をHiMERUに割いて頂けるなんて、光栄です。偶には我儘も言ってみるものですね」
「どの口が言ってるんですか。まあ、こんな状況でもHiMERUさんがいつも通りでほっとしましたけど……」
「ええ、不測の事態が起こった時こそ『いつも通り』を心掛けるべきなのです。と言っても、花城に連絡した時点で説得力に欠けますが」

 彼は眉を下げて自嘲気味に笑っていて、やっぱりこのまま放ってはおけない、などと思ってしまった。この人とは単に二年前に同じ学園の生徒だったというだけで、最近になって再会した、ただそれだけの関係なのに。
 本当に、ただそれだけ――というか、結構重要な事を忘れていた。

「あの、HiMERUさん。そもそもどうして私の連絡先を知ってたんですか? ユニットの子たちに『どういう関係なんですか?』なんて聞かれて焦っちゃいましたよ」
「おや? どんな関係だと答えたのですか?」
「ありのままを言いましたけど!? もう、どういう事か説明して貰うまで帰りませんからね!!」

 聞きたい事がありすぎる。どうして私の連絡先を知っているのか、だけじゃない。だいたい、二年前ろくに関わりもなかった私に、どうして度々構うようになったのか。それに、天城燐音がいなくなった『Crazy:B』は今後どうするのか。昨日の今日どころか、今日突然あんな事があっただけに、まだ決めようがないとは思うけど……そこまで首を突っ込む必要などないというのに、やっぱりどうしても気掛かりで仕方なかった。





 MDMを明日に控えている為か、ESビル内は関係者の出入りはそれなりにあるものの、暇を潰しているアイドルはいないように見えた。とはいえ、ずっと立ちっぱなしで話し込むのもどうかと思い、私たちはコズプロが貸切るフロアへと移動する事にした。ビル内のカフェなど、下手に全事務所の共有エリアを使うよりも、そちらの方があらゆるリスクを避ける事が出来るからだ。巽さまも未だコズプロに所属してくれていたら、わざわざ寮で張り付くなんて馬鹿な真似をせずに済んだのに――などと、周りのせいにしても無意味だけれど。

「花城、あれから巽とは一度も会っていないのですか?」
「えっ!?」

 事務所に向かうエレベーター内で、突然そんな事を聞かれてつい素っ頓狂な声が口をついた。私の心を読んだのかと一瞬思ったけれど、そんなわけがない。単なる偶然だ。私も冷静にならないと。

「……会ってませんよ。ユニットの子たちに迷惑を掛けてまで巽さまに会いたいと思う程、私は恋愛脳じゃありませんから」
「漸く悪夢から覚めましたか。あんな男の為に築き上げたキャリアを捨てるほど、花城も愚かではないと分かり、HiMERUも安心したのです」
「あの……」

 一体何の権利があって私の人生にあなたがそこまで口出しをするのか、と言いたかったけれど、ちょうど18階へと止まり、話は一旦中断せざるを得なくなった。



 このESビルが完成し、まるで各事務所を一元化するような現状の体制へ切り替わってから四ヶ月程経ち、今ではすっかり寮と事務所を行き来する生活も慣れてしまった。玲明からここまでかなり距離があるものの、基本的にタクシー等の交通費は事務所持ちなので、そこまで不便だとは感じていない。

「――花城、砂糖は無くても飲めますか?」
「飲めますって。子供扱いしないでくださいよ」

 コズプロが所有する共有フロアで、彼はドリンクサーバーで淹れた二人分の珈琲を持って来て、私に手渡してくれた。お礼を言うよりも先に毒づいてしまったけれど、別に砂糖の有無と年齢は関係ない。寧ろこういう態度を取ってしまう方が、余程精神的に子供だと我ながら情けなくなってしまった。

「花城の事を子供だとは思っていません。体型維持の事を考えると、砂糖抜きで正解だとHiMERUは判断しましたが、念の為確認をと」
「そこまで分かってるなら確認しなくていいですって。甘い物の摂取は、MDMが終わるまで我慢するって決めてるので」
「正直、そこまで徹底しなくても問題ないとHiMERUは思うのですが……まあ、そうしないと後輩に示しが付かないのかも知れませんが」

 このフロアには今のところ誰もいない。お互いに備え付けの椅子に腰を下ろして、どう話を切り出そうか考えていると、先に口を開いたのは彼のほうだった。

「――花城。HiMERUの事については心配はいらないのです。天城はこれまでに稼いだL$を我々三人に残してくれました。一先ずHiMERUと桜河、それに椎名はクビにはならないと考えられます。ゆえにHiMERUは以前と同様、ソロで活動していくまでです」
「そ、そうですか……でも、ソロでやっていけるんですか? 天城さんも言ってたじゃないですか、もう今の業界ではソロは……」
「…………」

 続きを言おうとしたけれど、それは彼の今後の活動を否定してしまう事になる。反論もせず無言でいる彼の様子に、余計な事を言ってしまったと気付いて、慌てて取り繕おうとした。

「で、でも! HiMERUさん程の実績があれば、また誰かとユニットを組んで活動出来るよう、コズプロも考えてくれると――」
「HiMERUはもうユニット活動は懲り懲りなのです」
「……そうですか? Crazy:Bでは楽しそうに見えましたけど……」

 嘘偽りのない、何気なく口をついた私の発言に、彼は一瞬目を見開いた。何かおかしなことを言っただろうか……言ったのだろう。少なくともこれまでのCrazy:Bの悪行、および今日の天城燐音の発言を鑑みれば、こんな発言をするのはおかしい。

「HiMERUさん、お気を悪くされたらすみません。決して悪い意味で言ってるんじゃないです」
「……いえ、HiMERUを心配してわざわざ来てくれた花城が、悪い事を言うとは思っていません。ただ、あまりに意外だったので、不覚にも驚いてしまいました」
「Crazy:Bでは楽しそうに見えた、という事が……ですか?」

 彼はこくりと頷いて、感情のない瞳を私へ向ける。彼の事は深くは知らないけれど、少なくとも『Crazy:BのHiMERU』というアイドルは、ステージ上ではソロでは見た事のない溌剌さがあった。ただの主観でしかないけれど。

「花城、もしかして……天城の発言を信じていませんね?」
「あ、三人を脅してたって事ですか? 当たり前じゃないですか。Crazy:Bの皆さんとはあまり交流はありませんでしたけど……それでも、そんな関係には見えませんよ。私の見える範囲では、ですけど」
「それにしては、随分はっきりと言い切るのですね」
「だって、『今』のHiMERUさんが脅しに屈するようには思えませんし」

 そう答えて、漸く手元の珈琲に口を付けた。苦い。砂糖もミルクも一切入っていないブラックコーヒーを飲む機会は、実はあまりなかったりする。明日のMDMが終わったら、糖分たっぷりの珈琲どころかフラペチーノを摂取してやろう、なんて呑気な事を考えながら苦い珈琲を啜っていたけれど、ふと彼の方へ視線を遣ると、どこか心ここに在らずといった様子で、虚ろな表情を浮かべていた。

「……HiMERUさん? あの、私、変な事を言いましたでしょうか……」
「花城、『今』のHiMERUは、『二年前』のHiMERUとは別人に見えますか?」
「え?」

 質問の意図が分かるのに時間がかかり、つい反射的に呆けた声を出してしまったけれど、分かった瞬間、自分はなんて酷い事を言ってしまったのかと血の気が引いた。
 このタイミングで、二年前のあの忌まわしい記憶を蘇らせるような事を口にしてしまうなんて。これでは彼を助けるどころか、逆に追い詰めている。

「ごめんなさい、HiMERUさん……私……」
「何故謝るのですか? ただ、俺は――」

 彼は一瞬何かを言い掛けた後、まるで気持ちを切り替えるかのように頭を振れば、口角を上げて私に優しく囁いた。

「――こちらこそ、申し訳ありません。二年前の事を思い出したくないのは、花城も同じでしょう」
「そんな、私なんか……HiMERUさんの苦しみに比べたら……いえ、私如きが理解出来るような事ではないですが……」
「そう自分を卑下する必要はないのです。それに、別人のように見えるのは、HiMERUだけではなく花城も同じです」
「私も……?」
「ええ。二年前とは違い、花城も今は特待生として立派にやっているのでしょう? きっと、当時の特待生のように誰かを虐げる事もなく」

 なんだか話を逸らされてしまった気がする。彼が言いたかったのはそういう事じゃない。でも、この違和感を上手く言葉にする事が出来ない。彼は一体私の言葉の何に引っかかったのか、本当は何を伝えたかったのか。
 その真意に気付くより先に、私たちの会話は強制的に終了せざるを得なくなった。
 本来ここにいる筈のない人物が、声を掛けて来たからだ。

「あ、あの! 花城光莉さん、ですよね……?」

 初めて聞く女の子の声。知り合いではない。彼と共に声のした方へ顔を向けると、そこにはスーツ姿の、でも私と歳は変わらなさそうな女子がいた。

「はい、そうですけど……ええと、失礼ですが、」
「花城。あの方は恐らく『P機関』の――」
「あ! えっと、確か『あんず』さん?」

 顔と名前はなんとなく知っている。この『ES』が実現するに至ったのは、財閥の御曹司・天祥院英智だけの力ではない。夢ノ咲学院唯一のプロデューサーである『あんず』。彼女の功績が多大なる影響を与え、今現在も学園の枠を飛び越えて、このESで特別に様々な権限を与えられている人物でもある。
 そんなに凄い人には見えないけれど、人は見掛けでは分からない事は、玲明学園でも散々身をもって理解した。普通の女子に見えて、その中身はとてつもない能力を秘めているのだろう。
 私はコーヒーカップを机上に置いて慌てて立ち上がって、彼女の傍へ駆け寄れば、深々と頭を下げた。

「あんずさん、すぐに気付けずに申し訳ありません」
「え!? ええと、そんな改まらなくて大丈夫、だよ? 私たち、同い年だし」
「お気遣い、ありがとうございます」

 顔を上げると、敏腕プロデューサー『あんず』は、少しばかり困惑した様子で笑みを作っていた。こうして対面するだけでは普通の女子に見えるけれど。というか、私に何の用だろう。

「――あんずさん。花城の態度が慇懃無礼と感じるかも知れませんが、玲明ではこうするよう教育されているのです。決して悪気はありませんので、そこだけはご理解頂ければと」

 いつの間にか二人分のコーヒーカップを持った彼が、私の後ろでそう告げると、そのまま私たちから離れて行こうとした。

「あの、HiMERUさん! 話はまだ……」
「花城、今はあんずさんとの話を優先するべきです。ああ、それと言い忘れていたのです。椎名とは既に連絡が取れています。尤も、『今』どうしているかは分かりませんが」
「椎名さんも無事なんですね。話が出なかったので逆に大丈夫だとは思ってたんですが……連絡が取れているなら良かったです」
「では、HiMERUはこれで失礼します。花城、今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ。私としてはまだ話は終わってないので、また付き合って貰いますからね」

 彼はそれ以上は何も言わず、軽く頭を下げてカップを片付ければ、いつの間にかその場からいなくなっていた。まるでこれまで話していたのが夢かと錯覚するぐらい、余韻も何もあったものじゃない。というか、本当に話はまるで進まなかった。大体どうして私の連絡先をあの男が知っているのか。私にとってはある意味一番重要な事が聞けなかったではないか。少しばかり、このあんずという少女を恨みたくなった。

「あの、光莉さん……ごめんね。きっと、大事な話をしてたんだよね……?」
「いえ。さっき本人にも言いましたけど、また捕まえて話の続きをするので大丈夫です。それより、何の用ですか?」

 はっきり言って、私よりこのプロデューサーの方が多忙だろう。なにせ昨年は彼女ひとりで夢ノ咲のアイドル全員を見ていたという話だし、その能力を見込まれて、今はこのESで様々な事に携わっているのは想像に容易い。
 そんな多忙で、かつ権力のある人が、一体私のような一端のアイドルに何の用なのだろうか。

「これは私、というより天祥院英智氏の命令です。……花城光莉さん、今日はこれから私と一緒に過ごして貰います」
「……はい?」
「ごめんね、急で訳が分からないと思うけど……光莉さんのユニットの人たちには既に連絡して、許可を頂いてます」
「は!? いや、困ります! 私たち、明日『MDM』に出るんですよ!? 今すぐ帰って睡眠時間を確保して、明日に備えたいぐらいなんですけど!」

 いくら『P機関』のお偉いさんだからってあんまりだ。一体アイドルを何だと思っているのか。急で訳が分からないと分かっているなら、まず事情を説明するのが筋だ。しかも勝手にユニットの子たちに連絡して許可を得るなんて。私の知らないところで。相手は目上の人間だというのに、自分と変わらない年齢だからと無意識に怒りを露わにしてしまった私に、彼女は怯まず、それどころか嫌な顔ひとつしなかった。
 そして、私の手を強引に掴んで両手で包み込んで、真剣な眼差しを私へ向ければ、思いもしないとどめの言葉を放った。

「光莉さん。明日の朝、『ALKALOID』の風早巽さんに会って欲しいんです。……いえ、会ってください。これは英智先輩からの命令なんです」



 その言葉で致命傷を負った私は、それ以降何があったのかほぼ覚えていない。気付いたら私は見慣れない寝室に『あんず』と一緒にいて、彼女は玲明の寮にいる仲間たちへ連絡して、映像を繋いでくれた。端末の画面の向こうで『ちゃんと巽さまと仲直りしてくださいね!』『明日は現地集合で!』なんて言いながらわいわいと騒いでいる後輩たちを、私はただ呆然と見つめるばかりだった。



 頭が働くようになったのは、ベッドに潜って消灯してからだった。
 これは『あんず』の言った通り、天祥院英智のシナリオなのだろう。前夜祭の直前に私に向かって言った言葉が、間もなく現実になろうとしているのだ。まさかこんな急な話だとは夢にも思っていなかったけれど。彼女を使って私のユニットの子たちにも連絡するなんて、用意周到すぎて最早何も言えなかった。MDM前に私と巽さまを会わせる為、一晩私の身柄をP機関で確保する、なんて言ったら、あの子たちの事だから不安なんて吹き飛んで面白がっているだろう。

 MDMに備えてしっかり寝たかったのに。体は疲れ果てて休息を求めているのに、あまりにも様々な事があり過ぎて、頭の中で処理が追い付かなくて寝付けないまま、約束の時間――巽さまとの再会が叶う運命の時は、刻一刻と迫っていたのだった。

2020/12/20

Am Abend aber
desselbigen Sabbats

されど同じ安息日の夕べに
[ 23/31 ]

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