早く巽さまにお会いして直接謝らないと。自分が担当しているラジオ番組で、リスナーの子に偉そうな事を言ってしまった以上、自分の言葉に責任を持たなければならない。
 ファンが私のプライベートの行動まで把握しているわけでもなければ、私が謝ろうとしている相手が誰なのかも知らない。このまま謝らずにいて、番組でリスナーから訊かれた際に嘘を吐いて誤魔化す事は容易いけれど、それでは私の気が収まらない。

 そうは言っても、私は『ALKALOID』なるユニットでアイドル活動を再開した『今』の巽さまの行動パターンを把握していない。それに、スマートフォンは事務所の管理下にある為、連絡先も交換していない。これまで教会以外で巽さまに出くわす事が出来たのは、まさに神様の思し召しだったのだ。

 仕事の合間を縫って、巽さまが住まわれている星奏館へ来てみたものの、部外者である私が勝手に立ち入る事は許されない。ましてやここは男子寮であり、私が無理に押し掛けて私ひとりが処罰を食らうならまだしも、私が巽さまに会いに来た事が知られれば、私が何を言おうと巻き込んでしまう事になる。

 別に疚しい事をしようとしているわけではないのだから、寮監を呼び出してお伺いを立てれば、大事にならずに済むのだけれど、大前提としてそもそも巽さまは私に対して謝罪なんて求めていない。単に私が勝手にそうしたいからであって、巽さまにとってはそんな事をされたら迷惑で、寧ろ今は私の顔なんか見たくもないと思っているかも知れない。
 そう思っただけで、一気に気持ちが沈む。今までずっと巽さまの優しさに甘えていたという自覚はある。幼い頃も、玲明学園に入学してからも、そして、今も。

「――花城、こんな所で何をしているのですか」
「ひっ!!」

 突然背後から声がして、思わず引き攣ったような声が自然と出てしまった。本当に、神に誓って疚しい事など何もしていないというのに、心臓がばくばくと鼓動を打っている。取り敢えず落ち着かないと。私は何もしていないのだから。そう言い聞かせて深呼吸すれば、振り返って相手の姿を捉えた。

「こんにちは、HiMERUさん」
「今の時間は『こんにちは』で合っているのでしょうか?」
「へ?」

 指摘にふと周囲を見回すと、世界は橙色に染まりつつあった。次いで空を見上げれば、鮮やかなコバルトブルーは見る影もなく、朱色の空と白い雲が美しいコントラストを描いていた。
 ――まずい。今日は夜からESビル内でレッスンがあるというのに、一体どれだけの時間、星奏館の前で突っ立っていたのだろうか。今の時刻を確認しようと慌てて鞄の中を漁る私を見て、彼は感情のない声で呟いた。

「――ちょうど18時を回ったところです。この星奏館からESビルまで車で移動すると仮定して、渋滞情報を見る限りでは花城のレッスン時間には余裕で間に合うのです」
「え? あ、あの」
「徒歩では遅刻する恐れがあります。ここは素直にタクシーを使うべきだとHiMERUは提案します」
「あの……」

 最早時刻を確認する目的も忘れるほど、呆然としてしまった。当然だ、どうして私のスケジュールをこの人が知っているのか。有り難い提案に感謝するよりも、真っ先に抱いた感情は不信感だ。

「――どうしましたか? 行動に移さないところから察するに、スマートフォンの充電が残りわずかで電話を掛ける事が躊躇われるのでしょうか。では、HiMERUが代わりに――」
「あの! どうしてHiMERUさんが私のスケジュールを把握してるんですか……?」

 相手がプロデューサーやユニットのメンバー、百歩譲って玲明学園で親しくしている友人なら分かる。でも、この人と私はそこまで親密な仲でもなければ、こうして話すようになったのもごく最近――彼が『Crazy:B』というユニットでアイドル活動を再開するようになってからだ。
 私の問いに、彼は暫し考える素振りを見せた後、淡々と回答した。

「――『Crazy:B』がレッスンルームを借りようとしたところ、既に花城のユニットが押さえていたのです」
「そうだったんですか!? す、すみません……」

 冷静に考えればすぐに分かる事なのに。もしかしてこの人は私を監視しているのか、なんて良からぬ考えが脳裏をよぎってしまった事を恥ずかしく思い、私は何度も頭を下げた。でも、彼は幸い私の考えている事までは推察出来なかったらしく、彼なりの解釈で今の私の心情を口にする。

「――花城。HiMERUに頭を下げる必要などないのです。花城は自分の力で特待生になり、今やHiMERUとは立場が逆転するほど人気アイドルになっているのですから、必要以上に下手に出なくても、誰も花城を咎めたりはしませんよ」
「そんな、HiMERUさんに比べたら私なんて全然……」
「もう、二年前の悪夢は終わったのですよ。いつまでも過去に囚われていないで、今を生きるべきだとHiMERUは助言します」

 彼はそう言うと、スマートフォンを取り出して徐に電話を掛けた。私の代わりに連絡してくれているのだと思うと、ますます申し訳ない気持ちになって萎縮するばかりだった。





 どうして彼がそこまでしてくれたのか、タクシーが到着した後漸く理解出来た。私の為なんてわけがなく、彼もちょうどESビルに行く用事があったのだ。当然、流れとして一緒にタクシーに乗る羽目になってしまった。

「本当に奇遇ですね……偶然出くわして、行き先まで同じなんて」
「――奇遇ではないのです。『Crazy:B』は本来星奏館で共同生活を送らなければならないのですが、諸般の事情により、各々異なる居所での生活を許可されています。ゆえに、用があればHiMERUが星奏館に赴くのはごく自然な事なのです」
「そうですか……」

 彼の言葉は全て辻褄が合っている。全ての行動に確固たる理由があり、そこに個人的な感情は一切含まれていない。もしかしてこの人は私の行動を把握しているのか、なんて少しでも疑ってしまった自分が本当に恥ずかしくて、私はぎこちなく言葉を返す事を繰り返していた。

「――花城こそ、どうしてあんな場所にいたのですか? 目的もなく歩いていて偶然出くわしたのであれば、『奇遇』という言い回しも理解できますが。アイドルを演じていない時の素の花城は、あんな場所に迷い込むほど抜けているとは思えないのです」
「私は素でも抜けていますよ、馬鹿にされるのも慣れてますし」
「行き過ぎた謙遜はかえって失礼になりますよ」
「…………」

 この話の流れだと、私が星奏館にいた理由を説明しなければならないようだ。二年前の事を思うと、この人にだけは言いたくなかったのだけれど、仕方ない。例え何を言われても、私にはそれを受け止め、耐えるしかない。

「……巽さまにお会いしたくて、あの場に留まっていただけです」

 本当の事を打ち明けると、彼は案の定溜息を吐いた。

「――まだそんな事を続けているのですか。今の花城の立場を鑑みると、下衆な週刊誌に嗅ぎつけられたら面倒な事になりますよ」
「疚しい関係ではないので問題ないかと思いますが……」
「花城がそう思っていても、事務所や関係者はそうは思わないのです。ましてや巽はコズプロを追放された身です。交友関係があるだけで眉を顰める上層部もいるかもしれません」
「そんな……友達として接するだけでも駄目なんですか?」

 私と巽さまの関係を『友達』と称するのが正しいかは一先ず置いておくとして、別に男女の関係でも何でもないというのに、いくら事務所の人間とはいえそこまで口を出すのはどうなのか。大体、巽さまはまだ玲明学園に在籍している以上、先輩と後輩の関係でもある。更には子供の頃から付き合いもあるし、何の理由もないのに交友関係を断てと言う方がどうかしている。

「花城は、本当に巽の事をただの友達だと思っているのですか?」
「え? ええと……先輩と後輩の関係でもありますけど」
「恋愛感情はないと言い切れますか?」

 あるわけがない、そう言い返したかった。仮に本心ではないとしても、この場で取り繕う事は容易い筈だ。それなのに、全く言葉が出て来なかった。まるで、嘘でも否定する事は絶対に許さないと、本心が訴えているかのように。

「巽の事を異性として意識していないと言い切れないのなら、尚更今後の付き合いは改めるべきですよ。ユニットとして活動している以上、花城がスキャンダルを起こせば他のメンバーにも少なからず火の粉は降りかかるのですから」
「皆は関係ないです! 最悪、私が脱退すれば……」
「あんな男の為に、必死で積み上げたキャリアを棒に振り、ファンを裏切り、メンバーに迷惑を掛け、花城をここまで育ててくれた恩師たちの好意を無下にするのですか?」

 どうしてこんな話になっているのか。私はただ巽さまに、たった一言謝りたいだけなのに。大体、この人に説教される筋合いはない。言っている事が全て正論であろうと、この人は私の友達でも何でもない。あれから二年経った今となっては、単なる同じ事務所に所属するアイドル同士、ただそれだけだ。

「――花城、泣いているのですか?」
「泣いてないです」

 そうは言ったものの、正論を吐かれた事にあまりにも腹が立って、悔し涙が出そうだった。絶対に見られまいと不自然に窓の外へと顔を向ける。窓ガラスに映った私の顔は仏頂面で、どう見てもお世辞にも可愛いとは言えない形相をしていた。

 タクシーはESビルの前へと到着し、この重苦しい空気から漸く解放される事に、私は柄にもなく神に感謝しそうになった。ただ、そもそも神様が存在するとしたら、それこそ神の采配で私は巽さまと偶然出くわして仲直り出来ているだろうし、こうして巽さまと因縁のある人物から説教を食らう事もなかっただろう。それか、神様は私の事を嫌っていて、わざと拗れる方向に持って行っているかのどちらかだ。

 彼の言った通り、レッスンの開始時間まではだいぶ時間がある。他のメンバーもまだ到着していないだろう。冷房の効いた車から出た瞬間、真夏の夕暮れの蒸した空気が肌に纏わり付いたけれど、そこまで不快ではない。そう感じるのは、精神的な解放感の方が勝っているからだと思う。

「HiMERUさん、ありがとうございます。新しいユニットで大変な中、タクシー代まで出して頂いて……」
「――ソロ活動時代の財産があるので、気遣いは無用です。寧ろHiMERUの顔を立てる為にも、ここは素直に甘えて欲しいのです」
「そんなに余裕もあって、アイドルとしての実力も色褪せていないのに……どうしてHiMERUさんが『Crazy:B』とかいうユニットにいるのか理解不能です」
「『我々』にも色々と事情があるのですよ。寧ろ、花城が未だ巽に縋り続けているほうが理解不能なのです」

 タクシー代を出して貰ったお礼を込めて褒めたつもりが、うっかり余計な事も口にしてしまったせいで、また話を掘り返されるとは。これ以上話していてもろくな事にはならない。私は彼に頭を下げれば、今すぐレッスンルームに向かおうと踵を返した。

「――もう行くのですか? レッスンの開始時刻まで、だいぶ時間がありますが」
「リーダーといっても年功序列みたいなもので、私は他の子たちと比べると技術も劣りますから。レッスンの時間まで、どこかで適当に自主練します」
「練習時間が長ければ良いというものでもありませんから、無理は禁物ですよ」
「ご忠告、ありがとうございます」

 話し掛けられたから一応礼儀として顔を向けて、言葉を返せば再び前を向いてビルの中へと歩を進めた。二年前の出来事を思えば、彼が巽さまの事を恨むのは十分すぎるほど分かる。そして、私が未だに巽さまを慕っている事を快く思わないのも、分からなくもない。
 けれど、どうしてここまで彼が私に干渉するのか。その理由はいくら考えても分からなかった。だって、二年前の彼は特待生で、私は落ちこぼれで奴隷のような扱いを受けていて……巽さまを崇拝するという意味では同じ志を持っていたけれど、彼と私はあまりにも立場が違い過ぎて、交流する機会すらなかったのだ。確か、一度くらいしか。
 それなのに、どうして今になって私に構うようになったのだろうか。今日のような事は一度や二度ではない。

「……なぁ、『HiMERU』。俺たちが気に掛けなくても、あの女は逞しく生きてるよ。思っているより、ずっと……」

 彼が虚空に向かって呟いた言葉は、私の耳に入る事はなく、ビルの中の喧騒にかき消された。この時の私は、HiMERUというアイドルの隠された真実など知る筈もなく、ただただ彼の気遣いを不可解に思うばかりだった。

2020/07/14

Dir zu Liebe,
wertes Herz

お前のために、かけがえのない心よ
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