冬木の地

 ウェイバーに別れを告げた後、優花梨はホテルに戻っても一睡も出来なかった。昨日は「ホテル併設のレストランじゃなくて、別のお店でモーニングを食べよう」なんて呑気な事を思っていたが、最早そんな心境ではない。

 ――ウェイバーを止められなかった。優花梨の目的が達成される事はなかったのだ。
 他人の所為にする訳ではない。だが昨日、雁夜が言った「最強のサーヴァントであれば、マスターの力不足は補える」という言葉がずっと頭に残っており、ライダーにウェイバーを託すという選択肢を選んでしまった。
 もう、時臣に合わせる顔がない。万が一、ウェイバーがライダーの力によって聖杯戦争に勝利した場合、それは時臣の敗退を意味するからだ。

 しかし、優花梨はホテルに戻って冷静になって考えた結果、自分の選択肢が間違っていた事に気付いた。そもそも大前提として「絶対に勝ち得る」という保障は、どのマスターにも無い。ウェイバーの召喚したサーヴァントが『征服王』イスカンダルであろうと、他のサーヴァントの方が強く、またマスターが狡猾な可能性だって無きにしも非ずだ。ウェイバーの安全の保障もない。
 やはり、ウェイバーを止めるべきだった。例え聞き入れて貰えなくても。
 最早今となっては、後悔先に立たずだが。

 部屋に備え付けられている電話が鳴る。ホテルの従業員からの、朝食の連絡だ。優花梨はその電話で初めて、今が朝である事に気付いた。不思議と眠気はないが、ふと部屋の鏡を見ると、酷く疲れた顔をしていた。睡眠はどうせ今晩の英国行きの飛行機に乗った後で、思う存分取れる。優花梨は重い足取りでレストランへと足を運んだ。

「柊様は今晩、日本を発たれると伺っておりますが」
 味わう気分にもなれず、機械的に食事を取っていると、突然従業員に話し掛けられ、優花梨は無言で相手を見上げた。
「差し出がましいのは承知しておりますが、もし本日時間があるのなら、今一度冬木を観光なさってはいかがですか?」

「…今は、そういう気分には…」
 優花梨はぼうっとした顔で返答するも、最早自分がこの地で為すべき事は何もない。そもそも英国へ帰るよう促したのは時臣であり、端からウェイバーを止める事など期待してはいなかっただろう。ならば、この従業員の言う通り、観光位しても罰は当たらないだろう。思えば、日中の新都をじっくりと見た事はなかった。
「……そうですね、折角なので少しでも色んな所を見てまわります」
 優花梨は今日初めての微笑を、従業員へ向けた。もしかしたら、優花梨があまりにも酷い表情をしていたから、気遣って観光を勧めたのかも知れない。いや、それすら時臣の指示かもしれない。考え過ぎか。
 突発的に日本に来たは良いものの、きっと時臣も綺礼も、こうなる事を予想していたのだろうと思うと、優花梨は溜息を吐かずにはいられなかった。
 ――要するに、私はまだまだ子供って事か。


 優花梨はホテルのチェックアウトを済ませ、3泊4日滞在したホテルへ別れを告げた。飽きがないと言えば嘘になるが、もう此処には来ないと思うと寂しさを感じた。なんだかんだで、安心して帰る場所があるというのは嬉しいものだ。

 早速、優花梨は新都の繁華街へ向かった。そういえば、初めて訪れた時は既に夜で、イルミネーションがとても綺麗だった。日中の繁華街も、これはこれで活気があって、見ている方も明るくなる。少しだけ気が晴れた。
 行く宛もなく歩いていても、まさかこんな日中に殺人鬼に出くわす事もないだろう。道順も、昨晩空中から見下ろした際に粗方把握したので、迷う事はない。優花梨は自由にあちこち歩き回って、英国とはまた違った日本の繁華街の雰囲気を味わった。

 すると、あちこちでざわめきが聞こえる。有名人でも歩いているのだろうか、それとも何かドラマの撮影か雑誌の撮影でもやっているのだろうか?
 優花梨は人々が視線を向ける先を興味本位で見ると、そこには、まるで自分達とは住む世界が違うであろう男女二人の姿があった。

 ロングストレートの美しい銀髪に紅い瞳。派手ではないが、それがより一層美しさを際立たせている、まるで人間離れした人形の様な美しい女性。
 そしてその女性の傍には、黒いスーツを身に纏った、金髪の青年、または少年と言うべきか。美少年、という言葉が実にしっくりくる容貌である。
 この状況はハリウッドスターがオフを楽しんでいる、とでも言うべきか。海外はおろか、日本の芸能情報にも疎い優花梨には、さっぱり分からなかったが、兎に角普通の人達ではない事は間違いない。その証拠に、道行く誰もがこの二人に魅入っていた。

 麗しい二人が通り過ぎ、この場を去るまで、優花梨はずっとその様子に魅入っていた。新都ではこの様な事もあるのか。深山町では有り得なかった。
 まさかその美女が『始まりの御三家』の一つ、アインツベルンのホムンクルスであり、傍らの少年が、男装したサーヴァント【セイバー】である等、ただの一端の魔術師である優花梨には分かる訳がなかった。


 優花梨は昼食をカフェテラスでしっかりと済ませた。夕食は取らないつもりだ。フライトは深夜だが、夜の道でも迷わないとは言い切れない。時間配分は過剰なまでに取っておいた方が良い。
 繁華街のショーウィンドウを眺めては、優花梨はふう、と溜息を吐いた。可愛らしい洋服。キラキラ輝くアクセサリー。どれもこれも魅力的に見えたが、如何せん自分の所持金は時臣から送金されているものである。無駄遣いする為に日本に来た訳ではないのだ。

 思えば、身に着ける服もアクセサリーも何もかも、時臣から送られたものだった。時臣から事ある度に送られる度、両親から与えられたものは捨てていった。そうして、残ったものは全て時臣からの贈り物だ。
 どう足掻いても、私は時臣様の傀儡なのだ。それで良い。良かった筈なのに。
 優花梨の表情は、みるみるうちに暗くなっていった。



 夕陽が見たい。突然そう思い立った優花梨は、時間配分を考えつつ、未遠川を跨ぐ冬木大橋を渡り、海浜公園へと足を運んだ。日本の日の出、日の入りは他の国と比べてとても綺麗なのだと、過去に時臣から話を聞いた事がある。確かに、英国では心から感嘆する様な朝陽や夕陽は見た事がないかも知れない。
 どうせなら海へ行って、夕陽を間近で見てみたい。突如思い立った事だった。

「……綺麗」
 靴の中に砂が入る事も気にせずに、優花梨は海へ向かって歩を進めた。ちょうど日の入りの時間で、海に沈んで行く夕陽を見る事が出来た。夕陽に照らされた海の輝きは、新都のイルミネーションとは全く別の魅力を持った輝きを放っていた。蒼空は暁へと染まり、ゆっくりと時間をかけて陽は沈み、やがて夜の世界が訪れる。

 ふいに優花梨の瞳から涙が零れた。
 あまりの美しさに感動したからだろうか。それとも、今頃になって英国に戻りたくないという心境にでもなっているのだろうか。
 優花梨は涙を拭う事もなく、滲む太陽を見つめ続けた。
「ウェイバー…」
 何も考えずに口にした彼の名前。優花梨は堪らず大粒の涙を零した。
「私、どうすれば良かったの…」
 止められなかった。ならば、英国に戻りたくない。彼と離れたくない。
 ――私はただ、ウェイバーと一緒に居られれば、それで良かったんだ。
 今更、なんて虫の良い話だろう。

 優花梨の涙が止む頃には、辺りは既に漆黒に染まっていた。

 英国行きの深夜便に乗るには、もうそろそろ此処を離れてF空港へ向かわないと、搭乗に間に合わない可能性がある。
 現実に、戻らないといけない。
「…もう、行かないと」
 優花梨は諦めた様に、静かに呟いた。そして踵を返そうと横を向いた瞬間、二人の男女の姿が視界に入った。
 11月にもなるこの寒い時期に、こんな時間にこんな場所を訪れるなんて、物好きもいるものだ。案の定、彼らと自分以外、此処には誰もいない。特に何か意味がある訳ではないが、じっと彼らを見つめていると、向こうも此方に気付いたのか、何やら互いに目配せをして近付いて来た。

 彼らが近付いて来るにつれ、漸く分かった。この二人、新都の繁華街でやたらと目を引いていた、銀髪の美女と金髪の美少年である。
 優花梨が再び見惚れていると、二人はいつの間にか目の前に来ていた。

「こんばんは、良い夜ね」
 銀髪の女性が、美しい微笑を湛えて挨拶する。優花梨は正気を取り戻すと、慌てて言葉を返した。
「こ、こんばんは。そうですね、素敵な夜です」
 相手の言葉を鸚鵡返しする事しか出来ず、優花梨はそれ以上何も言えなくなってしまった。
 見かねた金髪の少年が、銀髪の女性に苦言を呈す。
「アイリスフィール。一般人に無闇に話し掛けるのは…」
「でも、なんだか放っておけなかったんだもの」

 優花梨がぼうっとした顔で二人を見ていると、アイリスフィールと呼ばれた女性が、微苦笑を浮かべて優花梨に向き直った。
「突然話し掛けてごめんなさいね。でも、こんな時間にこんな所で女の子が一人でいたから、興味本位で近付いてみたの。そうしたら、なんだか寂しそうに見えたから、つい」
「全く、貴女という人は…」
 金髪の少年が独り言を呟き溜息を吐く。だが、嫌な意味ではなく、銀髪の女性の事を全て受け容れているかの様に見えた。

 優花梨は恐る恐る、アイリスフィールという名の女性に訊ねた。
「あの、私、そんなに寂しそうに見えましたか…」
「あ、気を悪くさせたならごめんなさい。まるで此処を離れたくない…そんな風に見えたものだから」
「……ご名答です」
「あら」
 口許に手を当てるアイリスフィールに、優花梨は悲しそうな笑みを浮かべて言った。
「でも、そんなわがままは通らないんです。今晩、日本を離れないといけなくて」
「日本を離れる? 貴女、日本人よね?」
 優花梨の言葉に、アイリスフィールは首を傾げた。

 正直、この二人からは魔力を感じる。魔術師か、その類か。でも、敵意は全く感じ取れないし、そもそも自分はただの見習い魔術師だ。悪さをして魔術協会や聖堂協会から追われている訳でもないし、それは相手も同じに違いない。仮にこの二人が魔術師であったとしたら、の話だが。
 取り敢えず、優花梨は無難な回答をした。
「ええ、日本人です。でも今、イギリスの学校に留学しているんですが、用事が出来て一時帰国したんです」
「そうだったの。故郷を離れるのは寂しい?」
「故郷……と言うより、好きな人と離れたくない…というのが本音です」

 見ず知らずの相手に、何を喋ってしまっているんだろう。優花梨はうっかり胸中を告白してしまった自分に驚きを隠せずにいた。
 なんだか不思議な女性だ。自分より年上だろうに、良い意味で純真無垢で、裏表の一切ない女性だと感じた。それと同時に、包容力も兼ね備えている。だから、こんな風に自分の内面を打ち明けてしまったのかも知れない。

 困惑している優花梨に、アイリスフィールはとんでもない事を言ってのけた。
「好きな人と離れたくないの? なら、イギリスに行かないで日本に残れば良いじゃない」
「アイリスフィール! 何を言っているのですか!」
 見かねて金髪の少年が慌てて止めに入る。優花梨は違和感を感じた。この人は、本当に男性なのだろうか? 男女どちらとも取れる中性的な外見だが、聞けば聞く程女性の声に思える。まぁ、一期一会なので詳しく知る必要はないのだが。

「ごめんなさい、セイバー。でもね、人生は一度きりなの。彼女に、後悔する選択肢を取って欲しくないのよ」
 その言葉に、セイバーと呼ばれた少年はぴくりと肩を震わせた。アイリスフィールは優花梨に顔を向け、微笑を湛えたまま言葉を続けた。
「初めて会ったばかりなのに、偉そうな事言ってごめんなさいね。そういえば、まだ名乗ってもいなかったわね。もう会う事はないかも知れないけれど……私はアイリスフィール。長いから、アイリで良いわ」
「は、はい、分かりました、アイリ様。私は柊優花梨と申します」
「様付けなんて柄じゃないんだけれど…まぁいいわ。よろしくね、優花梨」
 微苦笑を浮かべるアイリスフィール。優花梨は横目でセイバーと呼ばれた少年をちらりと見遣った。

「私は名乗る程の者ではありません。これから日本を発たなければならないというのに、アイリスフィールに付き合わせてしまい、申し訳ありません、優花梨」
 セイバーは苦笑を浮かべながら、首を横に振って名乗るのをやんわりと拒否すると、頭を下げて優花梨へ謝罪の意を告げた。
「いえ、アイリ様とお話して、かえって気分が明るくなりました」
 優花梨が笑顔を作ってそう返した瞬間、二人は突然神妙な面持ちへ変わった。

 セイバーと呼ばれた少年が、アイリスフィールの二の腕を掴んで引き寄せる。互いに目配せし、何か小声で囁き合っている。盗み聞きもどうかと思うので、思い切って優花梨は恐る恐る訊ねた。
「……あの、どうかされましたか?」
 すると、アイリスフィールは微笑を浮かべて優花梨に告げた。
「優花梨。申し訳ないのだけれど…――詳しい事は言えないわ。でも、一刻も早く、此処から逃げて」
「に、逃げる?」
 困惑する優花梨に、更にセイバーが後押しする様に言う。
「アイリスフィールの言い方には些か問題がありますが……優花梨も知っているとは思いますが、今、この冬木では殺人事件が多発している。夜道は危険です。早く空港へ向かった方が良い」

 そう言われて、優花梨は慌てて腕時計を見て時刻を確認した。そんな事をしなくても、魔術で大凡の時間は把握出来るのだが、一般人を手前に、ここは演技の一つでもしないと不自然だ。
「そうですね、ちょっと急いだ方が良いかもしれないです。ご忠告ありがとうございます」
 優花梨はそう言うと、二人へ頭を下げた。

「途中まで送って差し上げたいのですが、申し訳ない事に、私達もこれから用事が――」
「いえ、結構です! お気になさらず!」
 神妙な面持ちで謝るセイバーに、優花梨は両手を大袈裟に左右に振った。突然尋常ではない様子になった二人に、付き添いなど頼めないし、そもそもそんな図々しい事を申し出るつもりもなかった。二人は恐らく、急用でも思い出したのだろう。
「では、また何処かでお会い出来る事を祈っております」
 微笑んで二人にそう告げる優花梨に、二人は一瞬表情を曇らせた後、作り笑顔の様に笑ってみせた。
「ええ、また会えるといいわね、私達」
 まるで気丈に振る舞っているかの様なアイリスフィール。優花梨は不思議に思いながらも、踵を返してその場を後にした。


 ――何かがおかしい。何だろう、この違和感は。
 優花梨の様な見習いの魔術師でも感じ取れる程の強い魔力。まるで人形の様な、人間離れした銀髪と紅い瞳の美しい女性、アイリスフィール。彼女の傍らにいる、セイバーと呼ばれた少年。
 ――セイバー。

「まさか…!!」
 優花梨の予感は的中した。紛れもなく、彼らは聖杯戦争の参加者だ。恐らく、アイリスフィールは魔術師で、サーヴァント【セイバー】を召喚したのだ。

『一刻も早く、此処から逃げて』

 アイリスフィールの言葉を思い返す。
 どうしてもっと早く気付かなかったのか。自分に逃げる様促したという事は、間もなくあの場が、戦場と化すからである。
 という事は、ウェイバーがライダーと共に現れる可能性も、極めて高い。

『人生は一度きりなの。彼女に、後悔する選択肢を取って欲しくないのよ』

 アイリスフィールの言葉が、今頃になって頭の中で何度も響く。
 優花梨は海浜公園に設置された公衆電話を見つけるなり、すぐさまF空港へ電話した。
「本日フライト予定の、イギリス行きの深夜便を予約している、柊優花梨と申します。急で大変申し訳ありませんが、キャンセルをお願い致します」



 優花梨は急いで先程の砂浜へ向かったが、もうアイリスフィールもセイバーも居なかった。此処は危険だと言われたが、戦場は此処ではないのだろうか。
 優花梨は思考を巡らせた。いくら11月の海とはいえ、この海浜公園が一般人の目に入らないとは絶対に言い切れない。ならば、もっと人気のない場所を戦場として選ぶ筈だ。
 辺りを見回すと、西の方角にプレハブの倉庫が連なる倉庫街があった。
 ――戦闘を行うなら、打って付けの場所だ。
 優花梨は何も考えず、倉庫街へ向かって走り出した。丁度その頃、まさに目と鼻の先である冬木大橋に、ウェイバーが居る事も知らずに。




 目と鼻の先は些か誇張かも知れない。高さ50メートル以上はある冬木大橋の頂に、ウェイバーとライダーは居た。ウェイバーは優花梨の様に空を飛ぶ芸など持ち合わせていない。寒さと恐怖で震えながら、海に落ちないよう鉄骨にしがみ付くので精一杯だ。
「ライダーぁぁ…早く……降りよう、ここ……早く!!」
「見張るには誂え向きの場所だ。まあ今暫くは高みの見物と洒落込もうではないか」
 一方ライダーは余裕綽々にワインを呷りながら、海浜公園の敷地を見下ろしていた。ウェイバーには分からなかったが、そこにサーヴァントの気配があるのだという。

 元々ウェイバーとライダーは、敵との接触を求めて4時間程市街を徘徊し、午後も遅くなった頃に、サーヴァントの気配に気付いた。ウェイバーはライダーの気性から、早速戦闘をするのかと思いきや、意外や意外、遠巻きに相手のサーヴァントを監視する事となった。
「アレは明らかに誘っておる。ああもあからさまに気配を振り撒いていれば、気付かぬ方がおかしい。既に余だけでなく、他のサーヴァント達も奴を見つけて様子を窺っている事だろう。放っておけば、いずれ気の短いマスターが痺れを切らせて仕掛けるやも知れん。それを期待して成り行きを見守る手だな」
 ライダーの発言は、珍しくウェイバーの意見と一致した。挑発しているサーヴァントと、挑発に乗ったサーヴァントが争い、どちらか一方が敗退した所で、勝ち残った方を潰せば良い訳だ。

 ――しかし、こんな高所で見張るなど、ウェイバーにとってはそれどころではない。最早生きるか死ぬかの問題だ。
 情けない事に、こんな時に優花梨が居れば…と一瞬思った。仮にウェイバーがうっかり鉄骨から落ちそうになるものなら、すぐさま魔術で助けてくれるだろう。非常に情けない話だが、もう今は男のプライド等を意識する状況ではないのだ。
 格好付けて英国に帰るよう促すのではなく、それこそライダーの言う通り、一緒に住もうとでも言えば良かったかも知れない、とウェイバーは後悔した。遠坂との板挟みに悩みつつも、優花梨なら案外二つ返事で了承してくれそうな気もする。
 ――今となっては完全に後の祭りだが。
「お、降りる! いや、降ろせ! も、も、もう嫌!!」
「まぁ待て。落ち着きのない奴め。坐して待つのも戦のうちだぞ」
 だがライダーは、ウェイバーのそんな心境にまるで気付いていないのか、呑気に酒を呷るばかりである。

「そんなに手持ち無沙汰なら、預けてある本でも読んでおれ。良い書物だぞ」
 ライダーはそう言い、ウェイバーは今背負っている無駄に重たいナップザックの中に入った書物を思い出した。地図帳と、古代ギリシアの詩人ホメロスが記した『イリアス』。神と人間が入り乱れて戦ったトロイア戦争を描く大叙事詩だ。地図帳はまだ分かるが、詩集など聖杯戦争に何の関係があるのか?

「ライダー……なんで…こんな本…持って…きた?」
「イリアスは深遠だ。戦いの最中にも、ふと詩歌の一節が気になって仕方がなくなる時が、ままあるのでな。そんな時には、すぐさまその場で読み返さんと気が済まんのだ」
「その場で、って……戦場で?」
「うむ」
「戦場で……戦いながら? 剣、振りながら?」
「そうだ」
「……どうやって?」
「右手で剣を執る時は左手で。左手が手綱を握る時は、隣の小姓に音読させた」
 その発言に唖然とするウェイバーに、ライダーは平然と言葉を続けた。

「驚く様な事ではあるまい。余の時代の武人は皆、行住坐臥が戦と共にあった。飲み喰らいながら戦い、戦いながら女を抱き、眠りながらもまた戦う。その程度、誰でも出来て当然だ」
「……嘘だろ?」
「当たり前だ。馬鹿者」
 刹那、ライダーの微苦笑と共にウェイバーの額にあの強烈なデコピンが炸裂した。
「ぎゃあ〜〜〜ッ!!!」
 如何せん橋の鉄骨にしがみ付いている為、避ける事も堪える事も出来なかった。恥なんて概念も忘れ、ウェイバーは泣き叫んだ。

「だがな坊主。この程度の冗談ならば誰もが笑い飛ばしたのは、真実だ。青くなって呆ける様では、まだまだ肝が細すぎるのう」
「帰りたい……イギリスに帰りたい……」
 豪快に笑うライダーを恨めしげに見ながら、ウェイバーは優花梨との時計塔の日々を思い出した。優花梨に毎日振り回された日々が、なんと幸せだった事か。意見の相違で徐々に口を利かなくなっていった日々さえ、今思えば愛おしく平和だったと感じる。

「そう急くなと言っておろうに。ほれ、状況も漸く動きそうだぞ」
「……は?」
 ライダーは海浜公園を指差して、ウェイバーに言った。
「この征服王とした事が、つい今しがたまで気付かなんだが……そこの公園な、どうやらもう一人、別のサーヴァントがおった様子だ。そいつも気配を隠しておらん。それどころか、我らが追っていた奴に近付いていく」
「じゃ、じゃあ……」
「二人とも、どうやら向こうの港の方に向かうらしい。売り言葉に買い言葉、という訳だ。これは一戦やらかすと見て良かろう」

 ライダーに漸く戦場への闘志が灯る。しかし、今のウェイバーにとっては、サーヴァント同士の戦いよりも、早く安全な地上に降りる事の方が最重要だった。




 優花梨は倉庫街へ辿り着くと、出来る限り気配を消して、極力足音を立てずに歩を進めた。恐らく此処に、先程のアイリスフィールとセイバーが居る筈だ。
 すると、無人の大通りの真ん中で、セイバーと長身の男が、10メートル位だろうか、距離を置いて対峙していた。
 優花梨は物陰に隠れ、様子を窺った。

 長身の男は、自身の身長を上回る武器と、それよりも若干短い武器を、両手に各々二本手にしている。武器には呪符と思わしき布が巻き付けられている。――槍だろうか。だとしたら、あのサーヴァントは【ランサー】だろうか?
 確か前に、ライダーが『宝具は一つとは限らない』と言っていた。まさにランサーはその様なサーヴァントという事か。優花梨は隠れつつも、一秒とも見逃さぬよう、目を凝らす。

 長身の男が口を開いた。
「よくぞ来た。今日一日、この街を練り歩いて過ごしたものの、どいつもこいつも穴熊を決め込む腰抜けばかり。俺の誘いに応じた猛者は、お前だけだ。その清澄な闘気――【セイバー】とお見受けしたが、如何に?」
 その問に、セイバーは凜とした表情で答える。
「その通り。そういうお前はランサーに相違ないな?」
「いかにも。……これより死合おうという相手と、尋常に名乗りを交わす事もままならぬとは。興の乗らぬ縛りがあったものだ」
「是非もあるまい。もとより我ら自身の栄誉を競う戦いではない。お前とて、この時代の主の為にその槍を捧げたのであろう?」
「ふむ、違いない」

 優花梨は飄々としたランサーの様子を、改めて窺った。アイリスフィールやセイバーとはまるで種類の違う、美しい青年である。右目の下にある黒子が、男としての色気を醸し出しているのだろうか。
 優花梨は無意識に、彼――ランサーに見惚れていた。

「――魅了の魔術? 既婚の女に向かって、随分な非礼ね。槍兵」
 不機嫌な声でそう言い放つアイリスフィールの言葉に、優花梨は我に返った。――『魅了の魔術』? 本当にこのランサーがそんな魔術を使っているのだろうか。
 すると、ランサーは肩を竦めて苦笑した。
「悪いが、持って生まれた呪いのようなものでな。こればかりは如何ともし難い。俺の出生か、もしくは女に生まれた自分を恨んでくれ」
 『持って生まれた呪い』。つまり、故意に魔術を放ったのでなく、勝手に放たれる魔術なのか。優花梨は心底ウェイバーに申し訳なく思った。いや、ウェイバーと恋人として付き合っている訳ではないし、そもそも叶う恋ではないので、謝るも何もないのだが。それでも罪悪感を抱かずにはいられなかった。

 優花梨が物陰に隠れて罪悪感に苛まれている事など知らず、セイバーはランサーに言い放った。
「その結構な面構えで、よもや私の剣が鈍るものと期待してはいるまいな? 槍使い」
「そうなっていたら興醒めも甚だしいが、成程、セイバーのクラスの抗魔力は伊達ではないか。……結構。この顔の所為で腰の抜けた女を斬るのでは、俺の面目に関わる。最初の一人が骨のある奴で嬉しいぞ」
 ランサーの言葉に、優花梨は初めてセイバーが女性である事に気付いた。あまりに中性的で、どちらか判断が付かなかったが――自分は、こういう所もまだまだ未熟だ。

「ほう、尋常な勝負を所望であったか。誇り高い英霊と相見えたのは、私にとっても幸いだ」
 セイバーはそう言うと、ランサーへ微笑を返した。これから戦闘だというのに、二人ともなんて落ち着いているのだろう。だが、逆にそれがこれからの戦闘の激しさを際立たせつつもある。

「それでは――いざ」
 ランサーは二本の槍を持ち直すと、セイバーもまた、魔力を解き放った。
 刹那、魔力が風の様にセイバーのスーツを包み込み、あっという間に、白銀に輝く甲冑に包まれた紺碧のドレスを身に纏っていた。
 ――これが【セイバー】。
 優花梨はセイバーの麗しさに見惚れた。ランサーの魅了といった類ではなく、純粋に、その気高さに。

 アイリスフィールがセイバーの後ろから呼び掛ける。
「セイバー、気を付けて。私でも治癒呪文位のサポートは出来るけど、でも、それ以上は…」
「ランサーはお任せを。ただ、相手のマスターが姿を見せないのが気掛かりです。妙な策を弄するかも知れない。注意しておいて下さい。……アイリスフィール、私の背中は貴女にお任せします」
「――分かったわ。セイバー、この私に勝利を」
「はい、必ずや」

 ついに始まる。セイバーとランサーの戦いが。
 優花梨は息を飲み、恐怖と同時に高揚感を覚えていた。セイバーとランサー、どちらかが負ければ、負けた方のマスターは聖杯戦争敗退となる。気持ちとしては、マスターの分からないランサーより、先程声を掛けてくれたアイリスフィールのサーヴァント、セイバーを応援したい。
 優花梨もまた、アイリスフィールの様に、セイバーの勝利を祈った。
 この後、多数のサーヴァントが乱入する事等、微塵も分からずに――。

2014/12/17


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