モノノ怪 短編 | ナノ
丑三つ時
坊主なんぞ生臭いだけで、価値など知れている。
以前詣でた時、当の本人がそう言ったのだから、信じるしかない。
かく云う私は尼である。
尼も勿論生臭い奴が居る。それを私は見てきた。
悔い改め神に使えると言いながら、欲にあっさり負けるのだ。腑甲斐無い事この上ない。
誠に神へ使えている尼など、水田に実った稲穂の中の米粒一つ程だ。
だからだろう、先程、和尚が自己卑下に「坊主は生臭い」と言った時、「そうでしょうね」と返して憤慨させてしまった。
これは私の配慮の無さが原因であるが、事実を伝えて怒るのは図星だった証拠。
怒りを露にする事が墓穴を掘る行為なのだと、考えが及ばなかったのだろうか。
水田を眺めながら歩いていると、金の稲穂がゆらゆら揺れる。
じきに収穫だ。
今年は日照りがあまり良くなかった。
穂が軽いと、以前誰かがぼやいていたのを思い出す。
境内を抜けると、御神木の傍に鮮やかな色が立っていた。
秋の色合いに不釣り合いな色彩に、思わず目を細めて凝視してしまう。
「如何なされましたか」
声をかければ、木の肌を撫でる手が動かなくなる。
代わりに首を動かして、こちらを向く。
旅芸人、だろうか。
変わった風体だ。
「宿を探していたのですが、此処には無いと、言われまして」
「それはお気の毒に」
「代わりに、こちらを、紹介されました」
「左様で御座いますか」
戸を開けて、どうぞ。と言えば、よろしいんで?と言われる。
泊めてもらうつもりで居たくせに、よく言う。
「質素な物しか出せませんが、宜しければお泊り下さい」
「有り難い。感謝します」
猫っかぶりは私も同じだ。
お互いに笑みを浮かべて、妥協と欺瞞と自己防衛ばかり。
実にくだらない。
一部屋を貸して、私は仏前に腰を下ろす。
習慣であるお経を読もうとして、相手の名前を聞いていなかった事に気付いた。
しかし今更部屋を訪ねて、お名前は、等とどうして訊けようか。
機会を逃がした私が悪い。
仕方ない事だ。
余計な念を吐き出す溜め息を一つ。
ついでに、深呼吸を一回。
経を読む時間は好きだ。
文字の羅列が思考を支配するばがりで、何も考えないで済む。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
「浄土の方、でしたか」
読み終えてすぐ、耳を震わせる他者の声。
目蓋を開ければ畳。
頭を少し上げれば御仏。
「お声をかけて下されば宜しいのに」
振り返れば、鮮やかな色彩。
ではなく、夕焼けに染まる橙の世界。
「経を唱えている姿が、あまりにも、神聖だった、もので」
「誉めるのがお上手ですね」
「本心を、言ったまで、ですよ」
豚もおだてりゃ木に登る。とは、誰が言った言葉か。
誉められて気分を害する人間はいない、という意味なのだろう。
しかし残念ながら、気分を害さなければ、喜びもしない人間もいる。
糠に釘。暖簾に腕押し。まさにそれが私だ。何とも思わない。
地を這う紅を目で追って、窓を見れば瞳の奥が焼ける感覚。
もう夕焼けの時刻。
そろそろ飯時だ。
「食事の支度を致しましょう。出来るまで、お寛ぎ下さい」
「飯まで面倒を見て頂き、かたじけない」
「一人分を作るも二人分を作るも、手間は同じですから」
立ち上がって男の隣を通過すると、そう云えば、と声をかけられる。
振り返って何か、と訊ねれば、背中をこちらに向けたまま、お名前を訊いていやせんでした。と言われた。
「名前です」
「名前様、ですか」
「貴方のお名前は」
「俺は」
男がゆったりとした動作で振り返る。
まるて舞う羽衣のようにたゆたう着物と髪。
重力を感じさせない人間が世にいるとは思わなんだ。
橙の蝶が居るとすれば、それはそれは綺麗なものだろう。
「薬売り、ですよ」
「薬売りだったのですか。変わった出で立ちでしたので、旅芸人かと勘違いしておりました」
「よく、言われます」
「それで、何とお呼びすれば?」
「薬売り、と」
変わった人だ。
否、しかし、川を流れる紅葉に名が無い様に、旅をする者に名前など無用か。
「畏まりました」
台所へ向かう。
精進料理をあの男が気に入るかは、私が気にする事でもないだろう。
この地に泊まると決めた時から、飯がどうなるかなど言わなくても分かるはずなのだから。
夕飯を食べている最中、最近変な事は無いか、と訊かれた。
「変な事?」
「はい。丑の刻、何処かでカン、カン、と、釘を打ち付ける音がする、とか」
「随分、具体的ですね」
「耳に入れしやして。聞くところによると、この周辺、だとか」
「存じませんね」
味噌汁を飲む。
「集落とは閉鎖的なものです。大方、旅の者が来た浮かれついでに、昔あった事を嘯いたのでしょう」
「今は無いと」
「私が知る限りでは」
「これは、まんまと騙されちまい、ましたね」
「誤解が解けて何よりです」
食事を終えて、各自部屋に戻った。
男が部屋に戻る音を聞いて暫く経ってから、庭に出る。
闇の中に悠然と佇む御神木。
撫でると木の皮が剥がれそうで、私は僅かに触れるばかり。
けれどそれが、ひどく落ち着くのだ。
心に生じた波が無くなるような、そんな感覚。
触れながら深呼吸を数回すれば、後はもう寝るばかり。
「おやすみなさい」
御神木にそれだけ告げて、部屋に戻る。
これでゆっくり眠れそうだ。
「名前様」
突然の声に驚いて、飛び起きようとすれば肩に手を置かれた。
次いで声を上げようとすれば、口を塞がれた。
暴れようとすれば、相手がのしかかってくる。
「名前様、聞こえ、ますか?」
その声に、最悪の事態を考えていた頭は違うのだと認識して落ち着きを取り戻す。
何を。と問いたくとも、口は塞がれたまま。
身体の力を抜いて、抵抗するつもりはないと態度で示せば、相手は私を自由にした。
「打ち付ける音と、声が、聞こえやしませんか?」
耳を澄まさなくとも鼓膜を震わせる鈍痛を想像させる音。そして呻き声。
何故今まで気付かずに寝ていたのか。
上体を起こして、闇夜に浮かぶ男を見やる。
こちらは寝巻だが、相手は会った時と変わらない姿。
「けれど、私は一度たりとも藁人形を境内で見た事は御座いません」
打ち付けた釘をわざわざ抜いて、藁人形を持ち帰る者がいるだろうか。
「形が無い、という、事か」
男は男で何かを思案しているらしく、同意も無ければ相違もない。
打ち付ける音で音源との距離を測る事は出来ない。
他の境内で行われているのかもしれない。
けれど打ち付ける音がする毎に、心臓が凍り付く感覚。
その恐怖感は、この境内で行われている行為だと直観的に知らせている。
「名前様」
促す声。行きましょう。そう言いたいのだろう。
しかし、行ってどうなる。
そう弱気な自分が囁く。
現行を見て、何になる。
「名前様」
「分かりました。参りましょう」
けれど、行かねばならぬ。
逃げてはならぬ。
我が領地で行われる無礼があるならば、それを咎めねばならね。
障子を開ければ、音が一つ大きくなった。
襖を開ける。
また一つ、音が大きくなった。
外に出る。
音が鼓膜を震わせて、酷い痛みを感じた。
カン
カン!
ガン!
ガン!
脳天を打ち付けるような音。
視界が暗転する。
気持ち悪い。
まるで誰かの怨念を全身に浴びているようだ。
「名前様っ」
揺らぐ身体を抱えられる。
涼しい風が吹くのに、身体は汗に濡れていて、寒さが余計に気分を悪くする。
「これは、この音は何処から」
視線を跳ばしても、動く影は見当たらない。
誰だ。
誰がこんな怨念を、垂れ流しているのだ。
「音源は、御神木では、ありやせんか?」
慌てて御神木を見る。
しかし姿が見えない。
「やめろ!」
御神木に走る。
音が脳天を打ち付ける。
痛い。
吐きそうだ。
誰だ。
誰が。
「御神木を傷つけるな!」
裏を覗けば、そこに人の姿は無かった。
なのに音はより大きくなる。
「何処に居る!出てこい!此処は神聖な地だ!貴様の怨念で汚すな!」
空に吠える。けれども音は止まない。
頭が痛い。吐きそうだ。
「名前様、音源は」
男が御神木に近づく。
やめろ。
触るな。
「汚い手で触れるな!」
男がこちらを流し見て、笑う。
「此れは、貴女の」
男の獣のような爪が皮に立てられた。
まるでゆで卵の殻のように、皮が剥がれ落ちてゆく。
月明かりの下だというのに、色彩が鮮やかで、皮が剥がれた奥に肉の色が広がっているのだと理解した。
ガン
ガン
響く音。
中は空洞。
その空洞に納まる、両手を頭上で束ね、掌から足まで、打てるだけ釘を打ち付けられた女性。
「可哀想に」
男は哀願を込めた呟きを漏らし、女性の垂れた頭に触れようと手を伸ばした。
背筋にぞわりと、虫の這い上がる感覚。
「触るな!」
本当ならば今すぐにでも走り寄って、その手を掴んで引き剥がしたかった。
けれど足が地面に縫い付けられて、動けない。
「何故?」
男は問う。
何故?
どうして?
男の口元が、怪しい笑みを浮かべて再度問うてくる。
「汚い、から?」
汚い……?
そうだ、それは汚い。
汚くて卑しくて醜い。
だから捨てて汚いから捨てて隠して早く誰にも見られないように!
「そうやって、捨てたんですね」
男は女性を撫でる。
頬に撫でられる感じを覚えてぞわりとした。
「もう、認めては、如何、ですか」
「嫌だ!」
嫌だ厭だ否だ!
認めない。そんな醜いもの認めない受け入れない。
私は尼だ。神に仕えるのだ。そんな醜いものを受け入れてはならない認めてはならない。
「もう、認めているじゃあ、ありませんか」
「認めてなど」
「後は、受け入れる、だけ」
「厭だ!」
汚い醜い卑しい。
あんなもの、あんなもの……!
ガン
ガン
「名前様」
音が大きくなる。
「釘が、増えましたぜ」
「そんな奴、さっさと釘山にでもなってしまえばよい!」
ガン
ガン
「そんなに、受け入れたく、ないんですか」
「汚い。人間味など要らぬ」
ガン
ガン
顎を掴まれる。
下げた頭が勝手に上げられて、見てはならぬのに、御神木に縫い止められた女を見てしまう。
「ほら、泣いてるじゃあ、ないですか」
赤い涙をほろほろ流している女。
私が私を見て泣く。
嫌だ。厭だ。
「お前など、私ではない!」
人間臭くてしようがない。
人に傷つけられて傷ついて、何が救済だ。
肉欲の対象にされて、何が神に仕えるだ!
私は尼だ。
そんな汚い卑しい部分など持っていてはならない。
私は尼だ。
人の言動に心を乱す事などあってはならない。
私は尼だ。
悟りを開かなければならない。
私は尼だ。尼なのだ。
「人間臭さを持つのも、大切だと、思いやすぜ」
大切なものか。
心乱して欲求に負けて、何が救える。
「人を救うのには、人の心が、必要、です」
薬を売って歩くお前に何が分かる。
「見てきましたから」
ほざけ。
「俺は、救います」
私は救済など要らぬ。
「勘違いを、なされるな。俺が救うのはあんたじゃない。御神木だ」
ざっと葉が揺れる。
御神木が反応したのだ。
「御神木はあんたを救う為に、あんたの心を吸った。神であるのにあんたが云う、醜悪な感情を内包したんだ」
御神木がさざめく。
御神木の中に居た私が、暴れだす。
『出てゆけ』
御神木が仰られる。
「神である身でこんな感情を受け取ったが為に、あなたは朽ちておられる。そこまでして、何を護るんで?」
『答える義務はない。若造よ、貴様が介入する世界ではない。出てゆけ』
「本当ならば、俺を追いだすなど訳無い筈。それすらも出来ない程に、朽ちておられるか」
御神木は必死に動こうと藻掻く。
けれど、打ち付けられた釘が邪魔をして自由が利かない。
藻掻く度に釘が打ち付けられた場所から血が噴き出し、御神木の表皮が崩れ落ちる。
駄目だ。これ以上動いてはならない。
折れてしまう。
朽ちてしまう。
『よせ!』
駆け寄って、御神木の中に居る私に打ち付けられた釘を一本抜く。
途端に、今日の心の揺れが胸にくる。
眩暈がしそうだ。
心臓が揺れたような、脳味噌が回転したような感覚。
『名前、お止しなさい』
「なりません!」
私のせいで御神木が朽ちた。
私のせいだ。
私が御神木を狂わせた。
釘を抜く。
目の前に居る私の姿を模した御神木は悲しそうな顔をして私を見ている。
醜悪な感情が還ってくる。
悲しい感情が還ってくる。
悔しい、憎い、惨めな感情たちが、忘れていた思いが戻ってくる。
悔しかった。
悲しかった。
「申し訳、御座いません」
御神木に預けて、楽をしていた。
こんなに御身一体で抱えて、私を見守ってくださっていたのですね。
気付かなくてごめんなさい。
楽をしてごめんなさい。
『名前、もう良いのです』
「なりません。貴方は私の母でした。父でした。兄でした。姉でした」
孤児の私が、坊主に打たれ尼に蹴られ泣いていた時、いつも傍に居てくださった。
御神木に寄り添って泣くと心安らかでいられた。
それは貴方が居てくださったから。
だから私はここまでやってこれた。
「名前様、壊れちまいますぜ」
「薬売り様、私達人間は、存外丈夫なのです。それに」
私の心は壊れない。
これだけ優しい御神木に支えられて、どうして壊れよう。
最後の一本に手を掛ける。
抜くと、まだ子供の頃、坊主に虐げられて泣いている時の感情が甦った。
そうだ、この時、私は初めて御神木に抱きついて泣いた。
ここから、貴方は私の悲しみを吸い取っていらっしゃったのですね。
涙が出た。
否、もう既に出ていた。
ぼろぼろと零れる。
いつから私は泣いていなかっただろうか。
分からない。
遥か昔から、泣いていなかった気がする。
目の前で、私が崩れ、朽ちゆく。
終わったのだ。
そう思った。
『愛しい子』
御神木が一言呟かれると、崩れた。
地に倒れた御神木は、みるみる朽ちて、元の神々しさを失う。
何で。どうして。
私は解放したではないか。
御神木を、助けたではないか。
なのに、何故。
どうして。
「どうして!」
「もう、無理だったのですよ」
「私は救った!」
「えぇ」
「救った、のに」
「救ったから、現世から解放された」
男を見る。
男は悠然と立っていて、柔く、笑った。
「御神木がモノノケにならずに済んだのは、名前様が、ご自身を受け入れたから、ですよ」
「けれど」
「神のまま生涯を終えた事を、祝してあげて下さい」
男はそれだけ云うと、姿を消した。
私は御神木に寄り添った。
温かい。
まるで、母親に抱かれているようだ。
私は久しぶりに、満ち足りた気持ちで眠った。
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