モノノ怪 短編 | ナノ
轟き
それは新芽が姿を見せ、麗らかな春先の日のこと。
夜に落ちた冷気が水滴となってまだ大地を少し濡らしている朝、誰に見せるわけでもないのに派手な衣装に派手な化粧をした男が山道を通っていた。
すると斜面から木の上から、体格の良い男が次々と降ってくる。
「おいお前、誰の許可得てここを通ってるんだ」
「通過するには金が必要だ、払ってもらおうか」
下品な笑いをする男達に、大きくて変な模様の描かれた木箱を背負った少し背の低い男はぽそりと小さな声を発した。
「嫌だと、言ったら」
「そんなん分かんだろ、兄ちゃん」
「綺麗な顔に傷がつくぜ?」
「身体も傷ついちまうかもなぁ。ケツが痛くて座れなくなるかもよ」
ゲラゲラと下品な話を笑う男。
派手な衣装の男は小さく息を吐いた。
「人を見掛けで、判断しない方が、良い」
「おいおい、誰に向かって口利いてんだ?ああ!?」
体格が良くガラが悪い男が、細身を派手な衣装に包んだ男に近付いて今にも掴みかからんばかりの状況。
しかし柄の悪い一味は笑うばかりで止めはしない。
そんな中、髭を蓄えた男が声を上げた。
「あ、おい。こいつの格好、兄貴が言ってた奴じゃねぇか?」
「なにぃ?」
「確かに似てるな」
「おいお前、薬売りか」
「そう、だが」
周りがざわめく。
薬売りだと名乗った派手な衣装の男。
その男を取り囲む柄の悪い男達はざわめき、どうしたものかと考えているようだ。
「おい、兄貴呼んでこい」
「へ、へい」
「おいてめぇ、動くなよ」
薬売りは刀を向けられて、わざとらしく両手を上げて溜め息をついた。
暫くすると、奥から寝起きのような格好の男が先程『兄貴』を呼びに行った男と共に現れた。
寝起きの格好の男は頭をガシガシと掻いて欠伸を一つ。
「お前等、これで違ったらぶっ殺すぞ」
「本人がそうだと言ってんだよぉ、兄貴」
子分の男は腰を低くして、『兄貴』に話す。
周りの様子から『兄貴』がこの賊の頭領だと知れた。
周りの筋肉質な男と違い、細身の身体にだらしなく着た着衣。
髪は寝起きなのか、あちこちに跳ねている。
頭領にしては、周りに劣るその背格好。
「お前、名は?」
「ただの、薬売り、ですよ」
頭領は顎に手をやりながら、人が好みそうな笑みを浮かべて薬売りを眺める。
薬売りは荷を背負い直す。
カタカタという音が何処かから発せられ、周りの者は何が鳴っているのかと辺りを見回している。
「情報通りの回答だな。ではもう一つ質問しよう」
今までのだらしなさは消え、薬売りを睨む瞳はまさに獣。
しかし薬売りは気にする様子もなく、眉一つ動かさない。
「お前、鬼の顔が描かれた刀を持っているか」
問いに対して薬売りは表情を変えず、口も開かない。
頭領は腰につけていた得物に触れ、ひゅっと風を斬る音がしたと思ったら、薬売りの喉元に当たる寸でで刃先が止まっていた。
「沈黙は肯定と見なす」
「はい」
頭領は薬売りを暫く睨み、それから刀を定位置に戻した。
途端に雄々しさは消え、ただの何処にでもいそうな優男の雰囲気を纏うので、薬売りも僅かに握っていた拳を解く。
「先は子分達が無礼を働いて申し訳なかった。薬売り、俺は名前。これでも山賊の頭だ」
「名前、ですか」
「知ってるのか」
「冷酷で無慈悲な人だと」
「てめぇこの野郎!」
名前と名乗った頭領は、掴みかかろうと薬売りに近づく男の前に腕をつきだして制止を態度だけで訴える。
「兄貴!」
「良いってことよ。事実だしな」
制止を受けた男は行き場を失った手を迷ったように動かして、それから下ろした。
すると名前は男を誉めるかのように笑顔で二度肩を叩き、その後薬売りの方を向く。
その顔には、変わらない笑み。
「事実は事実だがよ、薬売りさん、口には気を付けるこった。じゃねぇと長生き出来ないぜ」
「肝に、命じておきます、よ」
「良い姿勢だ」
名前はにっと笑う。
それから片方の足先で地をつつきながら俯いて頭を掻き、困った様に面を上げた。
「薬売り、あんたにゃ悪いが俺等に同行してもらう」
「はい」
「異存は無しか」
「言ってどうにかなるものでは、ないでしょう」
「そうだが、一応訊いたまでだ。んじゃ行くか。おい皆、帰るぞ」
名前は先に歩みを進める。
子分達は薬売りを縄で縛るつもりだったらしいが、命令が出なかったので動揺している。
一人の子分らしき小柄で頭髪の薄い男が名前に近付いた。
「兄貴」
「ん〜?」
「あいつ逃げるかもしれないっすよ」
「そんな心配いらねぇだろ」
「でもよぅ」
「あいつはただの通行人、俺等は此処を庭としている賊。そんな中であいつがこの場を上手く脱したところで逃げ切れると思ってんのか?」
「な、なるほど」
「心配するこたぁねぇよ」
「流石だぜ兄貴!」
名前は自分より遥かに年上の子分を宥めると、笑いながら足を進める。
それを快く思っていない数名が名前を睨んでいて、その光景を薬売りは眺めながら小さく笑った。
背の荷は、変わらずにカタカタと音を奏でている。
「屈強な野郎ばかりの場所にお前さんみたいな綺麗な奴を連れてきちまったから、野郎共が騒いでやがる」
名前は自分の家に着くなり外に向かって「聞き耳たてるような行為はすんなよ」と言うと、戸をピシャリと閉めた。
薬売りは適当に腰かけてくれと言われ、囲炉裏の傍に敷かれた茣蓙の上に腰を下ろす。
名前は土間の台所に立ちながら、少し笑い声をあげた。
「だが安心してくれ、俺の傍に居る間はお前の身の安全を保証する」
「離れたら、保証しない、と」
「離れるなって言ってんだ」
トン、と前に置かれた湯呑み。
中身は茶だ。
薬売りが酒を飲まないと予測しての配慮だろうか。
名前は傍に胡座をかいて座り、自分の茶を飲んだ。
急いて何かをするつもりもないらしく、名前は薬売りを眺めて笑みを浮かべる。
対する薬売りは茶も飲まず、無表情を決め込んでいるようだ。
「その髪は地毛か?」
「はい」
「綺麗な色だな。だが異端扱いもされただろう」
「……」
「触っても?」
「構いませんぜ」
「そりゃありがたい」
手を伸ばし、薬売りの顔の両側を流れる柔らかい髪の一房に触れた。
薬売りと異なり、皮膚には泥が染み込み汚れ、少し節のある指。
その指に髪を絡めて遊ぶ。
「へぇ、俺と変わらない質だな。もっと柔いかと思ってたんだが」
「髪、ですからね」
「ふぅん」
薬売りはようやく名前の方を向き、そして名前をまっすぐに見つめた。
名前は困惑することもなく、見つめ返す。
その瞳には曇りもない。
表情は気高く、名前の心の強さを全面に出している。
「掃き溜めに鶴、か」
「ん?」
「鶴は貴方のこと、ですよ」
「俺の事を悪く言うのは良いが、周りを掃き溜め呼ばわりはやめてくれねぇか。非道なことはしてるけどよ、あいつ等だって人間なんだ」
「……」
「それに俺の仲間だ。仲間を悪く言う奴はどんな野郎だとしても許しはしねぇ」
「そう思ってるのは……」
「こんな若輩者に頭領の座を任せたくねぇって奴等がいるのは知ってる」
離れる手。
名前は茶を飲むと、緩く笑った。
「人が集まりゃ必ず反骨心を持つ野郎は現れる。それが世の常ってもんよ」
「そう、ですか」
「それを纏めるのが上にいる者の役目だ」
薬売りは、少し冷めた茶に口をつける。
名前はそれを見て、少し目尻を下げた。
相手が山賊とあっては、茶が出されても薬物を盛られているかもしれないと疑って飲まない者が多い。
茶を飲むのは、少なからず信頼が築けた証だ。
名前は笑みを浮かべたまま、少しだけ表情を崩した。
「薬売りさんよ、あんたが持ってる剣は、物の怪が斬れるんだよな」
「ああ。しかし、退魔の剣を抜くには条件がある」
「条件、か。どんなんだ」
「形と、真と、理を、揃えねばなりません」
名前は頬を掻く。
「薬売りよ、刀を見せてはくれないか」
「構いませんぜ」
薬売りが指をスッと伸ばし、招くように曲げると荷が勝手に開いて中から紅い短刀が薬売りの手まで飛んできた。
「はは、こりゃ凄い」
刀は常に口をカシャカシャと言わせている。
名前は何に驚けば良いのか分からないらしく、ただ笑うだけだった。
「近くに物の怪が居る証拠、ですぜ」
「成る程」
「形と真と理を知らなければ、抜けないのですがね」
「形は分かるが、真と理とは何だ」
「真とは事の有り様、理とは心の有り様、を示す」
「難しいな」
「厄介では、ありますね」
名前は一息吐く。
落胆しながらも、仕方ないと諦めた様子だ。
「形は俺だ」
「やはり、貴方ですか」
「なんだ、気付いていたのか」
「貴方が来てから、退魔の剣が騒ぎ出したので」
「成る程」
「して、貴方は刀を抜いて、どうしたいんで?」
「俺の中に居る、鬼を斬りたい」
「鬼、ですか」
「あぁ。あんたも言っていただろう、俺を冷酷で無慈悲だと」
「どういう、ことで」
「俺の中に鬼が居る。そいつは狂暴で、近くにいる奴を襲っちまう」
「今は、普通ですぜ」
「今は人間だからな。それに普段は箍が外れても理性は保てているんだ」
「左様で」
「だがな、定期的に、本能だけの獣になっちまう時がある。そういう時は此処を離れて天照みたいに籠ってたんだが」
「……」
「何でかあの日は外に出てて、子分を一人、手にかけちまった」
名前は噛み締めながら言葉を吐き出す。
それは悔やみながらも、涙だけは流すまいと堪えているようだ。
泣くのは卑怯だと思っているのかもしれない。
泣いても叫んでも、奪った命は戻ってこないのだから。
「貴方が、殺したんで?」
「そうだ」
「記憶に、あるんで?」
「残念ながら、それはない。気付いた時には口内に臓物の味と、血がこびりついてるだけだった」
名前はその時の状況を思い出したのだろう、己の腕に爪を立てた。
当時感じたのは、底の見えない恐怖と絶望。
制御の利かない自分に、何を思ったのだろうか。
空白の時間を想像し、恐れを抱いたのだろうか。
「盗賊の生業をしている時は」
「その時は、力だけがみなぎっていて少し箍が外れているだけだから、冷酷で無慈悲だって言われるだけで済んでる。間違っても、鬼だとも化け物だとも言われちゃいねぇ」
笑って言う。
その笑みは、自嘲。
盗賊では冷酷や無慈悲と言われても仕方ないのだろう。
それを甘受し、ただ本質に触れる事を言われるのに恐れを抱く名前が今までどんな思いで生きてきたのかは、分からない。
外で鳥が羽ばたく音が聞こえた。
「刀は、抜けるか」
「まだ、足りない」
「足りない?」
「あぁ」
「何が、足りない」
「それは俺には分からない」
「そうか」
名前は落胆の色を見せずに、ただ笑った。
本来ならば触れたくもない、出来れば隠し通したい部分まで話したことを悔やんだりしてもおかしくないのに、その笑みは何でもないと言うようで。
薬売りは少し切な気に笑った。
翌日、名前の家に薬売りの姿があった。
子分の一部は余所者を泊めることに反対したが、名前が折れなかったので薬売りは今日も賊の隠れ家に居る。
鮮やかな服を着た薬売りは居るだけで目を惹く。
見た目も綺麗な薬売りだ、そういう行為がとんとご無沙汰な男達は薬売りが一人になればすぐにでも襲うだろう。
しかし残念ながらその傍には頭領の名前がいる。
頭領自身、屈強な男から見れば細身で、女の代わりにするのは簡単だ。
しかし名前は生業の最中、右に出る者がいないほど男々しく強いので、誰も組み敷こう等とは思わない。
自分に害がある者は切り捨てる。それを名前は公言しているのだ。
「名前」
「ん?」
「貴方は、何故、賊を」
薬売りを連れて釣りをした帰り道。
そんな事を問われた名前は、ただ曖昧に笑うだけだった。
返答もなく、まるで何処かの小さな村に住んでいる様に生活する名前。
薬売りは、少し眉尻を下げた。
一週間が過ぎ、名前は今夜、姿を消すと言った。
それは自分が鬼に成ると暗に伝えていて、薬売りは分かったとだけ言った。
「鬼の俺を見れば、お前は刀が抜けるか」
「分かりません」
「分からない、か。賭けに、乗ってくれはしないか」
「一週間、飯のお礼に、乗りますぜ」
名前の表情がクシャリと歪む。
今にも泣き出しそうな表情。
しかし涙は流れなかった。
「ありがとう」
名前は小さくそれだけ言って、重たい空気を払うように面を上げた時には笑みを張り付けていた。
「荷物はちゃんと持っていってくれよ。上手く俺を殺せたとしても、此処に居ちゃあお前の貞操は確実に奪われるぜ。失敗してももうお前に用はないから、此処を出ていってもらわねぇとならないしな」
捲し立てた名前は立ち上がり、外を見た。
小さな窓の向こうには、切り取られた世界。
繁る緑と鮮やかな紅の空。
名前は眩しそうにそれを眺め、薬売りに見られていたのに気付いたらしく、照れ臭そう様に笑った。
「哀しい、ですか?」
「否」
「何を、感じますか」
「解放感かな」
「解放感?」
「化け物を今夜だけは怖れなくて済みそうなんだ」
薬売りは分からない、と眉根を寄せた。
名前は窓辺に立って、まるで幼子を宥めるかのように柔らかく笑った。
「独りで抱え込んできた事を誰かに話すと、気分が軽くなる」
「軽く、なりましたか」
「あぁ」
「聞くだけなら、いくらでも、出来ますぜ」
「優しいな。情か?」
「そう、ですね」
「情に流されずに、斬ってくれよ」
「分かって、ますよ」
名前は笑う。
それは今までに見たどの笑みよりも、柔らかくて、偽りのない笑みだった。
なのにそれは、薬売りを酷く哀しい気持ちにさせた。
名前は籠る場所へ向かう最中、薬売りに以前問われた事への返事を返した。
「俺が賊になったのは、前頭が俺の親父だからだ」
「鬼、だった、と?」
「否、親父は人間だ。女が鬼だった」
「半妖、ですか」
「あぁ」
すでに名前の容姿は少しずつ変貌を見せ始めている。
爪は尖って延びており、瞳は夜でも昼と変わらぬ世界を見せていた。
獣は名前が纏う気配を恐れて姿を隠している。
「お前も俺が怖いか?」
「まさか」
薬売りが笑う。
薬売りからしてみれば、人の形をしているだけマシなのだ。
名前は恐れを見せない薬売りに安心したように笑った。
人ならざる己の姿を畏怖する名前。
誰かに見られやしないかと、いつも摺りきれそうな程神経を使っていたのだろう。
「女が名を轟かせていた親父に恋をして、人と偽ってきたんだってよ」
「そう、ですか」
名前は笑う。
鬼になっても変わらない微笑みは、人を襲うとは到底思えない代物だ。
これが人に牙を向くようになるのだから、本能に理性は敵わないのだと思い知る。
「この上に隠れ家があるから、そこに居てくれ」
指された一本の巨木の上。
俺だけが知っている隠れ家なのだと、名前は笑って言った。
決して笑みを崩さないその姿勢には、どのような意味があるのだろうか。
笑っていなければ、恐怖を押さえ込めないのだろうか。
何でも笑って誤魔化して、そうしなければ耐えられないのかもしれない。
「それじゃあな」
名前は巨大な岩を軽々と動かし、奥にある洞穴に入って、岩で蓋をした。
薬売りは言われた通り、木の上にある小屋に身を潜め、下を眺める。
中で何がどうなっているのかは分からないが、時折、カリカリと岩で爪を磨ぐ音と獣の遠吠えの様な声が響く。
その度に山の獣は逃げるように地を駆け、鳥は羽ばたいた。
その音に混ざって、数人の足音。
「おい、しっかり持て」
「重てぇんだから仕方ねぇだろ」
獣が吠えた。
きっと狼だろう。
薬売りは目を凝らす。
血の香りが少しだけ鼻をついた。
「……?」
屈強な男が二人、何かを運んでいる。
葉の隙間から降り注ぐ月明かりの元に晒されたそれは、人間だった。
腹を裂かれたそれは血生臭く、獣達が本能を刺激されて騒ぎ出す。
岩の前に置かれた遺体。
男二人は洞穴を塞ぐ岩に縄をつけ、梃子を利用して引っ張っている。
転がるようにして開いた空間から人影が飛び出し、そして血の香りを発する遺体に跳びかかった。
まだ死んだばかりのそれに跳びかかる名前であった鬼を、遠くから二人の賊が眺めながら縄をたぐり寄せて自分達がいた証拠を消そうとしている。
しかし運悪く縄が木に引っ掛かり、男が力任せに引っ張った為に大きな音が鳴ってしまった。
鬼は臓物を食らうのを止め、音源へと視線を向ける。
今は闇が支配する世界だと思っている賊二人は動かなければ気付かれないと考えているらしく、逃げたりはしなかった。
それが間違いなのだと気付いたのは、鬼が賊の元へ駆け出した時だった。
薬売りは木の上から飛び降り、鬼が男達を殺そうと降りかざした鋭利な爪を携えた手を短刀で受け止める。
「名前っ」
力は鬼が有利らしく、短刀を持つ薬売りの手が力に押されて震えている。
「おあぁぁぁあああっ!」
賊の一人が悲鳴をあげ、刀を抜く。
薬売りが制止の声を発するより早く刀は鬼の腹部へと突き出されたが、鬼は軽々と後ろへ跳躍した。
降り注ぐ月明かりの元に照らされた姿はまさに鬼。
人成らざる証拠に角が生え、口元には鮮血がこびりついている。
「名前!」
鬼は薬売りの叫び声に、顔を歪めた。
一瞬見せたその表情は今にも泣きそうで。
しかしその表情は、鬼同様に夜目が利く薬売りにしか分からなかっただろう。
「名前……」
鬼は手に顔を埋めた。
「名前、意識が」
鬼は膝を付き、嘔吐した。
充満する胃酸と血と臓物の臭い。
「斬ってくれ」
嘔吐を繰り返した為にしゃがれた声で、ただそれだけを言った。
「まだ、抜けません。真は分かったが、理が、まだ……」
「お前達でも良い!早く俺を斬れ!」
後ろで呆然としていた賊の二人は鬼の叫びに身体を震わせていた。
鬼は己を陥れる為に部下がしていた行為に何故だと問いはせず、ただ斬ってくれと繰り返す。
「お頭……」
「さっさと心臓を突いて、それから首を跳ねろ!それ以外だと、鬼は何度でも甦る」
俺の母親がそうだった。
鬼はそう告げたが、賊は化け物を恐れて歩み寄ろうとはしない。
鬼はようやく面を上げて、焦点の定まらない視線を薬売りに向けると、笑った。
力無く、情けない笑みだった。
口の端が緩く上がっているだけで、いっそ泣いた方が潔いとすら思わせる笑み。
「あんたと居た時間、楽しかった」
「……」
「鬼を受け入れてくれて、ありがとうな」
「名前」
「じゃあな」
瞬間、鬼は小さな葉の擦れる音だけを作って姿を消した。
後ろにいた賊は狼狽している。
若頭が気に入らず、ある日、後をついていった時に偶然知った名前が半妖と言う事実。
名前が秘め事としている事を知り、いつでも脅せると云う優越感に浸るのも束の間、姑息にも名前を指示する邪魔者も排除しながら名前を追い詰める作戦を企てたのだ。
それが、これだった。
今しがた、思惑通り名前は姿を消した。
男達は内心で喜んでいるが、目の前にいる薬売りをどうするかで悩んでいた。
自分達が仲間を殺して贄にしたのを薬売りは知っている。
首を突っ込んでくるとも思えないが、万一バラされた時が面倒くさい。
男達は目配せをして、自分達に背を向けている薬売りに刀を向けた。
派手な身なりの男が道中を歩く。
田んぼに挟まれた細い道は、丈の長い葉が繁っている。
田に鴨を放っている女性が、挨拶をしてきた。
「お兄さん、あの山を越えて来たのかい?」
「はい」
「じゃあ、お兄さんは運が良いよ。あの山には鬼が居るのさ」
薬売りは、悲しげに笑った。
盗賊頭という枷が外れた鬼は、今、人を襲うことを躊躇しない。
最初に殺したのは、薬売りに襲いかかろうとした二人だった。
それからは本能的に自分の敵を理解して殺めていたのだが、最近では敵味方関係無く、通行人を襲うようになってしまった。
その討伐に、薬売りが来たのだ。
もう形も、真も、理も揃っている。
後は出会い頭に、討伐するのみ。
「名前は自分の名を、まだ、覚えているんですかね」
かつて名前だった鬼を思って、薬売りは瞼を閉じた。
かつて
賊の名前として名を轟かせた者は
望みもしなかった姿で
名を轟かせている
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