モノノ怪 短編 | ナノ
かごめかごめ
泣き声が鼓膜を震わせて、それがたまらなく不快だった。
痙攣する喉、意味を成さない声(最早声ではなく音だ)、顔を横断する掌。
総てが不快指数を高める。
ましてこの暑さ。
湿度の高い空気によって乱れた呼吸を正そうと深呼吸をしても、苛立ちは収まることを知らない。
むしろ、生温くて重たい空気が肺胞を満たして、苛立ちは増す一方。
水気ばかりで酸素が足りない空気に眩暈がした。
かごめ かごめ
相も変わらず名前が作り出す音で空気は震える。
なかなか出て来れぬ現つ世であるが、俺は来れる時間は脇目も振らずに此処に来た。
それを名前もすんなりと受け入れていた。それも快く、だ。
稀少な逢瀬だというのに、今日の名前は俺の姿を認識するなり涙を流して俯いた。
解せぬそれに何だと目を瞠れども、名前は黙ってただただ泣くばかり。
空は闇色。月と星が囁く声も分厚い雲によって遮られた今は、まさに静寂。
本来ならば静寂によく響く心地良い名前の調べに耳を傾けながら戯れに触れ合うのだが、不愉快な音しか出さない名前には触れる気すら起こらない。
窓の外を見る。
今にも大粒の雨が降りそうだが、どうにか耐えているようだ。
視線を未だ俯いて泣いている名前に向ける。
何だと、云うのだ。
「何を泣く」
「悲しいのです」
「何がだ」
「げに、悲しいのです」
だから、何を。そう云う前に名前は顔を上げた。
派手な化粧は涙に流れ、目尻に指した紅は顔を縦横している。
それがあまりにも滑稽で笑みが浮かびそうになったが、何故か顔の筋肉は微動だにしなかった。
「貴方様にもう逢えませぬ」
「何故」
「身請け人が決まってしまいました」
「それは、良かったではないか」
名前はいつ何時であろうと微笑を崩さなかったのに、今は繕うことも忘れて感情のままに顔を歪めた。
闇に紛れて表情が見られないと思っているのだろうか。
そう云えば、こいつに夜目が利くと伝えたことは無かったか。
「何故そう申してくれるのですか」
「身請け人が居れば不特定多数を相手にすることも、お前が食いっぱぐれることもないのだろう」
「嫌です。嫌なのです。喩え我が身が病で溶けようとも、朽ちようとも、此処を離れたくのう御座います」
「何故」
「貴方様に逢えなくなってしまう。それが恐ろしい」
そう言ってさめざめと泣く。
遊女にとって身請け人が決まるのは喜ばしいことの筈だ。
身請け人が決まればこの腐敗した空間から抜け出せるのに、それを拒む。
「悔しゅう御座います」
名前は両が掌に顔を埋めて、肩を揺らす。
涙は嗚咽を呼び、嗚咽は悲鳴を呼ぶ。
「何故彼の様な男に買われねばならぬのでしょう、何故我は此処に閉じ込められてしまったのでしょう」
「やめろ。心が爛れるぞ」
「何故父も母も我を売ったのか、何故、何故……」
名前は泣く。
声を震わせ、とうとう蹲った。
「何故貴方は我を攫ってはくれぬのです」
無理を承知で宣う名前は不様で潔い。
現つ世に身体を持たない俺に、名前は攫えと云う。
攫ってどうする。逢瀬は月に一度程度、闇が幕を垂らす時刻だけ。
俺が居ない間、名前は生きられるのか?
所詮名前は籠の中の鳥。
幼い頃からこの女だらけの園に閉じ込められ、客を悦ばせる為に囀りながら媚を売るだけ。
そんな名前が外で、独りで、生きられるはずが無い。
「何故、何故、何故!」
「よせ。心が喰われるぞ」
此処は遊廓。
無念のうちに亡くなった女の怨恨は地に縛られ逃げ場を無くしている。
「いっそ食ってはくれませぬか。我の心が喰われればこの苦しみからも逃れられましょう」
「やめろ、己を捨てる気か」
「我は貴方様が居てこそ、己を持っておりました。そうでなければ我は我など、持ってすらおりません」
名前は泣き顔を上げる。
頬を濡らす紅に、思考が凍り付いた。
「憎たらしきは己が運命なれ」
そう言って名前は頭を掻き毟った。
発狂したのか。そう思ったが、どうやら違うらしい。
名前の額に、まるで瘤の様な小さな突起が現われた。
嗚呼、鬼だ。
鬼が喰ってしまったのだ。
「我は今鬼になり給う」
「自ら鬼になったか」
「斬ってたもれ」
「斬らぬ」
「斬ってたもれ」
「斬る価値もない」
さむざめと泣くその額からは角が消えていた。
一時の気の迷いで鬼になれるほど、名前は弱くなかったのだ。
「お慕い申しております」
「現つ世を愛でるのだな」
「貴方様以外をどうして愛せましょう」
「ならば、お前が死んだ時に迎えに来てやる」
名前は三つ指ついて、お待ちしております。と言った。
名前は夜明け前、まだ晩の時刻、大門を抜けた。
身請け人の軟弱そうに見える男は実に楽しそうに笑っている。
「ついて来なさい」
名前は言われるがままについて行く。
着いた家は大きく、まさに金持ちだ。
名前は息を呑んだ。
「こちらだ」
ついてゆく。
そこには、離れがあった。
「中に」
先を促され、名前は重い足取りで灯りの無い、倉庫のような建物の中に入っていった。
どうにも生臭くて辺りを見回すが、何も見えない。
と、背中を突き飛ばされ、名前は予期しなかった衝撃にあっさりと倒れた。
「何を」
慌てて振り返ると、そこには逆光の為に輪郭しか見えない影。
それはさながら、毎夜相手にしてきた不特定多数の人間のようだ。
「好い声だ」
「なにを……」
「高かったのだろう?」
「まぁな。上物だ。まるで不如帰のようだろう?」
周りからわらわらと、若い男達が姿を現す。闇に潜んでいたのだと、遅かれ名前は気付いた。
「大切な玩具だ、粗末に扱うなよ」
「では何をするの?」
「そうだな、まずは」
身請け人が名前を見る。
名前は抜けた腰のまま、後ずさった。
「奥歯でも一本、抜いてみるか」
男は実に楽しげに笑った。
〜戯言〜
かごめ→籠女
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