モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
君を想えば:驪羅様へ
蝉が啼く。
夏が来た、夏が来たと叫ぶように盛大に。
冬は深い雪によって孤立する村だが、夏場は盛り時というように外の者が訪れる。
夏場も涼しい此処は避暑地に最適なのだと、店に冷やかしで来た旅の者は言った。
隣の店が宿屋なので、丁度宿泊に訪れた旅人はよく我が家に寄る。
それは本当に品物を目利きに来る客から先ほどのような冷やかしまで、様々だ。
客の出入りが多いのは商人として大変喜ばしい事ではあるが、普段人と頻繁に話さないために疲労が早い。
店仕舞いをする頃には、顔の筋肉が痛くなっている。
暖簾を下ろして屋内にしまうと、黒猫がニャアと鳴いて私の足に擦り寄ってきた。
抱き上げて胸に抱くと、黒猫は肩に顎を乗せてきて。
部屋で何をするでもなく、のんびりする。
夏にしては涼しいと言われる夜。
僅かに水気を帯びた風が室内を横断して、私は心地好さに瞼を閉じた。
君
を
想
え
ば
「西明」
それは食事の最中。
薬売りは箸を置かずに、思い出したかのように声を上げた。
物干し竿で羽を休ませていた鳥が逃げるようにはばたき、横になっていた猫が一声あげる。
それ以外は、何の変哲もない時間。
「猫、ですか」
横を見れば、薬売り。
どうやら、私が胸元に抱えた猫を見ているらしい。
「黒猫だ」
洗ったおかげで綺麗になった黒猫は、私の着物を噛んで遊んでいる。
「飼うんで?」
「こうも懐かれたら」
仕方ないだろう。
薬売りが黒猫を撫でようと手を伸ばしたら、爪を立てられた。
流れ出る血。
困ったように笑う薬売りの手を取って、私は薬を塗る。
ミンミンと啼く蝉の、煩いこと。
「小さい、でしょう?」
だから大丈夫だと、言うでもなく伝えるのは悪い癖だ。
男のものだとは思えない程、細く長く白い指から視線を外して薬売りを見れば、苦笑を浮かべていて。
「菌が入れば傷の大小に関係なく厄介だと、知っているだろう」
やわに見える手に薬を塗って、乾かす。
元気に啼く蝉が煩くて、お互いに庭を見つめた。
そこは雪がしんしんと降り積もっていて、空は灰色。
息を吐くと、白い煙のようになった。
私は目の前に脱ぎ捨てられた着物に触れる。
京染めの深蒼に、鳳凰の刺繍が施された着物。
成人する前に亡くなった呉服屋の娘の、忘れ形見。
「西明は、どうしてこんな事を、するんで?」
帯を畳む薬売りが問うてくる。
わざわざ訊ねてくる薬売りに、私は小さく笑った。
答えを出さぬままに戸をくぐる。
すると旅支度をまとめ、荷を背負った薬売りが玄関先に居た。
その表情からは、何も読み取れはしない。
ただ、目が訴えている。
お前も所詮は、我が身可愛さに動く者達と何ら変わらないのだと。
喉が、口内が、乾燥したような感覚に眩暈がする。
言わなくては。
決別の言葉を、言わなければ。
「達者でな、薬売り」
「西明も」
「私は変わらんよ」
善くも 悪くも、な
「西明さーん。西明さん!」
大きな声に驚いて、目を見開く。
すると視界は僅かに青く染まっていた。
「西明さん!居ないんですか!?」
「います、おります!」
壁に背を預けて座した状態で寝ていたらしい、変な箇所が痛い。
それでもどうにか立ち上がって、今の声に驚いて逃げたのだろう黒猫の存在を確かめてから店先へ向かった。
「如何なさいました」
「海も知らねぇ旅人が海に入って足を怪我しちまったんだ!ふくらはぎがぱっくりして、生爪が剥がれちまった」
「今から行きます」
「ありがえて、今隣の宿に運んでるから、頼んだぞ!」
走り去る海の男。
私は屋内から数種類の薬草と、綺麗な水を持って隣家へ向かう。
親指の爪が綺麗に剥がれ、ふくらはぎがぱっくりと縦に裂けた男性に応急処置を施す。
痛みに呻く男に薬を処方して、宿の一室から出れば女将がいた。
「西明先生、お疲れ様。夕飯は食べていくだろう?」
「ご迷惑をおかけする訳にはいきません。この夕飯は、上で寝ている彼に出して下さい」
彼女の息子達が西明先生、と懐いてくるが、私は早々に隣家を出て自宅に戻った。
起きて早々どたばたして疲れたが、おかげで夢について考えずに済んだから良かったとしよう。
しかし、今になって静かな家が憎たらしい。
「淋しいのかい?」
と問うてくるのは豪華な錦糸で刺繍が施された帯。
「彼の人は、いつになったら来るんだろうね」
と言うのは、漆塗りの碗。
「あなた達が待っている男はもう二度と、訪れはしませんよ」
と返すのは、私。
薬売りはもう二度と訪ねてはこない。
それは隠しようもない真実だ。
薬売りが亡くなったからでは、勿論無い。
薬売りが此処に来る理由が無くなった。
ただそれだけのこと。
薬売りが望むような、魑魅魍魎に優しく、そして利潤目当てで動くような輩とはまったく異なる高尚な人間とは、かけ離れたから。
ただそれだけのこと。
しかし私はそれを悪いとは思わない。
もし私があの場で松平を殺し、人体実験を世に露見させたとして、誰が信じる?
松平はお役所公認の、まっとうな街医者。
対する私は、まがいものの村医者。
街人が私を信じるとは到底考えられない。
しかも松平の後ろには役人どころか、殿がついていた。
政府も自分達の行いを世に知られるわけにはいかないだろう。
気狂いした久倉西明の行いと政府は言い、私に罪を被せた上で、見せしめに私を極刑に処すかもしれない。
更に村にまで被害が及び、私だけではなく村人にも危害が与えられるかもしれなかったのだ。
そんな不利な状況で、どうして松平を裁いて己が正義を貫けるだろう。
私はそこまで愚かではない。
世の生き方を知っている。
だから、依頼通りに松平を物の怪から救い、私はあの地を去った。
それの何が悪い。
生きる為に必要な事だったのだ。
なのにどうして、蔑んだ目を向けてくるのだ。薬売り。
「にゃあ」
チリンと、音を奏でて黒猫が擦り寄ってくる。
私は黒猫を抱き上げた。
「夕飯の時間だ」
一緒に食べよう。
そう告げれば、黒猫は擦り寄ってきて。
闇色に染まる世界には、薬売りを彷彿させる極彩色はもう存在しない。
早く冬が来て、色合いが失われることを願いながら、私は部屋へと向かった。
〜戯言〜
驪羅様からいただいたリクエスト、『店主が保身の為に医者を生かし、薬売りと決別したその後の話(シリアス)』でした。
苦情はいくらでも受け付けます。
リクエスト、ありがとう御座いました!
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