モノノ怪 飽和する世界 番外 | ナノ
雪解け
寒い時期に聴く水の流れる音と雫が地面を弾く音は、私にとって日照りの象徴だった。
日光を浴びて降り積もった雪が溶ける。
屋根からは氷柱を伝って雫が落ち、大地の上は小さな川が作り出される。
その音を、私は毎年聴いていた。
それが、今年に限って、否、今年からは違うのだ。
大地を弾くのは雨粒。
降り注ぐのは雪ではなく、大粒の雨。
地域でこれほどまでに違うのかと思った。
今の時期、私の故郷では雪しか降らないのだが、此処では雨が降っている。
「季節感がまるでない」
呟いた言葉と共に吐いた息は白くならない。
それは私が長く外に居て外気と吐き出す息の温度がさほど変わらなくなったからかもしれない。
けれど、今日は指先がひどく痛むほどの寒さではないのだ。
それはきっと、此処が暖かいから。
「此処の人には、これが冬、ですよ」
隣に立っていた男がポソリと呟いた。
男は寒そうにしている。
「寒いか?」
「ええ」
「そうか」
では昨年、私の所で迎えた冬はこの男にとって極寒と言っても良かったのだろう。
私は毎年同じだったから何とも思わなかったのだが。
「早く宿に戻るとしよう」
「そう、ですね」
私の笠を、そして薬売りの傘を叩く雨粒。
ぬかるんだ大地。
帰ったら足袋を洗わなくては。そんな事を思った。
宿についてほっと一息を吐く私と、いそいそと七輪の傍による薬売り。蹲って小さくなった背は、童のようだ。
「寒がり」
「西明が特別、寒さに強い、だけ、です」
「住んでいた地域が違うからな」
身を切るような寒さではない。
末端が凍傷になるのではと思う事もないのに、そんなに寒いのか。
困った奴だ。
寝室の掛け布団は冷えているが、羽織れば体温の放熱を防ぐ役割をもってくれる。
「ほら」
掛け布団を薬売りにかける。
薬売りは案の定、冷たいです。と不満を口にした。
「じきに温かくなる」
笠を外す。
目深に被っていた為に狭まっていた視界が広がって、開放感が得られた。
それと同時に、私を守る鎧が剥がされたような感覚。
此処は薬売りだけしか居ないのだから鎧など不要なのに隠したがるのは、後ろめたさがあるからだ。
「嗚呼、寒い」
薬売りが呟いた。
こんな寒がりで、よくあの土地で冬を越したものだと思う。
気紛れにしては、愚かな行いだ。
……否、おおよそ、薬売りはすべてを見越していたのだろう。
隣街の松平の事も、私があの冬、松平の家へ赴く事も。
そうでなければこの寒がりが、あの雪に閉鎖される地に来るはずが無い。
何もなければ、今のように雪の降らぬ地で穏やかに過ごしていたはずだ。
「西明?」
名を呼ばれて、深い思考に引きずり込まれそうだったのだと気付く。
七輪に手をかざした薬売り。
綺麗な手だ。
私も隣に腰を下ろし、七輪のぬくもりを頂く。
もし。
もしもあの時薬売りが居なければ、私は私ではなくなっていただろう。
鬼に心を喰われ、魂を融合され、鬼そのものに成り代わっていたに違いない。
それを止めたのは、この綺麗な手だ。
私が薬売りを襲った時、札を貼ってくれた。
そのおかげで正気に戻れたのだ。
私を私に戻してくれた手。
その手を持つ薬売りは、愚かだ。
妖怪を斬る刀を抜く手を持ちながら、妖怪の私を斬らなかった。
代わりに、自害しようとした私を救ったのだから、どこまでも愚かで、その愚かさに胸が苦しくなって涙が出そうになる。
私は現在、半分は鬼だ。
これから完全な鬼になる可能性も十分にあったのに、私を斬らずに生かした。
それが酷く、愚かだと思う。
「西明は、寒くないんで?」
「寒さに強いだけであって寒いものは寒い。 だからこうして、七輪に手を」
かざしているのだ、という言葉は続かなかった。
薬売りは掛け布団を分け合うように私にもかけてくる。
隙間が空いて寒いのか、薬売りは此方に寄ってきて、肩同士が当たった。
「温かい、ですね」
「……そうだな」
薬売りは私を生かした。
それは遥か先まで見通せば愚かなことだ。
けれど
生きているからこそ、こうして寒い時には肩を寄せあいぬくもりを共有出来る。
死んでいては出来ない。
私は爪は鋼になり、額には小さな瘤のような角が二つあり、瞳は赤くなってしまった。けれど完全な鬼ではなく、まだ人の心を持っている。
心まで鬼になっていれば楽だったのにと思わない時が無いわけではない。
けれど今は、薬売りと共に過ごす穏やかな時間だけは、心が人間であり、生きていて良かったと思ってしまう。
高慢な己は、いつの間にか肥大していたのだろうか。
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