モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
安穏
基本的に私が家に居る時は、冬場以外であれば店の戸は開け放って暖簾を下げているだけである。だからだろう、今、土間の隅に黒い鞠のような何かが居る。
私はそれが何かを認識しているのだから『何か』と云う表現は可笑しいか。
近付けば、それは私をくりっとした瞳で見つめてきた。次いで威嚇か、それともいつでも逃げられるようにか、すぐにでも跳びかかれる体勢。敵だと認識されているのだろうか。
試しに手を伸ばせば、痩躯が跳ねる。
これでは相手に近付けない。一度退くとしよう。
台所に行って、何か食わせられる物は無いか探す。今朝方漁師より頂戴した小魚があった事を思い出し、皿に盛る。
もしかしたらもう逃げているかもしれないと思いながら戻れば、それは相変わらずその場に丸まっていた。先程は痩躯を跳ねさせていたくせにこの様子。存外、図太い神経の持ち主のようだ。
「ほら」
それから少し離れた場所に皿を置いて、待つ。
痩せ細ったそれは食事に釘付けらしく、私が傍にいるのもお構いなしにふらふらと皿に寄って来た。黒猫は幼くして野良なのだろう、一見しただけで分かるくらいに毛は固くごわごわしている。
野良の黒猫は魚にかぶりついて、食べる事だけを必死に繰り返している。食べ終わるまで待ってから猫の小さな頭に触れると、抵抗も拒絶も無い。
くりっとした瞳が私を捕らえるだけだ。
どうやら食事を与えてくれる人間は良い奴だと思っているらしい。試しに抱き上げれば、猫はニャアと啼いた。
なかなか、可愛いやつだ。
寒いだろうと少しぬるめの湯を張って一通り洗うと、元が良いらしく綺麗な飼い猫のようになった。綺麗になった黒猫は痩躯をスッと伸ばして私の後ろをついてくる。
どうやら懐かれたようだ。胸に抱いてみれば、着物の胸元を甘噛みしてくる。
「西明」
「あぁ、お帰り」
倉庫に行っていた男が、持ってきた数冊の書物と巻物を畳の上に置いてから近付いてくる。
「猫、ですか」
「黒猫だ」
「子供ですね」
「ほんの子供だ」
厭きもせず着物を噛む猫。おかげでその部分だけが唾液で濡れてしまっている。
男もその様子を眺めていて、何を思ったのか、急に納得した風な声をあげた。
「どうした」
「この猫は……」
男が私を見る。
嗚呼、嫌な予感がする。
「西明の母乳が恋しいの、ですよ」
予感が的中するのは、この男に限っては全く嬉しくない。この猫はまだ幼いからお乳が恋しいかもしれないが、何故私に限定する言われなのか。
まったくをもって気にくわない。
「子を産んだ覚えはない」
「当たり前です。俺の目が黒いうちは……」
「母乳は、産後数ヵ月しか出ない」
「……でも、欲しがってます、よ」
西明のを、と男はまだ言う。限定をするな。
「薬売り」
「はい」
猫を男に抱かせると、猫は男の身に染み付いた薬草の香りが気に入らないのか、すぐに飛び降りて私の足に咽を鳴らしながら寄ってきた。
「嫌われているな」
「残念です」
「心にも無いことを」
「酷いですね」
「真実だろう」
鼻で笑ってやれば、否定はしません。と一言が返ってきた。元来生き物に執着しない男だ。それが猫一匹に嫌われて残念も何も無いだろう。
「飼うんで?」
「こうも懐かれては……なぁ」
しゃがんで首元を撫でてやると、気持ち良さそうに瞼を閉じてごろごろと啼く。とても野良だとは思えない人懐っこさだ。
「我が家にやって来たのも何かの縁だろう」
「西明が動物を飼うとは、珍しい」
私も元来情を抱いたり生き物に執着をしたりはしない。そうすれば離別や死別に苦しむ事も、悲しむ事も無いからだ。幼い頃、足りない頭で消去法を用いて築いた自己防衛の殻。
気が付いたらその殻は身に染み付き過ぎていて、意識せずとも執着をしなくなっていた。
そんな執着をしない私の姿を見てきた男だから、不思議がるのだろう。
「気紛れだ」
「気紛れ、ですか」
男が手を出せば、猫は威嚇をする。何がそんなに気に入らないのか。
少しばかり理由もなく嫌われている男を不憫に思った。
「やけますね」
降ってきた言葉の意味が分からずに隣に立ったままの男へ視線を向ければ、逆光で影になった面が近付いてくる。後退せずにいれば、触れるだけの接吻をされた。
猫が布を裂くような声を上げる。
目前にある面を見れば、藤色の紅で始終笑みの形に見える唇が本当の笑みを作っていて。
普段笑みを見せない分、こういう時に見せる笑みはやたらと柔らかい。この笑みで商いをすれば、きっと優男だと思われて変な野郎にでも目をつけられるに違いない。
なのにいつもの冷淡な面など外して、笑う時はその面で笑えば良いのにと思ってしまう。
「突然だな」
「気紛れ、ですよ」
「気紛れか」
「それに……」
一寸言葉を止める男に促しをかけようとして、止めた。
促されなければ言葉を紡げない程、この男は青臭くない。言いたい事があるならば、勝手に話すに違いない。
「猫に……西明との仲を宣言しようと、思いまして」
思わず笑ってしまう。やけるとは、妬く事だったのか。
急に言い出すから何かと思ったら、猫に妬いたというのか。
まったく、この男は。
「猫に妬く奴があるか」
「ここに」
開き直る始末。その姿勢を微笑ましいと思ってしまうとは、私の脳も相当いかれているらしい。
猫は猫で男を威嚇していて、
嗚呼、本当に、手に負えない。
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