モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
殻
目覚めて最初に、静寂が耳を支配した。
障子を透かして入る陽射しに夜明け後だと知れるが、それなのに音が無いのはおかしい。
この家の主人はいつも夜明け頃に起きて、朝飯の支度をしているのに、その音がしないのはおかしい。
長く寝てしまったのだろうか。
起き上がろうと布団を剥ぐと、冷気が身体に触れて一瞬身体が強張る。
もう一度布団に潜ろうか。
否、惰眠を貪れば夜が眠れない。
ここは起きよう。
起き上がって、薄暗い部屋の中で西明の姿を探すが居間にも店先にも無い。
代わりに西明の部屋の戸は閉められていた。
寝て、いるのか?
常に規則正しい生活をしている西明が俺より遅いとは珍しい。
そう云えば、昨日の夜に帳簿がどうだと言っていたから、遅くまでやっていたのだろうか。
起こすのは止めよう。そう思って、勝手に台所を漁る事にする。
西明は朝飯が一日の基盤だと言っていた。俺もその通りだと思っている。
昨夜の残りを頂いていると、西明が黒猫と名付けた、そのまんまに黒い猫がこちらに近づいてきた。
「にゃあ」
西明に妖力封じにとつけられた鈴が鳴る。
こんな小さい子猫が西明に化けて一騒動起こしたと俄かに信じがたいが、事実を見ている俺は信じるしかない。
しかもこの黒猫は人語も理解出来て、首を縦や横に振って返事をしてくる。
どこまでも一般の猫から外れた猫だ。
「にゃあ」
啼いた後、西明の部屋の前へと走る。
そして襖を掻き始めるので、摘み上げた。
西明が起きてこない事が心配なのだろう。
「西明は寝るのが遅かったから、寝ている」
猫に話しかけるのは他者から見れば滑稽な姿だろうが、今は誰も居はしないから冷ややかな目線を向けられることもない。
猫は解ったらしく頷いて、床に下ろすと俺の皿から魚を盗んで、ちらりと勝ち誇ったようにこちらを見ると、走り去っていった。
どこまでも、可愛くない猫だ。
火鉢に火を灯して手をかざせば、微力ながらも指先を温めてくれる。
部屋が暖まるまで動けないなと考えていると、這い出たままの布団がだらしなく部屋を占領していた。
どれ、少しは西明の仕事を軽減しようか。
しかし外は天気が良いとはいえ、布団が干せるほどではない。
布団は畳んで部屋の隅に置くだけにした。
他に何かやる事は無いだろうかと考えて、部屋の掃除をする。
そうすれば、元から荷は己と木箱以外無い身。
部屋は荷さえ退かせば、俺が来る前のただの客間と成り下がる。
西明はそれなりに綺麗好きなので、この部屋を見れば仕事が減ったと喜ぶかもしれない。
いつも衣食住をたかっているのだ、これくらい、たまにはすべきだろう。
どれ、今日は西明も疲れているようだし、部屋の掃除くらいはしてみよう。
お節介だと言われるかもしれないが、やって迷惑ではないだろう。
そう思って立ち上がり、火鉢を手始めに片付けると、黒猫の首輪とは違う、少し低い鈴の音がした。それは店先に来客が来た合図の鈴だ。
西明に用事がある者だろう事は確かだが、生憎西明は寝ている。
店先に行くと、何度か見た事がある者の姿。
夏に確か畑にいた姿を見た事はあるが、名は覚えていない男だ。
まさか言葉を交わす事があるとは、思ってもいなかった。
「あぁ、こんにちは薬売りの兄さん」
「こんにちは。西明に何か、御用、で?」
「息子が風邪を引きまして、西明先生に診て頂けたらと」
西明はこの地域で骨董屋ではなく医師としての認識度の方が、高いのではないだろうか。
本人はそれをどう思っているのだろう。
まぁ、西明に訊いたところで、特に何とも思っていないと返されるのがオチだ。
「俺が、診て、みましょうか」
「え!そんな、とんでもない」
「構いませんよ」
西明を起こして医者まがいの事をさせるのは気が引ける。
風邪くらいなら俺も診られる。
それにこれでも薬屋をやっているのだ。
それ位の診察は出来ねばならん。
引き受けると申し出れば、相手は口籠もる。
「いや、あの。……薬師に頼める金なんて持ってないんですよ」
男はそう言って、頭を掻いた。
農家なのだろう男の格好は、見るからにみずぼらしい。
薬に使う薬草も高価な物だし、診察代も馬鹿にならないから、俺が診るというのに戸惑っているようだ。
西明のように無償ではないと考えるのは、それを生業にしていると思い込んでいるからだろう。
事実そうなのだが、無いところから金を搾取する気はない。
「西明の代わりですから、金は取りませんぜ」
「ほ、本当ですか?」
「はい」
「あ、ありが……」
相手が頭を下げようとするので、制する。
西明が寝ているのだ、これ以上声を張られては起きてしまう。
早々に部屋に戻って荷を背負い、家を後にした。
子供の風邪は流行り病からくるものではなくて、ただの風邪だった。
子供の父親と母親は頭を下げて、ありがとう御座いますと言う。
「今は何もくれてやるものがありません」
「構いませんぜ。見返りが欲しくてやったわけでは、ないんでね」
「申し訳ない……あ、薬売りの兄さんは夏に来るんですよね」
「はい」
「ではその時、果物を差し上げます」
「それは、楽しみです」
閉鎖的な村ではないが、毎年決まった時期に来る者は珍しいのだろう、すっかり夏の風物詩扱いだ。
どれ、今度は風鈴でもぶら下げて来てやろうか。そんな阿呆な考えを浮かべながら固くなった雪を踏みしめ、のんびりと帰路に着く。
まだ寝ているとは思えないが、あまり音を立てないようにして戸を開ける。
だが、チリンと、来客が来たらすぐに分かるようにと付けられた鈴が鳴ってしまった。
しかし足音はしない。
動く気配もない。
まだ寝ているのだろうか。
そうだとすれば、寝すぎだ。いい加減起こしたほうが良いしれない。
下駄を脱いで床に上がったところで、風の流れを感じた。
障子は総て閉めていった筈なのに、おかしい。
奥を見れば、そこには俺の部屋の障子ではなく、開け放たれた部屋。
視線だけ巡らせれば、何処も襖が開けられている。
誰が開けたのか、それは問うだけ無駄だ。
俺の部屋の中心に西明が座っていて、こちらを見ている。
何だ、起きていたのか。
「おはよう、御座います」
時刻的にはこんにちはだが、同じ家にいる間は、最初に顔を合わせた時がおはようだ。
歩み寄るが西明は無表情に俺を見上げるだけで、返事もない。
「西明?」
寝呆けているのだろうか。
寝巻一着で、こんな寒い中にいるのはどうにも解せない。
それに西明は挨拶であろうと問い掛けであろうと返事を必ず返してくるのに、今日はそれが無い。
近づくにつれて西明の表情が正確に知れる。
いつも無表情か、小馬鹿にしているか、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな表情しかしない西明が、珍しく驚きを全面に表している。
何がそんなに驚愕する内容なのか。
「西明、おはよう、御座います」
西明の口が微かに動くが、声として発っせられる事は無かった。
どうにも西明の様子がおかしい。
「俺の部屋で、何を、して、いるんで?」
お前の部屋ではないと、常の西明ならば即座に挙げ足取りな発言をしてくるだろうに、今日に限ってはしてこない。
どうにも長丁場になりそうで、荷物を部屋の隅に置いて、西明の前に膝を着く。
西明は無表情に俺を少し見上げている。
瞳を覗き込めど、ただ鏡のように俺を映すだけで何も分からない。
目の前に西明は確かに存在するのに、無色透明の様で、存在が曖昧だ。
風が吹けば砂のようにさあっと崩れ、形を保っていられなくなりそうな危うさ。そんな感覚が、西明からする。
それは俺にとって空恐ろしいことで、思わず名前が口を突いて出る。
音声の振動だけでも崩れて消えてしまうのではと危惧したが、それは杞憂だったらしく、音は空気に溶けて消えても、西明は変わらず俺の前に座している。
しかしそれが余計に恐ろしかった。
魂が抜かれて、死後硬直の身体に薬品を塗り付けて今の形や色合いを保っているような、そんな風に見えてしまう。
触れたら温もりが伝わってこないのではないか。むしろ、冷たいのではないか。
これで西明が幻であったら。
恐ろしくて恐ろしくて、存在を確かめるように腕を、伸ばす。
触れた頬からは温もりなど無かったが、触り心地はまさに人のそれで弾力があった。
それでは死人と変わらないのだが、表情が変わるので生きているのだと知れる。
それに安堵を覚えるより先に、西明の表情に、心が傷んだ。
眉根が寄って、眉尻は下がって、瞳は揺れる。
西明は常闇を彷徨って、哀しみの渦に飲み込まれる寸でのような。
何があった。
何がそんなに西明を苦しめている。
問いたくても訊けない。
訊けるわけが無い。
西明は気高いと勘違いしやすいが、その実、脆いのだ。
細い絹糸の上にたった一人で立っているような、そんな危うさを感じる。
少しでも揺すってみろ。西明は奈落の底へ落ちてしまうに違いない。
いっそ落として、俺が抱き留めてやりたい。
一時くらいは甘えても罪にはならないはずだ。
流れ者故に甘えられる時は甘える生活をしてきた俺にはまるで分からないが、西明は甘えるのを酷く恐れる。
それがただただ、悲しかった。
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