モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
木瓜
襖の隙間から床を這ってくる冷気は変わらず冷たいが、ここ数日は雫が滴る音が定期的に空気を震わせる。
襖を開けて縁側に出れば、足下から這い上がる冷気に思わず身震いした。
此れは、寒い。
燦燦と陽が降り注いでいるから少しは暖かくなったかと思っていたのだが、思い違いのようだ。
手を擦り合わせてはぁと息を吹き掛ける。
冷気と湿気を含んだ重たい空気に慣らされた手には、己の吐息が心地良い。
座敷に戻ろうとした時、庭の異変に気が付いた。
異変の主は居間から見ると丁度眺めるに良い場所にある、木瓜だ。名も知らない鳥が何処かから持ってきた種で、よくぞここまで成長したと思える程立派な木瓜。
それにしても、この土地にしてこの時期に蕾をつけるとは早い。
春を呼ぶそれは雪の乗った枝の中で、誰にも気付かれずに小さく蕾を拵えていたのだ。
途端に気が滅入る。
常ならば漸くこの身が凍る寒さから解放されると心浮き立つというのに、今は真逆だ。
「こんな処に、居たんで」
後ろで襖が開いて、少しばかり熱のある空気が肌を撫でた。
「自分の家なのだから何処に居ても良いだろう」
腕を組んで庭を眺めていると背後に居た人物は隣にまで来て、同じように庭を眺め始めた。
どうして貴様は襖を開けっ放しにするのだ。これでは凍えた後に部屋に入ってぬくもりに身を投じる至福の瞬間を味わえないではないか。
言葉に出さずに心で呟きながら横目に見れば、平常通り微笑を浮かべているように見える面構えで庭を眺めている。
仕方がないか。
私が襖を閉めれば、おや、忘れていましたか。と軽い口調。
「痴呆か、哀れだな」
「口が、悪い。腹でも、痛いんで?」
薬ならありますよ。と言うから、どこも痛くはないと返すと薬売りはそうですか、と簡単に口を閉じた。
太陽の光を浴びて白が輝く景色を眺めていると、身体から熱が逃げてゆくのが刻々と分かる。
もしこれが目に見えるならば、己の身体から白い湯気が上がっていることだろう。
「新芽が、もう、出ていますね」
そんな寒い中でも新芽が芽吹き、花が咲く。
寒中に咲いては虫も居ないから交配も出来ないだろうに、今咲くことに意味があるのだと誇るように色を生む。
その強さと潔さに、私はこの花を気に入っているのだが、如何せん名前が木瓜と書いてボケと読むのだ。
こちらでは使われる頻度は極僅かだが、西の都では阿呆をボケと言うらしい。
尤も、惚けているの派生語からボケになったと言われているが、極一部では季節を勘違いして早咲きするこの木瓜から派生したとも言われている。
どちらにしろ、木瓜は木瓜だ。
「西明の庭は、まとまりが、無いですね」
言われて、首を捻る。
そうだろうか。
否、薬草の類があって、柿や桃等の果物類もあれば鬼灯もある。
更には鳥が運んできた知りもしない植物があるのだから、文句無しのまとまりの無さだ。
「鳥が種を運んでくるからな」
「抜こうとは、思わないんで?」
「見たことの無い植物を抜く気にはなれんよ」
視線だけを向けられる。
何故?と問い掛けるそれに、面倒だからとは言えなくなった。
「わざわざ私の庭にやってきた種だ。縁があって来たのに抜くのは忍びない」
素直に答えれば、まるで雪解け水のような清らかさと、水菓子のように甘い笑顔が向けられたので思わず一瞬だけ固まってしまう。
いつもは人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべているくせに、急に何なのだ。心臓に悪い。
「もう雪解けだな」
庭に視線を向けて咄嗟に口をつくのはどうでもいい事だと、何処の誰が云ったのか。
ずっと考えて、それでいて絶対に訊くまいと決めていたことが、すらりと出てきてしまった。
己が雪解けを気にしているのは分かっていたが、気付かないふりをしていたというのに。
言葉にした途端、自覚しろと己の女々しい部分を曝されたかのような羞恥心を感じた。
気付きたくなかった。気付かずにいたかった。こんな弱い自分、冗談ではない。
「西明」
悲しみにくれた、否、違う、駄々を云う物分かりの悪い子供に語り聞かせるような口調。
「雪解けの時期が一番心踊る。静寂の中に生命の息吹を感じるのが、毎年楽しみなんだ」
それ以上声を聞いていたくなくて、一人になるのが怖いと叫ぶ弱いちっぽけな自分を隠すように饒舌に捲くし立てる。
私は一人で大丈夫だ。
私は独りで大丈夫だ。
まるで呪文のように心の中で反復していると、薬売りの声で現実に引き戻される。
「まさか西明が、そんな事を考えていたとは、ね」
「何が言いたい」
「感慨深く、風情のある人間だとは思いません、でした」
ただその場を取り持つ為に口をついて出た言葉だったのだが、男がそう思っているのならば今は話を合わせよう。
今は沈黙が何より怖く、上っ面の会話が心地好い。
「貴様とは作りが違う」
「俺は、風情が、無いと?」
「違うか?お前に花を愛でる心があるとは思えんが」
「華ならば愛でていますよ」
何を、と訊けば、さて、と誤魔化される。
言うつもりが無いのだと分かって、これ以上訊くのは意味が無いと思い口を閉じる。
しかしもう沈黙は恐ろしくない。
それは先の軽快なやりとりのおかげだろう。
たったそれだけで気が晴れるとは、よく言えば単純、悪く言えば単細胞、つまり阿呆なのだろう。
あぁなんだ、私もボケなのだ。
まさしく私はボケであり、木瓜だ。
まだ雪解けまでは少しあるというのに、もう雪解け後を考えている。
気を病むには、少々長い。考えるだけ無駄なのだと割り切る姿勢が必要なのだ。
開き直るように、気を病んでいた自分を肯定してやる。
「寒い、ですね」
「寒いな」
「中に、入りますか」
「そうだな」
ぬくい室内に入ろう。そして独りだった時のように床に寝そべろう。
布団を持ってきても良い。
今暫らく、薬売りが居る間だけでも、私はボケになろう。
その方が、幸せだ。
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