モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
変わる世界
起きるのが珍しく遅れた。
昨夜帳簿をつけていて、遅くまで起きていたのが原因なのは分かり切っている。
太陽の位置を見れば天高く、影は真下に。起きた瞬間にあまりの寝坊に心臓がどぅっと大きく脈打った。
何で今の今まで起きない。と自分に腹を立てても仕方ないのは分かっているのに、気分は下降するばかりで嫌になる。
薬売りも薬売りだ、何故起こさない。
黒猫だって腹が減ればいつも煩わしいくらい擦り寄ってくるのに、何故今日に限ってそれをしなかったのだ。
「済まない薬売り、寝過ごした」
責任転嫁を始める思考を追っ払う暇もなく、食卓のある部屋の襖を空ける。
が、そこは蛻の殻。出鼻を挫かれたような感覚だ。
すぐに部屋を見回して薬売りの姿を探すが、無い。
黒猫も同様、気配も何もない空間に、一瞬思考が止まる。
薬売りも黒猫も、居ない?
家の中を見て回る。
元より小さな家屋だ、すぐに私以外に誰も居ないと知れた。
何処かに出かけた。という可能性もある。
けれど布団が隅に畳まれて置かれている部屋は、まるで客が来る前の様で、人が居た感覚すらない。
何故こんな感覚を覚えるのか。男はいつも荷を……そうだ。
部屋の隅にいつも置かれている荷を、視線を跳ばして探す。
しかし、それも見つからない。
「どういう……」
空気に掻き消える己の声に悪寒が走って、思わず口を押さえた。
何だ、この感覚は。
まるで最初から薬売りなど居なかったというような、そんな感覚を与える部屋。
薬売りも黒猫も、私が見た夢だったと、そう思わせる。
そんな筈はないと言い切れない。
証拠も、居たという面影も、何もない。
私の夢だと言われたら信じてしまいそうだ。
外は変わらない雪景色。
白くなる息。
拡散する体温。
ほんの少し前の私の家。
耳が痛くなる静寂も、生き物の気配がしない空間も、すべてが馴染んでいた筈のもの。
冬に薬売りが訪ねてくるなんてありえない。
もしかしたら私は長い夢を見ていたのだろうか。
そんな考えに、笑う。
馬鹿馬鹿しい。
否、馬鹿馬鹿しくない。
何処にも夢ではないという証拠は無いのだから、私の夢だと言われても、何もおかしくない。
無駄に名を呼びそうになって、口を閉じる。
居もしない相手なのだから、返事は無いに決まっている。呼ぶだけ無駄だ。
夢だった。
そう思うのが普通なのかもしれない。
今までの生活に戻った。そう考えればそれでおしまいなのに、何故脱力感と虚無感が襲ってくるのか。
体内が乾燥して、すべて砂になってしまった様な感覚がするのは、何故。
嫌だな。
本当に、嫌だ。
一人に慣れていたはずなのに、どうしてこんな気持ちにさせられる。
チリン、と音がする。
思わず肩が跳ねて、無意識のうちに座りこんで下がっていた頭を上げる。
みしりと床をしならせてこちらに近づく足音。
開け放ったままの襖は廊下の先を見せる。
そこに鮮やかな色が表れて、こちらを見ると歩み寄ってきた。
「おはよう、御座います」
何故、居る。
これは私が作り出した都合の良い幻影か。
「西明?」
きっと私は情けない顔をしているに違いない。
「西明、おはよう、御座います」
名を呼びたいのに、口内がカラカラに渇いて舌が上手く動かない。
「俺の部屋で、何を、して、いるんで?」
隅に荷が置かれて、天秤やすり鉢が奏でる高い音。
部屋の中央にいる私の傍に膝をついて、無反応の私を伺うように見てくる。
「西明」
竜旦色に彩られた爪。
手が頬に触れて、その冷たさに此処が現実で、そして存在が確かなのだと知る。
「何でそんな、泣きそう、なんですか」
目はカラカラに渇いてる。
喉も同じだ。
けれど体の中に暖かい純水が湧き出して、胸が潤う。
空っぽだった中身が満たされる。
「西明」
抱き締められる。
背中をあやすように叩かれて、泣く事を催促されているみたいだと思った。
けれど涙は出ない。
頭を支える手も、背を撫でる手も、首元で感じる吐息も、総てが総て、存在を主張する。
夢では無い。
夢では無かった。
それに安堵して、絶望する私は何処までも我儘だ。
何でこんなに長く居座った。
何で他者が居る生活に慣れた。
どうして、薬売りが居る生活を当然とした。
私はもう、一人に堪えられない。
窓の外に広がる雪景色に、一生雪が融けなければ良いと望む自分に、絶望した。
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