モノノ怪 飽和する世界 | ナノ
酒と鮭
一升瓶を抱えて帰ると男は少し驚いた顔をして、黒猫は鮭の塩引きに反応を示した。
「鬼に金棒、ですね」
「その表現通り、この瓶でその頭を叩き割ってやろうか?」
「冗談、ですよ」
「こちらも冗談だ、本気にしてくれるな」
黒猫が鮭に飛び付こうとするので避ける。
猫がこんな塩辛い物を食べてみろ、身体を壊すに決まっている。
男に酒を押し付けて草履を脱ぐ。
「上物、ですね」
「そうなのか?」
「はい」
私は銘柄が分かっても、酒の良し悪しは分からない。
分からない理由として、覚える気がないのが第一の理由だ。
しかし酒好きの旦那がくれた酒だ、銘柄中の銘柄なのだろう。
それにしても、この男が書かれた銘柄で上物だと言ったことに驚いた。
こいつ、酒を呑む人間だったのか。
呑んだ姿を見る事が無かったので、てっきり禁酒者かと思っていた。
まぁ、呑む姿を見るも何も、我が家に調理酒しかないのだから呑む姿が見られないのは当たり前だろう。
「薬売りはそれが好きか?」
「口当たりが良いので、ね」
「では心置きなく呑んでくれ」
「西明は、呑まないんで?」
「呑むように見えるか?」
「呑む姿を見た事が無いので、想像が、し難い」
「まがい物であるが、それでも此処では医者の役をしているからな、急患がある時に酔っていては困るだろう」
「少しでも、酔うと」
「そうではないが、気の持ちようだ。酒を呑んで患者を見たくはない」
黒猫がまだ塩引きを狙っているので、頭を撫でて宥める。
それでも黒猫のくりっとした目線の先には塩引きがあって、目を離した隙に齧られるのは容易に想像が出来た。
塩引きは黒猫の手が届かない所に保存しなければならないな、此処は魚屋同様、天井から吊るしておこうか。
「西明は、一滴も、呑まないんで?」
まだ食いついてくる薬売り。
しつこい。と一喝しようとして、止めた。
考えてみたら、私は薬売りと酒を呑み交わした事がない。
薬売りが来る時期、家にある酒が調理酒だけだったのも理由ではあるのだが。
否、薬売りが居る期間はわざと酒を置かないようにしていたのではなく、年中を通して基本的に調理酒だけしか家には置かれていない。
酒が家にあるのは珍しいのだ。
だから薬売りが私を下戸だと認識しているだろうと思っていたので、呑み交わそうと言ってくる事が私にとって意外だった。
だが、男の誘いに気は進まない。
私は人前で呑むのが嫌なのだ。
それはこの男が相手でも変わらない。
本当に何もない日に、一人酒を嗜む程度に呑むのが私には調度良いのだ。
「せっかく貰ったのですから、呑まなくては、失礼、ですよ」
酒を抱えた男は、ね?と首を傾げてみせる。
「そんな嫌な顔は、せずに」
もう一度、ね?と言われる。
何が、ね? だ。
「西明」
「……」
男に退くつもりはないらしい。
私は溜め息をついて、仕方ないと一つ返事をした。
男が嬉しそうな顔をする。
たかが杯を交わすだけで何が嬉しいのか私には理解できないが、訊くのも釈然としないので、男がいそいそと酒を抱え直すのを横目に私は台所へ向かった。
黒猫が手を出せないような位置に塩引きを置く。
酒を呑むなら夕飯は少し味を濃くして、量は塩引きがせっかくあるのだから少なめに作ろう。
頂いた日本酒は熱燗にした。
肴は煮物と、薄く切った塩引き。
ちゃぶ台を挟んで男と向き合う。
男が徳利を持って酌をしてくれたので、お返しにこちらも酌をする。
共に呑んだそれは甘くて、けれど少し辛口。
辛口は飲まない私だが、舌で転がして、美味いと思った。
銘柄で良し悪しは分からなかったが、呑み心地が良くて上物だと知れる。
塩引きとよく合うそれは、鮭の切り身が減るのと同じ速度で減ってゆく。
二人ともゆっくりと呑むので、それらもゆっくりと減ってゆくのが何だかおかしく感じた。
「本当に呑めたの、ですね」
「疑っていたのか」
「そうではありません、が、この家に、徳利があるとは、思いませんでした」
「そう思われても仕方がないか」
父が死んで以降は殆んど使わていない徳利とお猪口は奥にしまわれている為に人目につかないし、一度も薬売りを前にして出したことはないから知られていなくて当たり前だ。
酒を注がれる。
人と呑み交わす事など無かった為に私は手酌の方が慣れていて楽なのだが、どうやら男は酌をする癖があるらしい。
身体が温かくなる。
そろそろやめるべきだろうか。
しかし量にしてはあまり呑んでいないのだが……むしろいつもよりも少ない方だ。
「西明、大丈夫、で?」
「身体がぬくい。と言うより熱い」
「酒が回っているから、ですよ」
「しかしあまり呑んでいない」
「いつもはどれくらい、呑んでいたんで?」
「徳利の半分くらいか」
「まだ、ですね」
「だろう?」
「疲れて、いるとか」
「いつもと変わらんよ」
男は考える仕草をして、それから何事かに気付いた様な声を上げた。
「辛口だから、では?」
「あぁ……」
それだ。
それにしても熱い。
生理的に視界が潤う。
まずい。
これでは酔っぱらいだ。
こんな醜態を晒すなんて冗談では済まないと、酔ってもなお存在する理性が羞恥を刺激する。
「大丈夫、ですか」
男の手が頬を包む。
ヒヤリと冷たいそれはひどく心地好い。
もっと心地好さを感じたくて、触れるそれに己の手を添える。
あぁ、冷たくて気持ちが良い。
「西明」
「ん?」
「やけに素直、ですね」
何が。と問えば、いつも触れたら手を退かしていたでしょう、と言われる。
そうだっただろうか。
思い出せない。
「そんなに気持ちが、良い、ですか?」
「あぁ」
「では、もっと気持ち良く、させてあげますよ」
男の手が離れた。
途端に感じる寂しさに、つい逃げた手を追いかけそうになってしまう。
何を、しようとしているのだ。
「西明」
もう、寝よう。
そうでなくては、甘えを見せる事になってしまう。
人肌が心地好い?
そんな戯言、誰が許すか。
なのに、その温もりが気持ち良くて、離れられない。
近付く顔に、自然と目を閉じてしまった。
接吻をされる。
暖かくて柔らかくて、どこか甘くて少し苦い。
お互いに同じ酒を飲んでいるから、薬売りと私の舌の違いが分からなくなる。
このまま融けて一つの溶液になってしまいそうだ。
離れる唇。
寂しさに胸がズクズクと膿んだ傷口みたいになってきたら、もう止まらない。
恥も外聞も、今はどうでも良い。
ただ本能の赴くままに、温もりを追いかける。
男の着物を掴み、離れようとする身体を捕らえた。
驚いたように開いた藍色の瞳が、紅い隈取りで強調されている。
これは、そそられる。
軽い音を立てて啄みを繰り返す。
思考が融けそうだ。
いっそ、とろとろに融けてしまえ。
ゆるゆると延びてきた腕に身体を引き寄せられる。
元々少しのしかかる様な体勢だったのに、引き寄せられて更に体勢を崩してしまった。
背を床に打ち付けた男が、短い、意味をなさない声を出す。
眉根を寄せて、少し痛いと顔が言っている。
こういう表情もするのか。
いつも飄々としている癖に。
もっといつもと違う表情を見てみたい。
「薬売り」
男を床に倒して、その上に四つん這いになる私はまるで獣だ。
「やけに、積極的、ですね」
離れた唇が、隙間を縫って言葉を紡ぐ。
ちゅっと軽い音を立てる接吻をして、笑う。
「酒の勢いだ」
「では毎日、半合、呑んでいただかなくては」
髪を梳いてくる手を、やんわりと退かす。
「呑むか呑まないか、それは薬売りの頑張り次第だ」
「頑張らなくては、ですね」
「精々頑張るんだな」
男が笑う。
その唇に触れるだけの接吻を。
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