最初に手を取った君の話/ Azul
君に恋をした。

ほんのり桃色に色付いた唇が自分の提案した新メニューのノンアルコールカクテルを口にする姿が、楽しげに同郷の男と話す時だけ自然に緩められた口元が、自分に向けられていないとひどい渇きに襲われた。勇気を出して勉強会に誘えば嬉しそうに顔を綻ばせて出された課題を解く真剣な表情にいつのまにかすっかり骨抜きにされていたのだ。タコに骨は無いけれども。

君に惹かれたことに大したきっかけもなかった。ただ時折見せる子供のような柔らかい笑顔が真っ直ぐ自分だけに作られていたものだと気がついてどうしようもなく好きだと思った。

今年の入学式もつつがなく進行しそうだ、安堵の嘆息を漏らしたアズールは新入生たちが眠っている棺桶の置かれている通りを歩いていた。万が一のトラブルに備えるのはこの学園内で教師を除けば最も権力を持つ寮長である自分たちの役目である。同じ様にハーツラビュル寮のリドルやポムフィオーレ寮のヴィルも決められた区域内を巡回していることだろう。オクタヴィネル寮寮長を勤めるアズールは新入生たちの眠る棺桶が設置された部屋とその周辺の見回りを任されていた。

「…、ぁ、」

小さな声が聞こえ、そこでアズールは足を止める。何故か半開きになっていた扉の向こうには新入生たちがいるはずだ。そこから明らかに男のものではない声が聞こえた。想定外のトラブルになりそうな予感を察知しわずかに顔を歪めたアズールのことを見ているものはいない。

「あ、…れ、ここは」

今度ははっきり聞こえたそれ。落ち着いた、女の声だ。こんなところで聞くには相応しくないそれを幻聴だと片付けるのは無理がある。ならば対応しなければならないのはこの場にいるアズールに他ならない。

「そこで、何をしているんです?」

新入生かと思いアズールが声をかけた先に佇んでいたのは一人の女だった。薄暗い部屋の中で女が一人、ぽつねんと戸惑うようにアズールを見つめている。

「分からない。」

はっきりとアズールの言葉に答えたチョコレートの様なダークブラウンの瞳が困惑したように彷徨う。フードをかぶっていない双眸は赤銅のような鈍い光を一瞬だけきらり、と放った気がしてアズールはその色彩に目を奪われた。女は式典服ではなくすこしくたびれたスーツを着ていた。所々破けたタイツと、べったりと乾いた赤色の付着したワイシャツ、そして束ねられた長い髪。身なりこそ乱れているが貧民街から売り飛ばされた奴隷や刺客の類ではないようだ、とアズールは素人目で判断し教員への報告は後回しにすることにする。

「ここは関係者以外立ち入ることが出来ないはずですが。」
「……?」
「どこから来たんです?新入生のようには見えませんが。」
「さあ……私があなたのいうことと関係があるかどうかは知らないけど、目を覚ました時にはここは棺桶だらけの薄気味悪い部屋だったのよ。」
「……俄には信じがたいことですね。」
「信じられるかどうか、なんて結構。私は何にも知らなくて、いつのまにかこの棺桶だらけの部屋であなたに話しかけられた、それが事実だもの。」
「ならここに入るための入学証は届かなかったのですか?」
「入学証?何それ、そんな年齢じゃあないわ。私、もうとっくに大学だって卒業してるのよ。」
「つまり、あなたはここに許可なく連れてこられてしまったと。」
「これがタチの悪いドッキリとか悪夢じゃないのなら。…ねえ、ところであなたは誰?どうして私はこんなヘンテコな場所で目が覚めたの?」

困惑したように、こちらに警戒心を見せる女。初対面の素性も知らない、不法侵入してきた可能性も考えられる人間だ。しかし魔力も感じない、大した脅威にもならないのならこのまま寮長として教員に突き出して内申稼ぎに使っても良かった。

「僕はアズール、アズールアーシェングロットです。そして、ここはナイトレイブンカレッジと呼ばれる魔法士育成学校、僕たちは魔法学を中心に学んでいます。」
「……私はゼロ」

ファーストネームだけを口にしてすぐさま剣呑な視線をアズールに向けた彼女はひどく混乱した様だった。

「まって、あなた魔法って言った?そんなものが実在しているの?」
「そうです。少なくともこの世界では。」
「信じがたいけれど……御伽噺の中に存在してるものだとばかり思っていたし、実際に見たこともないから……タチの悪い夢ならそれはそれで面白そう。」
「ご理解頂けたなら結構。式典まであまり時間がありません。細かい事情を説明する数分も惜しい。」

薄く紅を乗せた唇がはくり、と息を吐いて閉じる。何かを紡ごうとしたのかもしれない。その口の端には赤黒い血液が残っていて痛々しい。乾いた血がついたままの額、墨のような長い睫毛はゼロの瞳にびっしりと沿うように生え揃っていたが、マスカラの黒い線が頬を伝うようたな跡としてうっすらと残っていた。どうして彼女がそんな状態でこの学園に迷い込んだのか、憶測するのは後でいい。今は彼女を「新入生」として紛れ込ませなければならない。

たとえそれがこの学園の規律違反だとしてもゼロを手元に置くためならアズールは手段を選ぶつもりもなかった。

「ゼロさん」

至近距離で見てもやはり彼女は一人の女として完成された美しさを持っていて、アズールはその姿に心動かされる。

「僕なら、あなたを安全に守れます。こんなことを初対面の男に言われても信用できないかもしれませんが……僕についてきてくれませんか?」

あくまで保護すること。警戒心を抱かせないように、いつもの軽薄な笑いを取り払えば自分でも引くくらい真剣な声と情けない表情だけが残された。

じいっと猫のような丸い瞳がアズールを見つめていたが、破顔して心臓が大きな音を立て始める。思春期の青年に訪れた甘酸っぱい春はらしくもなくアズールを年相応の態度に変化させた。

小さな白魚のようなつるりとした手がアズールの掌の上に乗せられる。一瞬だけ躊躇うように、その直後、意を決したように真っ直ぐ僕を見つめた彼女はほほ笑んで。

「魔法使いさん、私に魔法をかけてくださるかしら?」

はにかむように緩んだ頬、あかい唇から紡がれる声はその幼い表情に反して低く落ち着いたアルト。アズールはその女の笑顔の裏に隠しきれない不安を垣間見て、猛烈に加護欲というものが掻き立てられたのだ。

「仰せのままに、美しいお嬢さん。」
「ふふ、お嬢さんなんて柄じゃないわ。魔法使いさんはお口がお上手なのね。」
「なら僕だって魔法使いさんじゃあありません。アズールです。」
「じゃあアズールくん。どこに向かうの?」

きらきらと瞳を輝かせている女はアズールが手を引く間も周りの景色に夢中だった。きゅっと握られた手からは少し高い体温がじんわりと伝わってきて自分たちが未だに手を繋いだままなのだと気付かされる。

「…目的地は鏡の間です。そこに僕が所属している寮に繋がる鏡があるので。」
「鏡で移動するのね。…なんだか本当に夢の国に迷い込んでしまったみたい。」

ゼロにはすれ違った生徒たちに存在を認識されないように認識阻害の魔法をかけていた。まさか、侵入者の手助けに寮長である自分が加担するなんて、万が一でも誰かに知られたら厄介だ。

「ここです。手を引くので絶対に離さないで。」

とぷん、と鏡の中に飲み込まれていくアズールの体と、繋いだ彼女の手にびくりと震える姿は無垢で、魔法のない世界で過ごしてきたと言うのも本当なのかもしれない。

「わあ!」

眩い光に包まれた直後、見慣れた景色に歓声を上げる女性に時間があればゆっくり案内してやりたい、とさえ思う。彼女がついて来れる程度に早足になりながら、自分が彼女をただの侵入者以上の存在として認識していることにアズールは今更ながら気がついた。

「メイクは落として…急拵えとなってしまいますが、フードで隠れるのなら多少の粗も問題ないでしょう。僕が去年着ていたものがありますので、それをお渡しします。」
「あ、ありがとう…?」

小さな背中がパウダールームの貝殻を模したカウチに収まっている。

少しだけ恥ずかしそうに化粧を落とし始めた彼女にくるりと背を向けてマジカルペンを振るいクローゼットの奥にしまい込んでいた予備の式典服を呼び出す。クリーニングしたきりのそれはシワひとつない。どうせ自分にはサイズも合わないのだから誰のものになろうと構わない。

「いいですか。何を聞かれてもこの服は自分のものだと、目が覚めたらこの服になっていたと。そう話してください。」

すっかり化粧を落とした女は強気な印象から大きくて変わって幼なげで儚い顔立ちなのだと知った。長いまつ毛の下の黒曜石のような瞳が照明の反射でコバルトブルーの色合いに変化したのがまるでガラス玉のようだ、と思う。

くっきりとシャドウで吊り目気味に線を引けば、中性的な顔立ちに仕上がる。血糊のべったりついていたワイシャツをそのまま着せておくのもまずいので、新品のシワひとつないシャツをゼロに渡した。

おずおずと男物のワイシャツを受け取ったゼロに悟られないよう彼女のほっそりとした体の線に視線を走らせる。指定がぶかぶかの式典服であることが幸いか。女性的な曲線を描く腰のくびれや胸の膨らみは制服で隠せないものだ。自分の体格とは全く違う彼女がひとたび服を脱いでしまえばその性別はバレてしまうだろう。

「服は僕が預かっておきます。あとでお返ししますのでご心配なく。こちらに着替えて来てください。」
「うん、…アズールくん、何から何までありがとう。」

アズールははにかんだゼロにぎこちなく傾いたのだった。

「どうかな?」

サイズがあっていないせいで袖を持て余している仕草がどこか幼くて、フードの下から真っ直ぐ見上げてくる猫のように丸い瞳が好ましいと思った。

「よく似合っています。さあ、戻りましょう。今からあなたを棺桶の中に戻します。」

また彼女の手を引いて元来た道を戻る。ここに来るまでに生徒とはすれ違っていない。この時間ならまだ教員も宿泊舎にいるはずだ。

「オクタヴィネルでお会いできることを楽しみにしています。」

静まり返った部屋、彼女の手を引いて一つだけ開いていた棺に収めてやればやがて意識を失う。まるで呪いを掛けられた眠り姫のように。

閉じられた瞼に一度だけ、許しを乞うようにキスを落とす。

けれど、彼女はあのときたしかに僕の手を取ったから。「あの時」がいつだったのか、自分でも覚えていない。けれど絡めていた細い指先の体温をちゃんとアズールは記憶していた。自分を暗い棺桶の中から救い出してくれたのは他でも無い彼女だ。

「ゼロ、あなたに海の魔女の加護があらんことを。」

自分が愛用しているアクアマリンのコロンをゼロに振りかけて、魔法をかける。

初対面の人間になぜそこまで、自分は身を砕いたのかアズール自身でさえも分からなかった。ただ自分のことを「アズールくん」と呼んだ声の耳触りがよかったから、細い指が頼りなく自分のそれを握る高い体温がどこか懐かしかったから。

できることなら、彼女が目覚めて思い出すのは自分のことであればいいのに。



年下アズx年上not監お姉さんのおねしょた概念の話がみたい 続かない
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