08






こんなこと一度も無かった、お父様がお母様の命日を忘れるなんて。
確かにはお母様が亡くなってから、まるで人が変わったかのように全く笑わなくなってしまった。

ううん、違う。直後はまだ普通だった。
豊穣を祝うお祭りや今日みたいな祝賀祭の時は必ず国民の前で演説をしていたし、歌や踊りを楽しそうに眺めていた。

だけど、最近は全然。
一人ずっと自室に閉じこもってばかりで、朝昼晩と国防のことや我々国をはじめとする、諸外国のことを考えてばかり。私の言葉にも上の空で、少しでもお父様の政策に対して口を出すと、さっきみたいに怒り出す。

そんな人だったけれど、お母様の命日には毎年欠かさず、墓前に花を添えていた。
それなのに、どうして......。


日に日に、お父様がお父様とは違う何かになっている。どんなものかは分からない。でも、着実に何かが変わっている。そしていつの日か、全くの別人になってしまうのではないか、と。そんなことを考えてしまう。

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「……やっぱり、おかしい」

扉の前でポツリと言葉がもれてしまった。

「どうしたん?」
「いや、えっと、マンちゃんまで怒られる羽目になって。その......」

ドアノブを握る力が強まり、手に汗がじわりじわり溢れてくる。

「そんなこと?心配せんでもええよ。全然気にしとらんから」
「だけど......」
「むしろ一緒に街をぶらつくことができて楽しかった」
「楽しかった?」
「なんか最近のエレナ、部屋で過ごすことがほとんどだったから、心配しとった。あれだけお転婆があんたらしくないなあって」
「言われてみれば確かにそうかも。最近はあまり外に出なくなったような」
「それに久々に鬼ごっこも出来たし満足だよ」


目を細めて笑う彼に水を差すようで申し訳ないのだけど、それは恐怖の鬼ごっこの間違いじゃないでしょうか。

なんたって彼は見つけ出すのが尋常じゃなく上手い。昔、かくれんぼをして遊んだことがあったのだけど、見つけ出すのが尋常じゃなく上手い。逆に気持ち悪いと感じてしまうほど。すぐに居場所がバレてしまって勝負にならないのだもの。

でも私、マンちゃん以外とあと二人……あれ、誰と遊んだのかしら。


「にしても相変わらず怖い顔しとるなぁ、あの人は。まさに頑固親父って感じ」
「え、あ、うん。やっぱりそう思う?まるで主人公達を待ち構える魔王みたいよね。おぞましい笑い声を出すんじゃなくて、無言の威圧で待ち構えるの。獲物を狩る野獣のようにこんな風に」

グイッと指で目尻を上げてみせる。

うん。なかなかいいじゃない。
窓に反射した自分を見つめながら我ながら上出来だと感心する。


「あんた……それ本人の前で言ったら命ないで。万が一、近くで聞いていたらどうするん」
「言わないよ。続きは私の部屋で話すから、心配ご無用」
「え、まだ続くん」

珍しくギョッとした表情を浮かべた。


「当たり前でしょ。これだけで長編小説一本できちゃう」
「仕方ないなあ。お茶でも飲みながら拝聴させてもらいますか。エレナも飲む?」
「説教されながらのお茶は御遠慮しときます」
「そんなことせんよ。なら、昼に貰ったカヌレと一緒に飲もうか」
「いいね。あ、でもお父様には秘密ね。マンちゃんが説教してないことが知られたら第二進化しちゃう」

念を押すよう口の前に指を立てる。
すると釣られたかのように彼もニヤリと口元を緩め、これで共犯者やね、と悪戯げに笑った。


***


時計の針が十二時を過ぎる頃、誰もが皆寝静まった宮殿の中に一部屋だけ明かりが灯されていた。

上着を脱ぎ、ワイシャツにズボンのみと随分ラフな格好をしたオスマンが椅子にもたれかかりながら、蝋燭の炎を呆然とした目つきで見つめている。


「......すまん。少し思い出に浸っとった」

突然、独り言のように話し出したが、そうではない。彼を引き戻したのは耳に付けているインカムから聞こえる男の声。


「そっちは上手くいっとるん?」


独特な話し方でネクタイを緩めるながら、耳越しの相手に問う。

「────まあ、無事に潜入できたみたいやで。せやけど、早速ナンパしかけとるがな」


あいつらしい、とインカム越しに鼻で笑う声が漏れる。それに釣られて彼の口角も上がる。


「全く。我が国の公女殿下に対する不敬罪であらせられますぞ。......茶番は終わりにして、本題な。バルヌス地区の外壁増築が始まった。それと同時に東都オルヴェーニュにも外壁増築の計画されとる」

椅子から立ち上がり、窓の方へと近づいた。
大公の部屋の方を見つめれば、二つの黒い影法師がカーテンに映し出されている。
一人は大公、もう一人は大臣。おそらく、国防に関する話し合いを夜通し論争しているのだろう。


「俺が来た時にはもう手遅れ。完全に蝕まれて、もう別人。......もう、あんたらの知っとる大公やない」

憂いを帯びた表情を浮かべながら、椅子へと戻る。


「ともあれ、傀儡師やつが考えている事は想像以上にえげつない。見ているだけでとち狂ってまいそうになる。本当に厄介な刺客を入れてしもうたな、この国は」

蜜蝋で黒光りしたカヌレを手に取り、見つめた。昼間とは違う何処か不気味な雰囲気を漂わせながら。

「......そうや。リューゼルにとっては俺も刺客に含まれるかもしれへんな。非異能者にとって異能力者は有害な存在も同然やでな。まさに、狙われた公国」


隣国寄りの訛り──いや、隣国の言葉で話すオスマン。
普段の彼からは想像できないほど、はっきりと開かれた瞼。そこから覗く爛々と光る緑色の瞳。そこにはこの国の人間としての面影は無かった。