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遡ること数十分前のこと。
庭に出た私は適当に花壇を散策した後、後ろに誰もいないことを確認し、門番の目を盗み一目散に駆け出した。

その時感じた手に汗握る緊張感といったら、もはや中毒同然だ。おかしな表現かもしれない。だけど、普段宮殿という限られた空間、誰にも危害を加えられることのない空間の中過ごしてきた私にとっては、些細な出来事でさえも快楽を覚えてしまう。

公都に着いた途端、一気に笑いがこみあげてきた。まさか、あんな簡単に出られるとは思わなかったもの。この前も宮殿から脱出を試みたものの、近衛兵にあっさり捕まり、その前は立ち寄った古書堂でエーミールとばったり遭遇し、そのまま強制連行。
そんなものだから当然警備も一層厳しくなった。にも関わらず無事脱出した自分に国民栄誉賞でも贈りたい気分だ。

特に今日という日は何がなんでも捕まるわけにはいかないんだから!と心の中で意気込んでいるうちに街へと着いた。春の訪れを祝う祝祭が催されており、多くの人々で賑わっていた。

街中に公家の紋章が記された旗が掲げられ、軒を連ねた赤い屋根には色鮮やかな花やリボン飾りつけられており、公都の象徴でもある時計塔までにも綺麗に飾りが施されている。

人々の話し声。楽器の音色。それに合わせるように華やかな民族衣装に身を纏った踊り子たち......。見るもの全てが輝いていた。

完全に気分が舞い上がった私は踊り子たちをもっと近くで見ようと駆け出した、否や鼻頭に激痛が走る。足元がよろけ、地べたに尻もちをつく。体のあちこちで痛みが走り情け無くも自然的な涙が。


「お怪我はありませんか?」

すると、どこからともなく降ってきた声。
咄嗟に顔を上げると心配そうにこちらを見つめる端正な顔つきの男の人が。


「は、はい......」

差し伸ばされた手を取り、立ち上がると彼は微笑んだ。今更だが丁寧に仕立てられたスーツが本当によく似合っている。


「よかった。しかし、貴方のようなお嬢さんにぶつかってしまったことをどうお詫びしたら良いか」
「いえ!私の方こそ余所見していてごめんない……つい、街に気を取られてしまって」


なんて紳士的な人なの。
彼が謝罪をする要素がどこにもない。それなのにも関わらず自分に非があったと謙遜的な態度を取る彼に私は初対面にも関わらず心酔していた。

「──街?」

彼は不思議そうな表情ひとつすると、周囲をぐるりと見渡した。眼鏡の奥にある藍色の瞳に彩どりに飾られた風景が映し出される。

そういえば眼鏡で思い出したけど、エーミールも読書をする時によく眼鏡を掛けている。なにやら最近の本は字が小さくてよく見えないだそうな。そう文句を言う彼に思わず「ただの老眼なんじゃない」と呟いてしまった時の彼の顔と言ったらそれはそれは恐ろしい形相で。
まあ、すぐに許してくれたけど普段温厚な人を怒らせるほど怖いものはないのだと身にしみて感じた。


「ああ、確かに。これほど美しいと目を奪われるのも無理はありませんね。ですが僕は貴方のほうに目を奪われてしまいましたよ」
「......え」

彼の口から出たまさかの一言。
聞き手が恥ずかしくなってくるようなすかした台詞に、言葉を失った。


貴方に目を奪われた?いや、貴方って誰よ。ああ、私か……え?!こ、この街じゃなくて?!


ああ、収集が追いつかない。
頭の中で思考回路が駆け巡ってはもう、断線寸前だ。そんな私とは反対に余裕な表情を見せる目の前の彼。絵になるなあ……って何考えちゃってるの。

「本当ならもっとお話したいところですが、貴方への訪問者もうすぐそこまで来ているようだ」
「訪問者?私に?」
「なんなら一緒に逃げても......いや、相手が相手やからなぁ」
「一体どう......あの、ちょっと!」


こちらの問いかけに答えることなく「それでは」とだけ言うと彼はヘラりと手を振りながら何処かへと消えてしまった。

なんだったんだろう……それにしても不思議な人だった。まるで煙のような存在というか、掴み所がないというか……


「誰が誰から逃げるって?」


すると突如、背後から声が聞こえた。
よく聞き覚えのある声が。


げっ、存在をすっかり忘れていた!
ギシギシと恐る恐る首を捻った先には笑顔を浮かべたオスマン。その笑顔を見た瞬間、ブワっと全身の毛穴から冷や汗が溢れ出てきた。


なんて最悪な訪問者だ。
先程の不思議な青年が言っていたことはこれのことに違いない。

だが、今日という日は捕まるわけにはいかない。どうしてもやらなければやらないことがある。
そうさっき心の中で誓った言葉を思い出し、逃げようと踵を返そうとするが、すでに遅し。いとも簡単に手首をがっちりホールドされてしまい、今現在の状況に至る。