はちみつ、トパーズ、檸檬の果肉




いつかこの男と眠った時、なまえの肌にじっとりと絡みつく不愉快な空気と、恐ろしい獣の寝息にすら感じたディオの呼吸は、眠りに堕ちることをなまえに忘れさせるほどのものだった。
足の痛みと緊張感でろくに眠れなかったあの夜は、この家からすぐにでも出て行ってやるんだ。というより強い思いをなまえに抱かせた。

そんな夜だった。
だからこそ、まさか。自分がこの男と同じベットで、すんなりと眠りに落ちる日が来るとは夢にも思わなかった。

まるで朝を拒絶するかのように張られた分厚いカーテンの隙間から、細い光が差し込んでくるのを見て、ようやくなまえは朝が来たのだと悟った。
半身を起こしても、隣で眠る男が目を覚ます気配は一切ない。そっと覆いかぶさるようにしながらディオの寝顔を覗き込む。
元々顔色の良くない男ではあったが、今朝は最近の疲れもあってか睡眠中も刻まれている深い眉間のシワとうっすら浮かび上がっている隈に、今更ながらこの男も人間だったのだな。と素直な驚きを噛み締めた。
嫌にスッキリと、自分だけが目を覚ましてしまった。
これではまるで、ディオの隣で自分だけがぐっすりと安心したように眠ってしまったようで何だかモヤモヤして不愉快だ。

そっと、薄いシーツを捲ってベッドから降りる。足元の分厚いカーテンはなまえの足音をすっかり吸収してしまって、まるで自分などいないのではないのか。と思うほど静かに寝室を後にすることができた。
誰もいないかのように静かな家の中をしずしずと歩く。
ダイニングの一枚の木で作られた分厚き大きなテーブルの前まで来て、はじめてなまえは顔を上げて時刻を確認した。
時計は7時を指している。
普段と変わらない……いや、それよりも早い時間に目が覚めたなまえは、寝直すにしてもすっかり起きてしまった頭を動かして、テーブルの上に置かれたままのiPadを手に取る。
今日は確か……第三日曜だ。
何時も起床と同時にお茶を淹れてくれるメイド達の存在がなく、あの真面目な弟がこの時間まで起きて来ないのもひとえにこの家に自分達以外の人間がいないからだろう。
背の高いダイニングの椅子を引くと、石の床と重い木のこすれ合う音が響く。
腰を下ろしてタブレットの冷たい画面に触れると、同時に大型検索サイトの画面が立ち上がる。
ネットニュースの画像に作っている美味しそうなパンケーキの画像を見て、ふと昨日高校で同級生に貰ったイギリス土産の紅茶の存在を思い出した。


(………美味しい紅茶とパンケーキの朝食か……たまには、いいのかも)


昔、母親と二人で暮らしていた時は、日曜日の朝食は何時も自分の仕事だった。
家族で食べる朝食は、自分が中学生になっても幸せな気持ちにさせてくれたのを覚えている。


(そういえば………ディオって、小さい頃はイギリスにいたのよね……両親と日本に来て……承太郎さんと同じ学校に通いだしたのは……小学生くらいから……って)


言っていた気がする。
尤も、あの頃の自分は承太郎さんの声に酔ったように聞き惚れていて、ディオの話題をしっかり覚えていた自信がない。


(ジョルノも昨日…頑張って勉強してたみたいだし……たまには、いいかも)


せっかくだから、イギリスの紅茶に合うような朝食を作ろう。イギリス。パンケーキ。と検索欄に打ち込みながら、何時もはメイド達が使っているキッチンへ足を踏み入れた。













「凄い。なまえが朝食を作ってる。しかも。僕の為に」


あれから2時間ほどして起きてきた弟は、作った生地をフライパンへ流し込んでいく自分の手元を見ながらどこか呆然としたような口調で続けた。


「もう………私だって普通に料理くらい出来るって、知ってるでしょ?」


パンケーキの表面には、プツプツと大きな気泡が浮かんで来ては弾け、その跡がぽっかりと穴を開けたまま残っている。
普通のパンケーキなら、固く練りすぎたのかもしれないが、今日はこれで良い。
どことなくグロテスクですね。なんて言うジョルノの青い目も嬉しそうに輝いていて、早起きの甲斐はあったかな。なんて思うと少しだけ嬉しくなった。


「ジョルノ、お皿に移しておいてくれる?私ジャム探してくる」
「わかりました。なまえの分は?もう食べてしまいましたか?」
「ううん。まだ。ついでに生地を流しておいて」


ジョルノが背後でカチャカチャと食器を出す音がする。
大きな冷蔵庫の中には、マーマレードと苺ジャムの瓶がちょこんと並んでいる。
それを手に取ると、パンケーキの皿を持ったジョルノの空いた片手に瓶をもたせる。


「先にあっちで食べておいて。冷えるし」
「いえ、一人で食べてもつまらないでしょ?僕もここで食べますよ」


そう言ったジョルノは、広いキッチンの真ん中に置かれた銀のカウンターの上に皿を置き、近くの壁に掛けられていたパイプ椅子を広げて腰を下ろす。
この家で自発的に朝食を作っている。というのは実に不思議な心地だった。


「………なんだ。人の声がすると思ったら……此処にいたのか」
「おはようございます。父さん」


甘い香りが立ち込めるキッチンに入ってきたディオの香りに振り向くと、いつのまにか背後に来ていたらしいディオは、大きな体を折り曲げるようにしながらなまえの手元を見下ろすと、懐かしいな。と小さな声を漏らした。


「……クランペットか……良くできてるじゃあないか」
「クランペット?この穴だらけのパンケーキはクランペットって言うのですか?」


ジョルノの不思議そうな声に、そうよ。と返すと、ディオの方へ向き直る。
男はまさについさっき起きたのだろう。
簡単なシャツから伸びる太い首をだるそうに傾けている。


「すぐに用意してあっちに持っていくわ」
「いい……俺も此処で食う」


その言葉にジョルノと二人で目を丸くする。
ディオはそれにも構わずに、ジョルノと同じようにパイプ椅子を引っ張ってくると、ジョルノの隣にやや乱暴に椅子を広げた。








数分後、普段は決して誰も足を踏み入れたりしない、キッチンでの奇妙な朝食がそこにはあった。
三人ともカウンターにお皿を並べて、ジャムの瓶を回しあって朝食を食べている。
大した会話などない食卓は、母親がいる時に如何に彼女が気を回し、会話の途切れない食卓を作ってくれていたのかがよくわかる。


「………えっと、父さんはこの…不思議なパンケーキを良く知ってるんですか?」


そんな空気の中、ジョルノが口を開いた。ディオのフォークの動気が止まり、ジョルノを見下ろすディオの視線を受けて、彼が小さく息を飲んだのがなまえには解った。


「………クランペット。だ。イギリスにいた頃俺の母親が良く朝食に作っていた。あの頃は大して砂糖の入ってないゴムみたいな物だったが……それでも俺は割と好きだった」
「父さんの……お母さん、ですか。じゃあ……僕のお祖母さんの得意料理だったんですね」


嘘だ。となまえは心の中で小さく呟いた。ディオがこんな風に話すのは初めて見た。彼が好きだ。と口に出して言う物に"割と"好きな物。なんて中途半端な物はない。
久しぶりに父親と交わす会話が、意外にも嬉しかったらしいジョルノは。少しだけ照れ臭そうにしている。
ディオは相変わらずまた、あの気の強い猫のような目をしてクランペットを咀嚼する。
それでも、その雰囲気が幾分か柔らかいのを察したなまえは、自分が無意識にホッとして……それから少しだけこの朝食に誇らしい気持ちを抱いている事には気づかなかった。
カチャカチャと、皿とフォークのぶつかる音が静かに響く。
四人でいた賑やかな食卓には遠く及ばない静寂を孕んだこの食卓には、それでも不思議ととても濃い時間が流れているような気がした。
そんな静寂を切り裂いたのは、ディオの手元に置かれた携帯の電子音だった。


「もしもし……あぁ…俺だ」


何と無く気不味い雰囲気に、思わずフォークを止めて、金属のカウンターのテラテラとした光沢を見つめる。
電話越しに聞こえる細い声は母親の物だ。


「あぁ……大丈夫だ百合子。すぐに行く」


そう言って電話を切ると、皿の上に残った二枚目のクランペットをそのままに席を立つと、足早にキッチンを後にした。
遠ざかる男の気配を感じながら、なまえは皿の上のソレをぼぅっと見つめた。

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