半魚人とご馳走



先生の家の水槽に沈むのにも慣れて来始めた頃、その日は空条先生が研究経過について話し合う会議があるから、先に家に行っておいてくれないか。と前日に言っていて、その場で家のスペアキーをやすやすと渡された。
危ないぜ先生。もし私がこれを元に大量に合鍵を作って女子に売捌き荒稼ぎをし、挙句海に還ったらどうするつもりなんですかい?
まぁだがしかし現実では空条先生に平穏な生活を握られているのは自分の方であるし、男前空条先生の噂は未だ大学に来たりこなかったりする文学部女子の間には流れてきていないわけなので、売りさばく相手も身近にはいない。
いつもどおり準備をして、大学からそのまま空条先生の家に直行である。
今日は人子にしては珍しく寝坊をしてしまって、その原因が最近やっていなかった水泳を短時間だが毎日行っているせいなのか、それとも意外にも自分は繊細な人間で毎晩の行事に気疲れしているせいなのかは定かではない。
けれど午後の授業のギリギリ直前まで爆睡するという暴挙を成し遂げた人子は当然ながら昼食を食べ損ねてしまって、若干空腹で頭痛のする中電車に飛び乗った。
行きしなに駅の立ち食い蕎麦屋に寄ろうとして、今日はもしかしたら空条先生のお家でお菓子とコーヒーが出るかも知れないから、と思い留まる。
両親蒸発扱いの自分にはバイト以外に新しい収入はない。貰えるものはうまくもらって代用していかなければならないのである。
トランクに詰められていた時にはあまり感じなかったが、先生の家はなかなか大学から遠く離れており電車に乗っていくつか駅を越えなければいけない。
そういえば初日、家まで送ろう。といった先生に車に乗せられ空条先生のマンションから車で数分のところにある海岸に降ろされた時は本当にどうしようかと思った。


『………すみません。先生、どっちかっていうと都心寄りの家賃4万のアパートに住んでます』
『…………そうか』


がっかり。という効果音がこんなに似合うとは、と感動するほどのがっかりっぷりを披露してくれた空条先生はさすがに人に見られるのはマズイでしょうし大丈夫です。と丁重に送り迎えを断った人子の意思を尊重して、現在人子は電車で自宅と空条先生の家の間を行き来している。
先生の研究に付き合って2週間ほど経っただろうか。
すっかり慣れた手つきでエレベーターのボタンを押して、迷わずまっすぐ空条先生の部屋の前に立つ。
鍵を差し込んで、家主のいない家の中へ滑り込むと複雑な作りのマンションなのか、なんとか部屋の電気を見つけスイッチを入れた人子の眼に飛び込んできたのは、美しい桜色の小さなエビが沢山入った水槽だった。

砂利の入った30?企画の水槽の中、地面を一心不乱に食む桜エビたちはその小さな体を一生懸命に動かして、沢山いる仲間と体を押し合いながら何かを一心不乱に食んでいた。
わらわら動く色艶のいい桜エビたち。
つぶらな瞳に必死に手足をうごかす桜エビを見ていると。



………ぐぅ。



素直にお腹が鳴った。

(ああああああ!!美味しそうだよ!!一体どうしてこんなに所にこんな美味しそうな!!)

桜エビは自分の好物の一つである。
一つである。といってもその食べ方といえば干したり煮たり炒めたり。とかではなく、半魚人として最大限に桜エビを楽しむ食べ方。
……そう。踊り食いである。

ピチピチしてる彼らは歯で潰すとあまくて、とろりとしていて美味しいだろう。
そういえば最近空条先生が初日に分けてくれたお刺身以外に生の魚を食べていない。
このままではマズイと一度水槽から目をそらして、白く毛足の長いラグの上にぺたりと座った。
何もなければ我慢できるはずなのに、目の前にこんな美味しそうな物を堂々と置かれるとついつい目が動きを追ってしまう。
生の桜エビなんて決して安くないし、この地域の海にうようよ泳いでいるものでもない。
桜エビの踊り食い。なんてむしろ海の中の方が成功率は低いのかもしれないのだ。


水槽に映った自分の瞳が縦長く収縮していく。
しばらく、バックに入れてきたお茶を飲んだり、授業中に友達に恵んでもらった飴玉を舐めたりしてみたけれど、違うのだ。
自分が求めているのはこんな糖分むき出しの甘ったるさじゃなくて、新鮮なエビ独特のとろりとした身の甘さである。
桜エビは水槽の中に窮屈なほどうじゃうじゃといる。


(………うんうん。大変だね。こんなにいっぱいいちゃあ餌と酸素の奪い合いだもん。わかるよわかる。海っていうのはどんな大きさでも弱肉強食なのさ)


ついに誘惑に屈した人子の手が水槽の中に付けられる。
一番弱って動きの鈍いものを人差し指と親指でつまんで口の中に放り込んだ。
汽水の塩っけに、歯でパキリと甲羅を割ると甘い味がトロッと舌の上に落ちてくる。
こういう時"活きている"魚こそ半魚人の本来の食べ物なのだな。と確信する。それくらいの旨さである。


「あまぁい!!このために生きてるって感じ!!」
「それは良かった。しかしそれはサンプルなので止めて貰えないだろうか」


背後から聞こえたイケメンボイスに壊れたプリキのおもちゃのような動きで振り返る。
すでに変態を終了した人子の右手では最早誤魔化しようのないシチュエーションである。
まさかこの歳になって他人の家で盗み食いとは相当マズイ。しかし半魚人からするとここにこんな美味しそうなものを放置する者もまた悪いのである。


「……空条先生、桜エビは飼育も難しいと思うんです」
「君は私誰だと思ってるのかね」
「う…ぅ……」


白いコートを脱いだ先生は水槽の乗ったローテーブルを挟んで反対側に座るとしげしげとこちらの顔を覗き込んでくる。


「聞いてもいいかな?」
「………ハイどうぞ」
「それは人魚としての本能がさせることなのかね……それとも君が単に意地汚いのかね」
「意地汚ッ………!!う……ううぅーん何て言えばいいんでしょう」


どうもこのままでは自分が家主不在に乗じて他人の家の物を勝手に食べてしまう意地汚い人間にされてしまうそうだ(まぁある意味その通りだが)。
ううんと考え込んだ人子の目の前で、いつものノートを取り出した空条先生はサラサラと今日の日付を書き込んできている。
どうやら先生の中で観察はすでに始まっているらしい。


「………例えば、ですよ空条先生。空条先生はカロリーメイトは食べられますか?」
「………カロリーメイト…というとそう何度も食べたことはないな。良く院生達は食べているが」
「そう。何度も食べたいとは思えないけど食べられますよね。じゃあ、毎週あれを食べられますか?」


うっ。と思いっきり顔をしかめた空条先生を見るに、彼は元々そういった食事を好まないんだな。ということが人子にも何となくわかった。


「それは無理だな。栄養価は…と言われても食べた気がしない」
「そう……そうなんですよ!まさにそれなんです!私たちにとっての地上の食事ってそんな感じなんです。特に穀類なんてなんの味もしませんよ、ご飯なんて粘土ですよ!ポテチは塩辛い紙って感じです。お腹にはたまるけど、食事って感じはしないんです………活きてる物って、私達からしたらそんな中現れた肉汁が滴るステーキみたいな物なんです!」
「……つまり味として楽しめるのは生き餌だけということか」


ふむ。ととったメモを眺めた後、先生は袖を捲ると水槽に手を入れて、捕まえた一匹のエビを人子の目線よりも上に掲げた。
思わずそれを追うように顔を上に上げると、口を開けなさい。という端的な指示が下される。
意図を図りかねて素直に口を開けると、エビがぽとりと口の中に落とされた。
反射でガチリと口が閉じる。その様子を見て空条先生は満足気に口角を上げた。
ボリボリ奥歯で噛み砕きながら先生をみつめていると本当に実験に使うからこれで我慢してくれ、と大きな掌が人子の口元に飛んだ水をぬぐってくれた。


「その思い切り噛むのは無意識か?」
「………恥ずかしながら口が開いてるときに何かが飛び込んでくると閉じちゃうんですよ、危ないですからそれはダメですよ…!」


言ってる最中からさっそく人差し指を口元に持ってきた先生の指を掴んでグッと引き離す。
全くこの人は、興味があることに対して無謀すぎやしないだろうか。


「人魚が何を食べるか……か。あまり考えたことがなかったな。なかなか面白かったよ」
「エビさん2匹分くらいの情報は提供できましたかね?」
「それ以上だ。人魚に餌付けなんてそうそうできることじゃあないしな」
「なら良かったです……あの」
「なんだね」
「その手を離して貰っても…?」


やたら口角をやら頬っぺたやらを指で触られて居心地が悪い。
どうやら頬っぺた越しに歯を触ろうとしていたらしい空条先生は慌てて手を離してくれた。


「そういえば腹が減ってるのか?」
「はい……まぁ恥ずかしながら」
「じゃあ何か食べに行こう。生きのいい魚を扱ってる店を知ってる」
「えっ……!……でもそういうところはお高いのでは…」
「心配しなくていい。普段私の趣味に付き合ってくれているんだ。それくらいご馳走しよう」


そう言って上着を着る先生の後ろを慌てて追いかける。
しまった。こんなことになるなら、もっと綺麗な服を着てくればよかった。





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