空条博士と謎謎


とりあえず、こちらも毎日先生の家にお邪魔するには予定を整理する必要がある。
逃げたりはしないから一週間待ってくれ。と猶予をもらってから、サークルの都合やバイトの時間を調整してもらったりしているとあっという間に一週間は過ぎていった。
その間大学でやたらと空条先生にばったり会ったのは偶然だと信じたい。
二度目に空条先生の家にお邪魔した時に、人子は相変わらずの白い高級感溢れるリビングの異変にいちはやく気がついた。


「あれ……?先生、水槽の中の魚はどこに行ったんですか?」
「あぁ……全部研究所だ。ここを空にしないと観察できないしな」


コーヒーを淹れている博士の方へ向かって尋ねると、彼はこともなげにそう言った。
3メートル規格で、高い天井に合わせてなのか、高さも3メートル以上あるだろう水槽は、このリビングを貫いて二階まで続いているらしい。
水槽の側には二階への扉がある事から、なるほどこのマンションは変わった作りをしているのだな。と庶民の人子にはピンとこない作りにキョロキョロと辺りを見回していた。
それにしても、これだけ大きな水槽を汽水で維持するにはどれだけのお金がかかるのだろうか。

(………やめよう。どうせ想像したってわかりゃしないんだし)

大きめの岩や海藻と言ったオブジェクト以外は空になった水槽を見つめていると、空条先生がコーヒーをローテーブルに置く音がした。
なんとも実験動物に丁寧の事だ。と思いながらそれに口をつけると、空条先生の視線が人子が持ってきた荷物たちに向けられている事が分かった。
全身変態するにあたって必要な水着と、タオル。
それから大学のゴミ捨て場に雨曝しにされていた車椅子だ。


「……えっと、尾鰭になると歩けないので……先生の家床大理石みたいだったので、マズかったですか?」
「いや…!そうだったな。こちらこそ気がつかなくて申し訳なかった」


本当に丁寧で低姿勢な大人の男の人だ。とても先日学生に向けて血も涙もないボランティア発言をしたり、赴任早々女学生の群れを一喝して号泣させた伝説を持つ人とは思えない。
しかしながら人子はそんな大人の男から確かに感じている。
それは今にも自分に飛びかかってきそうな、好奇心
の込められた熱い視線だ。
あっという間にコーヒーを飲み終わってしまった空条先生はあからさまにソワソワしながら人子がコーヒーを飲み終わるのを待っていた。
はぁ。と思わずため息をついて、始めましょうか。と言うと、風のようなスピードでコーヒーカップを片付けた先生は、とても丁寧に人子の背中に手を添えると(荷物まで持ってくれた)水槽の横の階段、二階まで案内してくれた。
人子にとって空条先生は今のところ非常にわかりやすい大人である。

普段は書斎として使っているらしい二階に上がって、水槽の入り口らしい床の重たい扉を開くと、一階の水槽の前に立っている空条先生の姿が水面越しにゆらゆらと見えた。
大きなモーターが付いている事から、いざ変態しても十分な酸素量はありそうだ。
自分が水槽のような小さな水に飛び込むのが嫌いなのは、濃度だとか酸素が十分足りるかだとかがかなり博打に近いからである。
まぁそれも、世界でも有名らしい空条先生がセットしてくれた水槽ならおそらく大丈夫だろう。
水面越しに見えないよう部屋の隅に移動して、スポーツジム用のセパレートの水着をつける。
下を履いて変態すると大変な事になるので(先日も一枚台無しにした)下は履かないまま、水着のパレオを腰に巻いて水面の前に立つ。

(……とりあえず飛び込んだら、苦しくてもパレオだけは絶対に抑えていよう)


意を決して腰を下ろして足だけをつけた後、パレオの裾を抑えつけてごぼりと水槽の中へ沈み込んで行った。











一階でその時を今か今かと待っていた承太郎の目の前に、ごぼりと成人女性が飛び込んでくる。
人間が飛び込んだとは思えないほど静かな着水に、驚いたと同時に人子の口からゴボゴボと大量の空気が吐き出される。
苦しそうに目を固く瞑って頭を振る彼女の口から相変わらずの空気はもれ続けて、あまりの様子にまさか水槽の汽水の濃度が……酸素量が……など嫌な考えが次々と湧き上がってくる。
とっさに二階に上がって彼女が飛び込んだ水槽を上から覗き込むと、力を抜いた彼女が水中で立ったまま浮かんでいる。
マズイ。そう思って洋服の袖も捲らず水槽に腕を突っ込んだ自分の手に、にゅるりとした水かきを纏った冷たい手が触れた。
ハッとして人子を掴もうと動かしていた腕の動きを止めると、穏やかになった水面には、こちらを見上げて一階を指差す元気な人子がいた。
どうやら、水に問題があって窒息死仕掛けていたわけではないらしい。ほっと胸をなで下ろして一階に降りれば、パレオを外した彼女は白い腹から魚への美しい移行部を惜しげもなく披露していて、その姿は昔おとぎ話で見た人魚姫そのものだった。
………彼女が上半身にきているやたら現代的なスポーツ用の水着以外は。


「………やっぱり非難覚悟で貝殻でも準備しておけば良かった」
「私死んでも着ませんからねそんなベタすぎる水着」


水越しにくぐもった彼女の声が聞こえた。
いけないいけない。
慌ててノートに今日の日付と水の濃度。
彼女の変態までの様子を記載する。


「話せるんだな。水の中で、どんな感じなんだ?」
「見ていただいた通り反射で最初に肺の中の空気を全部吐き出します。それからこのエラが生えるまで呼吸が止まります、小さい頃母からは体が水で息をするために準備してるんだって教わりました。それで、今度は逆に胸の中が水でいっぱいになるんです」
「………なるほど、肺呼吸からエラへの変態は君にはそう感じるのか………なら前回君が失神したのは呼吸のせいだな。おそらく海水を浴びて体が酸素を吐き出したんだろう。しかし同時にエラ呼吸も肺呼吸も出来るのだろう?」
「……水から顔を出してしばらくは苦しいですけど、すぐになれます……ちょっと海水を吐いちゃいますが」


水槽に手をついて彼女の掌には、ピンク色の水かきが付いている。せっかくなのでその様子もスケッチしておく。
何もない水槽の中では退屈してきたらしい彼女は、大して広くない水槽の中をグルグル回る。
水槽の厚みを勘違いしているらしい………最近泳いでないから太っちゃったなー。水泳って有酸素運動だもんね〜痩せそ〜。とか言っている人魚の呟きを聞こえないフリをしながら、尾鰭の先を注視し続けた。
もしかして彼女にも魚類として同じカテゴリーに分類出来る種類があるのかもしれない。


「人子君。上に上がって来てくれ、地上で話そう」


あまりに長い間この彼女には小さな水槽で泳がせるのも危険である。
ガラスを叩いて呼びかけると、頷いた彼女が上昇していくのを確認して承太郎も二階に上がった。
床に両腕を付いている彼女に、ハンドタオルとペットボトルに入った水を渡してやる。
なるほど少し苦しそうにだった人子も数分もすれば調子を取り戻したらしく、濡れた頭を拭きながらゴクゴクと水を飲んでからこちらを無視して準備していたらしいジップロックに入った携帯電話を弄り始めた。


「何かわかりましたか?……って、怪物相手に数分で何かわかっちゃこっちも怪物甲斐がないですけど」


そう言って笑った人子の台詞がこちらを挑発しているようで、実に自虐的な響きで少し引っかかった。
なるほど、彼女は少々こちらを侮っているらしい


「そうだな……とりあえず君のルーツはわかったぞ」


そう言うと、携帯をいじるのをやめた彼女がじっとこちらを覗き込んできた。
なるほど新発見だ。人魚は興奮すると瞳孔が縦長く収縮するらしい。これは哺乳類と逆だ。実に興味深い。


「恐らく君のルーツはブダイ科の仲間だ。尾鰭の上下が長く伸びている事からアオブダイ属でもアオブダイではなく………そうだな。その鮮やかなターコイズブルーはイラブチャーのものだ。そうなれば筋肉も大方想像がつく。君は白身………まぁ、長く泳ぐには向いていない体をしているよ。ただし瞬発力は相当なものなんだろうね。もし君がイラブチャーだとすれば、私は君に対して毒があるかどうか念のため確認しておきたいんだがどうだろうな?」


そこまでまくしたてるように話すと、人子はぽかんとした顔のままこちらを見上げて固まっていた。
承太郎はただ、もしも彼女が人間に対して卑屈な気持ちを持っているのならそれを取り除いてやりたいと思った。
彼女が自分自身に対して言う怪物という言い方は好きではない。
ある意味怪物と称することでこちらと線を引こうとする彼女に、君達も所詮自分達と同じ海がルーツの地球上の生命体なんだということを知らしめてやりたくなったのだ。


「………先生凄い、本当に教授なんですね!」
「それで、君はイラブチャーなのか?」
「あー……昔親戚のおじさんになんだっけ、そのイブラヒモビッチみたいなやつに人子ちゃん似てるねーって言われたことはありますよ!」
「…………イラブチャーだ」


そう言いながら少しだけ笑ってまた沈んでいった人子を目で追いながら、承太郎はますますこの不思議な生き物を地球上の生物に定義付けてやろう。という気分になった。
彼女達の平穏の為に公表はしなくとも、どうやら自分達の正体についても曖昧に生きているこの孤独な生き物達に名前をつけてやらなければいけない。



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