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 碧に「二日も連続で床で寝かせられない」と頑なに言われ、しかしまだ平熱よりは高く喉も鼻も酷い調子の碧を置いて帰る気にはなれず、妥協案として添い寝することになった。

 先に寝息を立て始めている碧と並んで寝転んでいる。蒸し暑く静かな部屋で一人寝付けずにいると、またつまらないことばかりを考えてしまう。
 このベッドで碧が襲われたのかと思うと気味が悪く、気分も悪くなる。シーツやマットは買い換えたと言うが、それでもやっぱり「ならば大丈夫」とはならない。こんな場所で毎日寝起きしているのかと思うといたたまれず、碧が毎日遅くまで学校に居座り、なかなか家に帰りたがらなかった理由も解ってしまって、そんな場所に毎日のように送り届けていたのかと思うと俺は、……俺は、だけれども、どうしようもない。

「…………ん、」
「……」

 右隣でもぞもぞと動く気配がしたから自然とそちらへ首を向ければ、額に冷却シートを貼った碧が寝返りを打った。俺は暑いからと布団を完全に碧に譲り、碧はまだ寒気がするのか肩までしっかりとそれを被っている。
 このベッドで眠ることには、もう慣れているのだろう。そりゃあそうだ、俺が知る前から毎日毎日、ここで眠っているのだから。どうして逃げ出さなかったのだろうか。この家から。逃げた先で助けてくれる者など誰も居ないからだろうか。それとも、碧が逃げ出すとしたら、その行き先は『母親と同じ場所』という選択肢だったからなのか。
 ずっと隠して、思い詰めていたのだろうか。俺と対等でないという感情は、そこから来ていたのだろうか。釣り合う身分でない、なんて、どんな気持ちで、言っていたのだろうか。

「……、」

 目の奥が熱くなる。昨日から度々あった。頭からじんじんと熱が流れ込むようで、涙が溢れそうなのとも少し違う、慣れない感覚だった。だけど哀しみから来るものには違いない。そう感じていた。

「…………碧」

 ぐるぐるぐると、生産性のないことを考え続けている自覚はある。過去の碧の言動や態度に思いを馳せたところで、何かが変わるわけでもない。俺がすべきは、今目の前の碧に何をしてやれるか、それを考えることだ。
 寝返りをしてこちらを向いていた碧の、顔へ、手を触れるか迷った。今このベッドで彼女に触れることは、彼女の嫌な記憶を引き出すことに繋がるかもしれない、と不意に思ったから。そういえば昨晩もうなされていた。その時は何も思わずに手を握ったのに。

「…………」

 俺は恐れている。碧に、無意識でも反射でも、拒否されることを恐れている。どんどん気持ちがマイナスへ傾いている。良くない傾向。
 碧には、今まで通りに接してほしいと言われた。応とは言ったが、少なくとも今はまだ、そうできそうもない。右隣の碧の顔へ伸ばしかけたままだった右手を、そっと戻して、天井を仰ぐ。臆病者め。

「……サスケくん」
「! ……起きてたのか」
「……ん、いま……」

 言いながら、布団の中でなにやらごそごそと動いている。首だけ向けて見守っていると、俺の右手に何かが触れた。あたたかい、と言うよりは少し熱かった。

「……さわってても、……いい?」

 遠慮がちにされた事後承諾は、碧の精一杯の甘えと、それに対する申し訳なさを表していた。

「…………」

 拒否、だなんて。碧がするわけはないと、解っていたのに。無意識だとしても、反射だとしても、それが碧の意思に反することだと理解していたくせに。

「……好きなだけ、触ってろ」

 それでも、なお、俺は自分から触れてやることができないほどに、それを恐れていた。
 碧が嬉しそうにはにかんで、もう少し身を寄せるのにも、幸せそうに目を閉じて、俺の右手に触れるのにも、触れ返してやることができずに、ただ顔を見詰めていた。





 ふ、と意識が上昇する。朝か。
 一度は開いた目を一旦閉じて、脳に酸素を送るように何度か大きめの呼吸をする。その時とても、近くに、覚えのあるにおいがすることに気付いて、ゆるやかに瞼を上げた。これは、そう、碧の。

「……」

 いつの間にか俺は碧のほうへ寝返りをして、布団の隙間から入り込んだ上で、碧を抱き寄せていた。碧側にある右腕には碧の腕が絡まっていて、それを丸ごと包むように左腕を回している。

 呆れた。昨晩あんなにもぐだぐだと、触れるのが、拒否されるかもしれないのが恐ろしい、だのと考えていたくせに。意識の無いうちにちゃっかりと、触れているじゃないか。理屈の存在しない間に、随分と素直なことをしている。
 特に根拠のない恐怖だったことは分かっていた。本当は触れたいという本心とちぐはぐで、どこかで煩わしいとさえ思っていた。ああ、バカらしい。

「…………んふ、」

 俺の腕に抱き付く碧が、不意に笑い声を溢した。俺の考えていたことに対するアンサーかとも一瞬思ったが、そっと様子を窺えば、まだ起きてはいない。よほど穏やかな夢を見ているらしい。俺の肩へ頭を擦り寄せて、幸せそうに眠っている。

「…………」

 嗚呼。弱く愚かな俺を、許せよ。

 窓から差し込む光は、六時頃の明るさ。蝉の鳴き声が遠くから微かに聞こえる。早朝の囀りも聞こえて、夏の朝を報せる。
 外の様子なんかに気が向くのは、二日ぶりだ。もうずっと、それどころではなかったから。
 暑さにじっとり汗ばんでいることにも気が向いて、少しずつ脳が覚醒するのを感じる。碧からもほんのり汗のにおいがして、しかし嫌ではない、十分に許容のできるかおりだと思う。むしろ、においを嗅げるほどに近くに居るのだと思うと、愛しいとさえ感じる。

「……碧」

 しかし、このままでは寝たまま熱中症になりかねない。惜しく思いながらも声を掛け、目を覚ますように促す。布団も剥いで、こもった熱を解放する。

「……ん……、……」
「目、覚めたか?」
「…………んー……」

 眩しそうに薄目を開けたかと思ったが、すぐにまた閉じ、起きたくないと駄々をこねるように首を振る。碧にしては珍しく眠そうにしている。いつもならこの時間にはすでに起きているはずだ。昨日ですらそうだった。
 俺の右腕に絡めた両腕をもぞもぞと動かし、額をぐりぐりと肩に押し付ける。それで熱を吸いきって薄くなった冷却シートがめくれ落ちた。寝ぼけているのだろうが、滅多にされない甘え方に、胸が狭まるような感じがした。

「…………──」

 ザワ、と下腹部に妙な感覚が走る。それが何なのか、すぐに直感した。

 咄嗟に碧から身を離そうとした、が、思ったよりしっかり右腕に抱き付かれているようで、それは不発に終わる。
 俺が動いたから、碧は今度こそ目を覚ました。眠そうに何度も瞬きをして、現在の状況を薄く理解する。

「……ぁ、ごめんね……腕つかみっぱなしで……」
「……いや」

 それは構わなかった。別に尿意があったわけでもない。
 そっと俺から離れて、大きく息を吸いながら寝たままの伸びをする。その間に俺は上体を起こして、碧に背を向けながらベッドの縁に腰掛けた。


 あの、感覚は、“欲情”だ。


 ドクドクと、心臓が嫌な強さで打つ。まだ興奮しているわけじゃない。逆だ。俺は血の気が引いていた。

 碧に、そんな気持ちを抱いたことなんて無かった。俺はただ純粋に、そう、純粋に、碧のことを好きなのだと。そうであるはずだ。
 ただ傍に居たい、居てほしい、守りたい。そう思っている、俺が。俺自身が。

 碧の脅威になり得るのだと、したら。


「──…………」


 冷や汗がすぅっと、首筋を伝った。



(160717)


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