▽ 5
優華は抱きとめられた格好のまま動くことも出来ずにただただ固まっていた。
どうしてこんなことになっているのか理解出来ない。
「いけませんよ。あなたはまだ若い。生きていればどんなことだって出来るはずです。」
真剣に言い聞かせるその声はひどく耳に優しく響く。整った容姿な上に声もいいなんてさぞかし女性にもてるだろう。思考回路がパンク気味の優華はそんなことを考えていたが、彼に言われた言葉を咀嚼すると思考回路が停止した。
「・・・はい?」
二人の間に奇妙な空気が漂う。
今彼は何と言っていた?まるで自ら命を捨てるようなことをするな。というようなことを言われたような気がする。いやいやそんなことをしようとはしていない。というかそもそも私はすでに死んでいる。死神がさらに死ぬとなると消滅。消滅する前に甘いものを死ぬほど食べたい。むしろ甘いものを食べすぎて甘いものに溶けて消える方がいいかも。
優華はもはや混乱のあまり、頭の中を覗かれたならば一体何を考えているのかと誰もが呆れるようなことを考えながら石のように固まっていた。そんな優華を見て、彼の眉間にも皴が寄せられていく。
「・・・入水しようとしていたのでは?」
「・・・違います・・・。」
「・・・・。」
「・・・・。」
二人してしばらく固まっていた後、先に動いたのは彼の方だった。優華を掴んでいた手を放し、少し気まずそうに頬をかく。
「・・・それは失礼しました。いくら暖かいこの季節とはいえ、海の方へふらふらと向かわれていたので・・・最悪な予想をしてしまいました。」
つまり彼は優華が入水しようとしていると勘違いをして引き留めにきてくれたということだ。でもなぜそんな勘違いを。そこまで考えた優華がふと足元を見ると膝下まで浸かってしまっているのが目に入った。いつの間にこんな場所まで歩いていたのだろう。
夜の誰もいない海。膝下まで水につかっているこの状況。もし優華が彼の立場であったとしてもこの状況だったらそういうことを連想してしまうだろう。
なんて紛らわしい行動をしてしまったのか。
ここにきて優華はようやく彼の勘違いの原因を作り出していた自分を把握して焦っていた。
「そ、そうですよね。こんな時間にふらふらと海の方へ女が一人向かっていたら勘違いさせてしまいますよね。紛らわしいことをしてご迷惑をおかけしてごめんなさい!」
優華はいたたまれなくなり、ひたすら頭を下げるしかなかった。すると彼も海の中に足を踏み入れて濡れてしまっているのが目に入り、優華は思わず眉を顰める。
「いえいえ僕が勝手に勘違いしてしまっただけですのでお気になさらず。むしろ勘違いですんでよかったです。」
足元が濡れているにも関わらず髪をかき上げながら笑う彼に、優華は余計に申し訳なさがこみあげる。いっそ紛らわしいことをするなと叱られた方がまだましである。
「それより・・・差し出がましいですが、なぜこんな時間にお一人でこんな場所に?女性がこんな時間にこんな人通りのない場所にいるのは感心できませんよ。何かあってからでは遅いんですから。」
「えっと・・・友人と来ていたのですが、喧嘩、しちゃいまして。置いて、帰られちゃいました。」
回転の速いわけではない頭をこれでもかというくらいフル稼働させて、思いついた言い訳を浮かべていく。ちょっと無理やりすぎる言い訳だっただろうか。うまくごまかせている自信もない。それでもなんとか納得してもらえる程度には話をもっていかなくてはと優華の思考回路はこれまでになく必死で働いていた。
「・・・そうなんですか。そのご友人は・・・男性ですか?」
「そうです、けど・・・。」
「・・・いくら喧嘩をしたからと言ってこんなところに女性を置き去りにするとは・・・短絡的な思考にも程がありますね。あなたに何かあったらどう責任を取るのか。」
まずい。逆に話が大きくなりかけているような気がする。
「あ、いや大丈夫です!・・・私これでも元警察官なんで。何かあっても多少のことは自分で対処できますのでご心配なく。」
眉間に皴をよせて呆れたようにつぶやく男に慌ててそんなことを口走ると彼は驚いたように目を見開いた。
―そう、生前の優華の職業は警察官だった。過去のことを話すなどこの先訪れることはないと思っていたが、まさかこんなところで再び過去に触れることになるとは優華にとっても想定外だった。
「元警察官・・・ですか。たとえそうだとしてもあなたが女性であることにかわりはありません。油断は禁物です。わかりますよね?」
警察官という経歴など遠くに放り投げたように女性扱いを前面に出されて、普段そんな扱いを受けることがあまりない優華はなんだかいたたまれなくなってしまう。というか、死神なので大丈夫です、そもそもむしろあなたが私に気づいたことの方が驚きな状況なんです、などと言えるわけもなく、優華はひたすらコクコクと頷くしかなかった。しかし、彼の言葉に反応しながらも、優華の意識は実のところ半分以上違うところにあった。
彼に、会えた。
限りなく低いと思っていた運命のいたずらが起きたのだ。諸伏さんの伝言を伝えなければ。これで彼の願いを叶えてあげられる。諸伏さんの伝えたくても伝えられなかった思いを伝えてあげられる。
だが、こんな急に出会うことなど想定していなかったのでどう伝えたらいいのか、うまくまとまらない。なんといって話を切り出せばいいだろうか。どう切り出したところで素直に信じてもらえるとも思えないが、少しでも信じてもらえやすそうな伝え方は―――。瞳を揺らしながら何かを考え込んでいる優華に気づいてか気づかずか、彼はにこりと笑みを浮かべる。
「そういえばまだ名乗っていませんでしたね。僕は安室透と言います。」
彼のその言葉は優華の思考回路を再び停止させるには十分だった。
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