青を刺す
陽射しの強いある午後のこと。わたしは高専内部にあるベンチに腰掛けて、隣に座る傑にぽつりと話し出した。
「ねぇ知ってる?傑」
「なに?」
「人は声から忘れるんだって」
「何の話?」
何をするでもなく、ただ隣合っていた彼がこちらを向いた気配がした。わたしは背もたれに頭を預けてぼんやりと空を見る。
「人間は、声から忘れるって話」
「なんだい、それ。ずいぶん急だね」
「今ふと思い出したの」
わたし達の声は無気力なものだった。高校二年生だったわたし達には背負いきれない出来事が起こった。それから表面上は元通りの日々を送っているが、傑も悟も硝子も少し変わった。わたしも多分例外ではない。
「……忘れたくない人でもいるの?」
「うーん、そうかもね」
曖昧に濁した答えに彼は深く突っ込まなかった。彼が想像しているであろう人物と、わたしが思い浮かべている人物はおそらく違う。正す気などさらさらないから、別にいいのだけれど。
「ドラマとかでさ、死にかけてる大切な人にもう喋るなって言うじゃない?」
「うん、言うね」
「あれ駄目だと思うんだよねぇ、わたし」
「そうかい?」
「うん」
おもむろに右隣に目線をやると、パチリと彼と目が合った。切れ長の目が何を映しているのか、わたしには知る術がない。
「静かにしていれば助かる可能性が上がるかもしれないじゃないか」
「それは……そうだね。でも、助からないかもでしょう?そうなるとやっぱり、最期に話したいじゃない」
「まぁ、確かに一理あるね」
再び上へ目を向けると、青い空が見える。その透き通った青は悟を彷彿とさせた。彼の六眼をもってしても、隣の男の腹の中は読めないやしないのだろうか。
「人は声から忘れるから。だから最後は話をしないといけないと思うんだよね」
「なるほど、そこに行きつくのか」
「うん。だから今、こうやって傑と話してるの」
わたしがそう言った瞬間、彼が息を飲んだ気がした。
「君、死ぬつもり?」
彼が珍しく低い声を出した。悟にはしょっちゅうそんな感じだけれど、硝子やわたしには滅多に向けることのない声色だ。女の子にモテる理由がよく分かる。
「……ふふっ、まさか」
わたしはようやくちゃんと彼の目を見た。へらっと笑うと、安心したように彼がため息をつく。形の良い眉が少し下がった。
「まったく、驚かせないでくれ」
「ごめんごめん」
軽い調子のわたしを彼がじとっとした目で見つめる。なに?とわたしが首を傾げると、いや、と彼は首を振った。
「わたしね、傑の声好きなんだ。聴いてると落ち着くから」
「そうかい?それは初めて言われたな」
「えぇ〜ほんと?」
「ほんとほんと」
彼はわたしの真似をして笑う。こっそり表情を盗み見て、ちゃんと偽りなく笑っているか確認するようになったのはいつからだろう。出会ったころはもっと、何かが違っていたのに。
「ねぇ、これからは毎日話して」
「……どうしたんだい。今日はいつもと様子が違うね」
熱でもあるんじゃ、と傑がわたしの額に手をあてた。降り注ぐ日光と紫外線によって熱を持ってはいれど、至って平熱である。だって、いつもと様子が違うのはわたしじゃなくて傑の方だから。
「わたしは何も違わないよ。違ってると思うのは、あなたが違ってるから。傑が変わったから」
彼が一瞬目を見開いたのをわたしは見逃さなかった。図星か。やっぱりそうだ。一人ベンチで佇んでいた彼を見て、わたしは何故か焦燥感に駆られた。このままどこかへふらっといなくなってしまいそうで怖くなった。だから断りも入れずに隣へ座って、終着点を持たない話を始めたのだ。
「私は何も変わっていないよ」
「どうかな」
「それを言うなら君だって変わっただろう」
「どこが?」
「コーヒーをブラックで飲むようになった」
「それは、甘いのが苦手になったからで……」
はぐらかされている。そう気づいたときに、もうわたしにできることはないのだと悟った。食い下がるのをやめて、彼の話に合わせる。
「本当?しかめっ面で飲んでたの知ってるけど」
「……よく見てるね」
「まぁね」
夏油傑は狡い男だ。こういうところが狡い。
人は声から忘れる。わたしは一体いつまで彼の声を覚えていられるのだろう。