暮れゆく日常



高校三年生の夏休み一日目、わたしは交通事故で生死をさ迷った。弟の話によると、医者に今夜が峠ですと言われて両親は泣き崩れたらしい。もう駄目なのではないかと皆が諦めかけていたのだが、なんとわたしは無事に一命を取り留めた。

いや、取り留めたどころの話ではない。夜明けとともに、わたしは全快したのだ。生憎これは弟の夢オチでもなければ、話を盛ったわけでもない。「反転術式」というものによって、わたしは命を繋いだのだ。大事故に遭ったはずのわたしが突如回復した様を見て、その場にいた人間は祝福よりも驚愕が勝った。ただ一人、訳知り顔な母を除いて。

母の家系は多くの呪術師を排出しているやんごとなきお家らしく、親戚の中にもわたしのように傷を術式によって治すことができる人がいるのだという。母は呪力こそあれど術式を持たず、時代遅れな男尊女卑な家柄にも嫌気がさして勘当上等で家を出たらしいのだが、わたしが術式を持つことが分かった以上、実家に戻る必要があるのだとか。

言わなければ分からなかったんじゃ、と単純なわたしは思ったのだが、医者たちを丸め込まなければならないため家の力が必要ということで、母は実家から人を呼び寄せたらしい。回復はしたが未だ眠ったままだったわたしは、繋がれていた管やらなにやらを取っ払われ、病室で一夜を過ごした。


それがつい昨日の話である。
今朝深い眠りから目を覚ましたわたしは母からことのあらましを聞き、昨夜京都からこちらに来たのだが一度ホテルかどこかへ帰ったという実家の人が戻ってくるのを一人待っていた。どうして事故に遭ったばかりで知らない親戚(なのかもよく分からないが)と会わなければいけないのか甚だ疑問だが、先方の指示と言われては大人しく従うしかなかった。

白い病室でベッドに座ったままぼんやりと時計が進むのを待っていると、静かな音を立てて扉が開いた。「お待たせ〜」と軽い調子で入ってきたのは、母の言うやんごとなき家系とは少々ミスマッチに思える金髪の男であった。

「君、反転術式使えるんやって?」

彼はベッドの脇にある来客用の椅子に腰掛けると、自己紹介もすっ飛ばしてわたしにそう聞いた。ずいぶん馴れ馴れしい様子に、わたしは少し引いた。

「……そうらしいです、多分」
「らしいって、あー、そういや何も知らへんのか」
「話聞いたんですけど、よく分かんなかったんですよね……」
「まあそんなもんやろね」

分からないことを取り繕っても仕方がないと正直に答えると、彼はうんうんと頷く。なんだ、聞いていたより優しいじゃん。などと心の中で安心していると、彼は何を思ったか、近くにあったボールペンを手に取り、わたしの腕を思い切り引っ掻いた。

「いっ!?」

鋭い引っ掻き傷が付き、血が滲んで流れ出す。腕から滑り落ちた血液によって、真っ白いシーツがぽつりぽつり赤く染まっていく。突然のことに呆けていると、彼がわたしの目の前でパンと手を叩いた。

「はい、治してみ」

驚き顔をあげると、彼はなんてことのないようにわたしの腕を指さす。

「ど、どうやって」
「どうやってって言われてもなぁ。俺反転術式使えへんからよお分からん」

ズキズキとした痛みに耐えながら指示を仰ぐも、返ってきたのは分からないというまさかの返答。なんで来たの?何しに来たの?

「えっ、治せないの!?」
「やって君自分で治せるやん」
「やり方わかんないですけど!」
「なんでやねん。今ピンピンしとるやんけ」
「……起きたら治ってたから」
「そやからそれは君が自分で治したからやん」

関西人は口が達者なのか知らないが、ああ言えばこう言われ、一向に埒が明かない。その間にも血は流れているわけで、こんなことで失血死したらどうしようとわたしはハラハラしていた。

「ねぇ、これ、治せなかったらわたし死ぬんじゃ……」
「アホか。そないな出血量で死ぬわけないやろ」
「でも、……あ」
「ん?」

めちゃくちゃ痛いし、と言おうとしてわたしは言葉をとめた。ふと視界に入った腕から傷が消えていたのだ。綺麗さっぱりなくなっている。

「き、消えた……」
「なんや出来るやんけ」

確かに痛かったはずなのに、今はその感覚すら消え去っている。ぽつぽつとシーツに残る血痕だけが、あの傷が本当に存在したという証拠だ。楽しそうに声をあげた彼は、自分が傷を付けた腕をつぅとなぞる。

「跡形もない。大したもんやなぁ」
「でも、できる人たくさんいるって、」
「ほらおるけど、ここまでキレーに治るんは珍しいで。他人には使えへんのかな〜」
「他人?」

無遠慮に触られるのをそれとなく制すると、不服そうな表情とともに手が離される。そして彼は再びボールペンを手に取り、今度は自分の腕を躊躇なく引っ掻いた。

「そうそう。俺のことも治せる?」
「えっ、な、何して、」
「反転術式は自分にしか使えへんやつと他人にも使えるやつがあんねん。君はどっちかな〜思て」
「それだけのためにこんなこと……」

先程のわたしのように、彼の腕に血液がつたう。そんなの、指の先をぴっと切るくらいとか、もともとある怪我とかで試せばいいのに。着物の袖を血で汚しながら、彼はわたしを急かす。

「ほら、はよせんと大量出血で死ぬで」
「その量じゃ死なないって言ったくせに」
「口答えの多いガキやなぁもう」
「ど、どうすればいいの?」
「やから俺は知らんって」

相変わらずやり方などあってないようなもので、ちっとも分からない。分からないと言えば、わたしは彼の名前だって知らないのだ。

「……手、握っていいですか」
「かまへんよ」

許可を得て彼の手を両手でそっと握る。わたしとは違う、節の目立つ手だ。何故こんなことをするかと言うと、術式の使い方が分からない以上、傷を治すと聞いて連想できることをしようと考えたのだ。

「い、痛いの痛いの飛んで行け……?」

そう言った瞬間、辺りがしんと静まりかえったような気がした。もしわたしがお笑い芸人だったなら、この状況を「スベった」と表現しただろう。恥ずかしくて顔を上げられない。穴があったら入りたい。

「ち、違うんです!ちょっと血迷っただけでわたしは決して、」
「ふはっ、君頭ヤバない?」

沈黙が怖くて訳の分からない言い訳をつらつらと並べていると、目の前から笑い声とともに暴言が飛んできた。咄嗟に反論しようとして気づく。猫のようなつり目を細めて笑う彼の腕から、あの引っ掻き傷が消えていた。

「あ!傷!治ってる!」
「ん?あ、ほんまや」

やった!できた!と握ったままの手をぶんぶん振ると、また彼がゲラゲラと笑う。

「なんですか!」
「いや、かいらしなぁ思て」

そう言いつつも、彼は笑いを止められていない。肩を揺らして小刻みに震えている。事故に遭って、知らない人に会って、ひどい目に遭った。最近なにかとツイていないな、わたし。

「ま、高度な反転術式使えるっちゅうことが分かって良かったわ」
「そうですか……」

誤魔化して適当に話をまとめようとしている彼にわたしはため息をついた。今のわたしに分かるのは、よく分からない世界に巻き込まれていることだけだ。あとはもう、さっぱりだ。目の前の彼を筆頭に。

「今夏休みなんやっけ?」
「え?あぁ、はい。昨日から」
「ほな京都においで」
「え?」
「俺京都在住やねん」
「はぁ、そうですか」

おもむろに立ち上がったのでようやく帰るのかと思ったら、彼は何故かベッドの端に座り直す。

「面倒見たるからおいで」
「わたしの両親は健在ですが……?」
「いや知っとるわ!昨日会うてんねん!」

真面目に返すと軽い力でスパンと頭をはたかれた。

「だって面倒見るって」

頭を抑えてじとっとした目で彼を見返すと、斜め上から無表情で見下ろされる。一瞬、初めて彼を怖いと思った。しかしすぐに笑顔が戻る。

「忘れとらん?君呪術師になるんやで」
「えっ?なんで?」
「なんでって、そら反転術式使えるからに決まっとるやん」
「えっ、わたし大学に……」

戸惑うわたしとは対照的に彼は当たり前とでも言わんばかりの様子だ。足を組んで彼は続ける。

「行かれへんよ。せっかく使える術式あるんやから、世のために使わんと」
「でも、」
「でもやあらへん。高校は卒業させたるし、感謝してほしいくらいやわ」

彼はそれでも食い下がるわたしの顎を片手で掴み、にいっと笑みを浮かべた。見下されている、気がする。

「か、勝手に決めないで!」
「決める。やって俺次期当主やもん」
「当主……?」
「そう。一番偉い人やで」
「……だからってそんな」

突如着信音が鳴り響いた。彼がわたしからパッと手を離す。わたしの携帯のそれとは違うということは、彼の携帯だ。「なんやねん」と愚痴りながらも彼は電話に出た。

わたしの病室が個室なのを良いことに、彼はそのまま話し始める。反転術式がどうのこうのと聞こえるあたり、どうやら要件はわたしのことらしい。一、二分で電話は終わり、彼はこちらに向き直った。

「用事ができてもうたからそろそろ帰るわ」
「えっ、まだ話は、」

袂に携帯を片しながら彼は立ち上がる。待って、と伸ばした手はすり抜けて宙を掴んだ。

「ほな、また京都でな。待っとるで」

ひらりと手を振り、彼は部屋をあとにした。名前も聞けないまま帰ってしまった。彼が座っていたところがほんのり温かい。それは消した傷があったことを証明する血痕のようで、なんとも言えない不思議さだけがわたしに残った。



prevbacknext

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -