物語だった日々



ふと頭の中にとある曲が流れた。そういえば昔よく聞いてたっけ、と懐かしくなり、久しぶりに聞きたいなとスマホで検索をかけた。しかし、何故かその曲はヒットしない。題名も、歌手名もあっているはずなのに。出てきた関係の無いサイトを見ながら、あ、と気づく。

「……ここ、異世界なんだっけ」

ぽつりと零れたのは虚しい独り言。すっかり忘れていた。ここはわたしの知っている世界ではないのだ。わたしの記憶にあるものは、何ひとつここにはない。図書館へ足を運んだときによく思い知った。

突きつけられた現実にどうしようもなく悲しくなり、共に課題をしていたエースの方を見やると、彼は能天気にもすやすやと寝息を立てて眠っていた。とはいえ、彼の手元にある無造作に置かれたプリントは全て埋まっている。わたしが終えるのを待ってくれていたが、寝落ちてしまったというところだろうか。

残念ながら、わたしの方のプリントは未だ白紙同然だ。魔法が使えない分、それ以外の授業は頑張ろうと思ったのたが、なにせわたしは基礎の基礎、英語でいうアルファベットすら知らないようなレベルだ。そんなわたしが名門であるこの学校の授業についていけるはずもなく、日々出される課題はエースやデュースに一から十まで教えてもらわなければ一問も解くことが出来なかった。

それでも、少しずつ知っていることが増えて、少しずつ先生の言うことが理解出来るようになった。知り合いも随分増えて、異世界での学園生活を楽しむ余裕だって出てきた。だけど、ふとしたときに思い出すのは元いた世界のことばかりで、一人になるとセンチメンタルな気分になることも少なくない。現に今だって。

「まーだ白紙のまんまかよ、監督生」

よく通るエースの声が、じとりと暗い気持ちに浸っていたわたしを呼び戻した。はっと顔を上げると、エースはわたしの手元にあるプリントを指差し、少し不機嫌そうにこちらを見ていた。ちゃんとやってたのか?とでも言いたげだ。

「……ごめん、まだかかりそうだから先帰ってていいよ」

ぼうっとしていたことは否めない。時計を見ると勉強を始めてから二時間が経とうとしていた。わたしはもう少しやってから帰るから、と言うとエースは何とも微妙な顔をする。そして彼は徐に立ち上がったかと思うと、わたしの前の席から隣の席に移動し、どかっと椅子に座った。

「どこから分かんねぇの?教えてやっからさ」
「え、や、いいよそんな。流石に悪いし」
「いーから。ほら、言ってみ」

何故か頑なに教えてやると言って譲らないエースにわたしは観念し、ここのこれが分からないと白状した。エースがあ〜そこね、確かに分かり辛いよな〜と優しく説明してくれるのを聞きながら、わたしは必死で問題を解いていった。

結局、わたしが一時間以上唸っていた課題はエースの教えによって二十分ほどで片付いてしまった。持つべきものは教え方の上手い友人だ。

「ありがとう、エース。ほんとに助かった」
「じゃ、またなんか奢ってよ」
「うん、もちろん」

お礼を言うと、何ともエースらしい答えが返ってきて思わずくすりと笑ってしまう。前もグリムを捕まえてもらうためにエースとデュースに奢ったっけ、とどこか少し懐かしく感じた。この距離感が、とても心地いいのだ。

「……もう寮に帰る?」
「ん?うん、そうだね。いずれ補習に行ってたグリムも戻ってくると思うし」
「ま、そーね。じゃあまた明日。遅刻すんなよ」
「うん、また明日ね」

からかうようににやっと笑ったエースに手を振り返し、わたしはオンボロ寮へと足を進めた。グリムのいない帰り道は少し寂しい。さっきまでエースといたから余計にかもしれない。賑やかな学園のせいで、わたしは随分と寂しがり屋になってしまったらしい。冷たい風が肌に刺さる。

別れてからまだ一分弱だというのに、もうエースの声が恋しい。呼び止めたら、迷惑だろうか。振り返って、エースと名を呼べば立ち止まってくれるだろうか。

歩みを止め振り返ろうとした瞬間、聞きたいと願った声が聞こえた。

「監督生」

それは紛れもないエースの声だった。どうして、という思いを抱えながらもおそるおそる振り返ると、彼はもう一度、監督生、と口にした。

「エース……」

それにつられてか、わたしも彼の名を呼んだ。十数メートル先でエースがふ、と笑ったのを感じた。あまり見ない、珍しい笑い方だ。二人の間を吹き抜ける風はどこか暖かい。

「あのさ、やっぱもうちょっとだけ一緒にいねぇ?」
「え?」
「オレはもうちょっと、監督生と一緒にいたいんだけど」

どうしてエースはこんなキザな台詞を恥ずかしげもなく言えるのか、不思議で仕方がない。わたしは面食らって返事も出来ずにいるというのに。黙り込んだわたしに痺れを切らしたのか、少し離れたところにいたエースはずんずんと距離を詰め、わたしのことを思い切り抱き締めた。

「えっ、ちょ、え、エース!?」
「……寂しいなら寂しいってそう言えよ」
「ちょっと何言って、」
「だって離れ難いって顔してんじゃん」

否定できなくてつい言葉に詰まった。寂しいし離れ難い。だけど、わたしはそんな顔をしていただろうか。分からない。バクバクとうるさい心音が邪魔で、頭の中までぐちゃぐちゃになってしまう。エースに伝わっていないといいのだが。

「で、どーなの?」

わたしの心の内を知ってか知らずか、エースは普段と変わらない調子で話し続ける。いつもと違うのは、頭上から聞こえる声の近さだ。わたしに回された手が所在なさげに背中をなぞった。拷問だ。こんなの、ドキドキさせられる拷問でしかない。

熱を持った顔を隠すため、わたしは自分とは違う硬い胸板にぎゅっと顔を寄せた。一瞬、エースが息を呑んだ。

「……なに?」
「……エース、わたし、寂しい」

言った。言ってしまった。こんな情けないこと、言いたくなかったのに。顔を上げられないまま返事を待っていると、知ってた、と耳元でエースが笑った。なにそれ。狡い。

いたたまれなくなってさらに肩口に額を押し付けると、頭上から楽しげな笑い声が響いた。この笑い方も、知らない。わたしにしか向けられないものだというのは、些か自惚れが過ぎるだろうか。



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