踏みつぶした夜明け
帰る手立てを見つけた。捻れた世界に迷い込んでから、もう一年も経った日のことだった。
「ラギー先輩!聞いてください!」
「どうしたんスか、いつになくご機嫌っスね」
中庭で寝転んでいたラギー先輩を見つけ、わたしはぶんぶんと手を振った。ラギー先輩には報酬ありとはいえ、帰る方法探しを何度か手伝ってもらったことがある。直接の発見とはならなかったが、とても助かったのは紛れもない事実だ。
喜びを共有したい気持ちにお礼も兼ねて駆け寄ると、ラギー先輩はぽんぽんと自分のとなりの地面に手を弾く。失礼します、とお行儀良くとなりに腰掛けると、木陰になっていて眩しさが和らいだ。
「ねぇ聞いてください!」
「はいはい、聞いてますよ」
「実は、帰る方法が見つかったんです!」
わたしがとびきりの笑顔でそう言うと、ラギー先輩は一瞬面食らったような表情を浮かべた。しかしすぐに笑顔になり、わたしのことをがばっと抱き締めた。
「良かったっスね!やっと家族に会えるんスね!」
突然のことに驚きつつも、何だかくすぐったい気持ちになる。元の世界に帰りたいというわたしの気持ちを一番深く理解してくれていたのはラギー先輩だ。家族に会いたいと泣き言を零したあの日が懐かしい。
「春休みが終わる頃、帰るつもりなんです」
ようやくはしゃいだ気持ちが落ち着いたころ、わたしはそう打ち明けた。ラギー先輩は、寂しくなるっスねと静かに笑った。きっとグリムやエーデュースの二人に伝えれば、お別れパーティーでも企画してくれそうだ。そうなったら、トレイ先輩達がケーキ焼いてくれたりなんかして。そんな話を、眩しさに目を細めながらしていた。
「……最後の見送りは、オレが行ってもいいっスか」
「見送り?」
「そう。さっき言ってた鏡があるとこなんでしょ」
「はい!でも、結構深い森の中ですよ」
「それなら尚更着いて行くっスよ。危ないし」
非常にありがたいのは山々なのだが、申し訳なさが勝ってしまい、わたしは返事を濁した。そんなわたしにラギー先輩は肩をすくめ、気が変わったらいつでも言ってくれとだけ残し、授業へと戻った。強い春風が吹く。この景色も、もう見納めだ。
*
「名前がいなくなったんだゾ!!」
スプリングホリデーが終わるまであと一週間。そんなときに名前くんがいなくなったという知らせを聞いた。名前くんから元の世界へ戻るという話は皆にはまだ伝えていないと聞いていたため、オレは一人例の森へと向かった。心配性な彼女のことだ。大方下見にでも行っているのだろう。今朝、明日中に皆に元の世界へ戻ることを伝えると言っていたことだし。
異世界に行くことができるという鏡がある森は思っていたより深く、人の気配がしない。万が一奇襲を仕掛けられたらたまったもんじゃないなと一応周囲に気を配るも、オレは何事もなく鏡の元へ辿り着いた。
「名前くん?あれ、いないんスか?」
しかし、探し人の姿は見えず、声をあげるも返事はない。見当違いだったか?と辺りを見回していると、鏡の近くに点々と血痕があることに気がついた。その瞬間、最悪な想定が頭を過ぎった。いや、そんなわけない。ぶんぶんと頭を振り、血痕の続く方へと足を進めた。だんだんと血痕が多くなっていく。そして大きな血溜まりに辿り着いたところで、オレは絶句した。
「名前、くん……」
目の前に広がる光景は、数分前にオレが頭に浮かべたものとは正反対なものだった。頭から血を流し倒れている男の傍で、名前くんは真っ青な顔をして座り込んでいた。
「……ラギー先輩?」
オレの声に反応し顔をあげた彼女は目に大粒の涙を溜めていた。真っ白な服に血痕。近くには血の付いた手の平サイズの石。何が起きたかなど、一目瞭然だった。
「……埋めちゃえば分かんないっスよ」
「なに、言って、」
そう言った名前くんの声は震えていた。
「レオナさんのユニーク魔法なら完璧だったんスけどね」
「先輩、ラギー先輩、」
「大丈夫」
この状況でオレがすることなど、たった一つだ。オレは不安と疑念が入り交じったような視線を向けてくる彼女の頭をぽんぽんと優しく撫ぜる。大丈夫。これで、共犯だ。
*
元の世界へ戻る予定の一週間前、皆に伝える前にもう一度あの鏡を確認しておこうと思い、わたしは一人森へ向かった。それがいけなかった。
わたしを付け狙っていたのか、鏡を狙っていたのか、それとも他に理由があったのか定かではない。突然現れた男はわたしに襲いかかってきた。魔法が使えるらしい男と使えないわたし。圧倒的に不利な状況であることは明白だった。
「……やらないと、殺られる」
そこからのことは正直よく覚えていない。死にたくない。元の世界に戻れないまま死ぬなんてごめんだ。そんな思いだけで無我夢中に男を石で殴った。
正気に戻ったのは地に伏した男が一ミリも動かなくなったときだった。とんでもない事をしてしまった。手に付いた自分のものではない血。背筋に流れる嫌な汗。このまま誰にも言わずに帰ってしまえば、全てなかったことに出来るのではないか。そんな下劣な考えまで巡って、泣くことしか出来なかった。
そこに救世主のごとく現れたのはラギー先輩だった。ラギー先輩は周りを見ただけで状況を把握したようで、わたしが黙り込んでいるにも関わらず、聞き出すようなことはしなかった。それどころか、わたしを安心させるかのように優しく笑った。大丈夫、と。
それから一週間経った。わたしはまだ捻れた世界にいた。ラギー先輩は帰るべきだと言ったが、あんなことがあったというのに自分一人だけ逃げるような真似は出来なかった。二人で穴を掘って埋めたこと、あれは犯罪だ。共犯だ。だというのに、ラギー先輩は普段と何ら変わらず、いつも通り飄々としていた。わたしだけが、どこかおかしい。
「どうしたんだ、名前。森で迷ってから変じゃないか?」
「ずっ〜とぼんやりしてるんだゾ」
「なに、森でお化けでも見たわけ?」
いつもの三人から見てもわたしは相当おかしいらしい。茶化しながらも心配の色を滲ませるエースになんでもないよ、と誤魔化すが当然ながら信じてはもらえない。森で何があったのか、そもそもなんであんなところへ行っていたのか、と痛いところをつく質問が飛び交う。本当のことを言ってしまったらどうなるのだろう。楽になれるのだろうか。
「……そのことなんだけど、」
「あっ、いたいた!名前くん探したんスよ〜!」
「ら、ラギー先輩?」
「あとでちょっと来てって言ったでしょ!忘れたんスか〜?」
「あ、えっと……」
「ほら、早く早く!」
話を切り出そうとした矢先、タイミングが良いのか悪いのか、ラギー先輩がわたしの名を呼んだ。身に覚えのない約束で呼び出されるわたしに、グリム、エース、デュースの三人が「怪しい」という目線を送ってくるも、ラギー先輩はお構い無しでずんずん進んで行く。人気のないところまでやってくると、先輩はわたしの額を指でパチンと弾いた。
「痛っ!?」
「名前くん、あのことは二人だけの秘密にするって言ったはずっスよ」
「え、あ、その……」
「大丈夫。どうせ時間が経てば聞かれなくなるから。今は我慢っス」
「でも、わたし、」
「言い訳なら考えてあげる。オレたち、共犯でしょ」
「きょう、はん……」
「共犯」という言葉にわたしは何も言えなくなってしまった。わたしがラギー先輩を巻き込んでしまった。わたしだけの問題ではなくなってしまった。最悪、わたしは元の世界へ戻ってしまえば何も無かったことに出来てしまう。しかし、ラギー先輩は罪を背負って生きていかなければいけない。わたしがラギー先輩の今までの努力を踏みにじってしまうのだ。そんなこと、出来るはずがなかった。
わたしは罪を背負って、この世界で生きていくしかない。だけどそれは、皆に嘘をつき続けなければいけないということだ。本当のことを話せるのはラギー先輩だけ。嘘をつかずに生きていけるのは、ラギー先輩の隣でだけ。
「大丈夫。オレがいるっスよ、名前くん」
その甘美な一言で、わたしはまた嘘をつくことを決意してしまうのだ。