日本に戻って来てひと月。
あと数日でお盆を迎えようとしている関東地方は、連日の暑さが続いていた。
ギリシャ・聖域も暑かったけど、日本のこのジメッとした蒸し暑さとは暑さの質が違うと言うか、同じ『暑い』でも、これ程に不快感は感じない。
そんな毎日の中、暑さで寝苦しい夜が続いてはいたが、それでも、私は毎晩しっかりと睡眠を取れていた。


おかしいの。
アイオリアと離れてしまえば、きっと寂しさに眠れぬ夜が続くのだと思っていたのに。
現実は、忙しい毎日に追われて、疲れ果ててバッタリと寝てしまい、眠れない夜など一度もなかった。
こうして私の中で記憶は薄れ、彼との事もいつか良い思い出に変わっていくのだろう。
それが私の選んだ未来、望んだ未来だったけれど、心の奥深くには否定出来ない寂しさが確かにあった。


そうだ。
聖域に行く前の私は、アイオリアに出逢う前の私は、この毎日に満足していた。
とても充実していると思っていた筈。
この小さなパン屋で、父の作った美味しいパンを販売して、忙しく働く毎日が。
お客さんとの遣り取り、「美味しい。」の一言に幸せを感じたり。
辛い時もあるけど、その分、嬉しい事があった時は、とてもとても楽しくて。
父と母と三人で、ずっとココで、このお店を続けていきたいと、そう思っていたのに。


だけど、今は何もかもが味気ない。
アイオリアがいない、ただそれだけで、自分の世界の全てが空虚だった。
この仕事も、以前のようには楽しいと思えなくなってる自分がいる。
彼のいない人生が、こんなにもつまらないものだったなんて、私は知らなかった。


お客さんが途切れる狭間の時間帯。
私は新たに焼き上がったパンを並べながら、小さく溜息を吐いた。
帰って来てからというもの、明らかに溜息の数が増えている。
駄目な私。
自分で選んだ人生の筈なのに、寂しさを感じたり、味気ないと思ったり。
いつまでも引き摺ったまま前に進もうとしない自分勝手な心に対して、苦笑いを浮かべる。


――カランカラン……。


「いらっしゃいま、――っ?!」


ドアの開いた音に反射的に営業スマイルを浮かべて振り返った私は、だが、そこにいた人の顔を見て、一瞬で凍り付いた。


「浅海……。」
「嘘……。アイオリア……、どうして……?」


貴方がココにいるの?
まさか今頃になって、私を追い駆けて来たというの?
でも、駄目よ。
例え、貴方が連れ戻しに来たのだとしても、私はココを離れられない。
父と母を置いては、何処にも行けない。


「許可が下りたんだ。だから、ココへ来た。浅海に逢いに、キミを迎えに。」
「……え?」
「以前から話はあった。日本にいる事の多いアテナが聖域を離れる度に、スケジュールを調節して黄金聖闘士の誰かが護衛に当たるは如何なものか、とな。だから、誰か一人、日本に常駐するのはどうだろうかとの議論をしていたんだ。」
「それを……、アイオリアが?」


引き受けたと言うの?
自分が育ったギリシャの……、聖域の地を離れてまで?


「あぁ、自分から進んで日本に来る事を希望した。俺は日本に残っている青銅の連中とも仲は良いし、彼等の修練にも指南をする者が必要だろう? それに俺さえ日本にいれば、浅海とずっと一緒に過ごせる。」


そう言って、アイオリアはにこやかに笑った。
まるで、あの一ヶ月前の辛い別れなどなかったかのように、優しくて暖かな笑顔。
アイオリアを置き去りにして、勝手に出て行ってしまった、日本に帰ってしまった私を恨む事もなく。
ただ私を愛しているのだと、その想いだけを乗せた笑顔だった。


「城戸邸の敷地の一角に、昔、執事の一家が住んでいたとかいう一戸建てがあるんだ。そこに住まわせて貰う事になった。流石にアテナの住む屋敷の中に厄介になるのは、ちょっと微妙だしな。」


入口の前に立っていたアイオリアは、ゆっくりと足を進めて、離れたところに立ち尽くしたままの私へと近付いて来た。
程なくして目の前まで来た彼は、一ヶ月前と全く変わらない澄んだエメラルドの瞳で、ジッと私の事を見つめて。
伸ばした大きな手の平で、私の頬をフワリと包む。


「そこならば、浅海も問題ないだろう? いつでも両親に会いに来れる距離だし、このまま、この店で働く事だって十分に可能だ。何なら毎日、俺が浅海を抱いて、ココまで走って連れてきても良いぞ。」
「アイオリアったら……。」


これが彼の選んだ結論。
住み慣れた土地や兄弟、仲間と離れてまでも、私と共にいる事を選び、日本で暮らす事を決意した。
その思いに、私はもう『ノー』とは言えない。


「良さそうな人じゃないか、浅海。」
「ずっと心配してたのよ。帰ってきてからというもの、ずっと貴女の元気がなかったから。でも、彼が来たなら、浅海にも元の笑顔が戻るわね。」
「お父さん……、お母さん……?」


二人きりだと思っていた店内に、いつ間にか父と母がバックヤードから出てきていた。
優しい笑顔で私とアイオリアを交互に眺める二人の姿を見た瞬間、別れのあの時に一生分を流し尽くしたと思っていた涙が、再び私の頬を伝う。


「浅海。私達はなにも、お前に老後の面倒をみて貰おうと思って養女にした訳じゃない。本当の娘だと思い、今日まで過ごしてきた。親というのはな、娘の幸せな姿を見るのが、何より嬉しいんだ。」
「貴女が自分で選んだ人と幸せになる事が、私達の幸せでもあるのよ。ね、浅海。」
「お父さん、お母さん……。」


私の顔は溢れる涙でグチャグチャになっていた。
そんな顔を両親に見られるのが恥ずかしくて、でも、涙は止まりそうにもなくて。
仕方なく、私は両手で顔を覆って零れる涙を受け止める。
そんな私の肩を、アイオリアの腕が強く引き寄せた。


「愛してる、浅海。もう、この手は離さん。」
「私も……。私も愛してるわ、アイオリア……。」


ギュッと力強く握り締められる手。
伝わる熱、誰よりも深い想い。
もう二度と、この手を離したくはないの。


だから――。


幸せになれなかった姉さんとアイオロスさんの分まで、私達は手と手を取り合って生きていこう。
青い空の下、吹き抜ける金色(コンジキ)の風に包まれて。
自然と引き寄せ合った唇に、変わらぬ愛の誓いを籠めて、アイオリアと私は長く甘い誓いのキスを交わした。



‐end‐


→後書き


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