prologue



 数は多くなくとも、人並みに恋愛経験はあった。

 それらは結局、気持ちが醒めたとか学校や職場が離ればなれになったとか、そんな陳腐な理由で破局という形を迎えてしまったけれど。
 それでも、甘く煌めいた青春時代として、私の中に深く刻み込まれている。



 中学、高校、大学、そして社会人。
 その過程でたくさん恋をした。
 幼い私を成長させてくれた恋だってあった。

 色褪せない記憶。
 甘酸っぱい思い出。

 まるで子供のおままごとのようだと笑われても、所詮『恋愛ごっこ』だと馬鹿にされても、あの頃胸に抱いていたあの感情は、間違いなく恋だった。





 なら───


 今、私が彼に向けているこの感情は、何だと言えるのだろう。











「……っあ……、」

 熱い中心から溢れ出した蜜が、内股を伝って滴り落ちた。
 ぽたり、白いシーツに染みを作る。
 充分すぎる程に愛液でまみれた秘所の奥を、彼の細い指がまさぐり、掻き乱していく。

 室内に響き渡る、淫らに湿った音。
 わざと音を立てられている感覚に、羞恥心を煽られる。
 気持ちとは裏腹に、熱に浮かされたこの身体は彼だけを欲しているのだと、嫌でも思い知らされた。

「……どんな気分?」
「……っ」
「大嫌いな奴に抱かれる心境は」

 投げやりに口にされた言葉。
 心が、絶望に染まる。


 ───ちがう。


「……嫌い、じゃ……ない」
「………」
「……きらいじゃ、ない」

 それだけを口にするのがやっと、だなんて。

「───……ほんと、あんたはズルい」

 屈折させていた指を引き抜いて、彼の腰が私の中に沈む。

「……あ、あっ───……!」

 唐突に訪れた圧迫感に息が詰まる。
 心の準備もないままに下半身を襲った痛みは、すぐに快感へと成り変わった。
 息をつく暇もない程の激しい律動に揺さぶられ、脳も身体も、心までドロドロに溶かされていく。



 ………心を寄り添えないまま、こうして身体を重ねるのは何度目だろう。

 彼とどうなりたいとか想いを伝えたいとか、そんな純粋で真っ直ぐな感情はとうに失くしてしまった。
 ただ綺麗なままでいられた、数ヵ月前の自分に今更戻れる訳もなく、あらゆる意味で空っぽになってしまった自分を自覚しながら、それでも私は彼に向かって貪欲なまでに手を伸ばす。

 愛されたいから。
 現実から目を背けたいから。
 この時間だけは、偽善で塗り固められた自分の殻から抜け出せるから。

 こんなの、恋とは言えない。
 彼が私に向けるこの激情も、きっと恋ではない。

「───俺は」

 動きを緩めた彼の手が、汗でしっとりと濡れた私の額に触れた。

「あんたの素顔が見たかった」

 濡れた前髪を優しく掻き分ける指先が、頬へと滑っていく。

「……やっと、見れた……」

 心の底から満足そうに、彼は微笑んだ。
 愛おしげな瞳で見下ろされて、胸の中に甘やかなものが広がっていく。

 でもこれは、恋じゃない。
 恋と呼ぶにはあまりにも、私達の関係は歪みすぎている。

「あんたのこと笑わせんのも、楽しませるのも、悦ばせてあげられるのも、俺だけがいい」

 愛と呼ぶにはあまりにも、彼の言葉は重すぎて。

「……あんたのこと泣かせんのも、ボロボロになるまで傷つけるのも、壊すのも」
「………」
「───俺だけでいい」





 これが狂愛なんだとしたら、今まで私が経験してきた恋愛は、なんて安っぽいものだったんだろう。
 本当に綺麗な部分だけを切り取って、その部分しか見ずに楽しんでいた、浅はかな自分。
 本気でもなく、全力でもない。
 恋をしているその瞬間が楽しければそれでいい、そう思っていたから。

 繰り返される律動が再び激しさを増して、快感しか捉えられなくなる。
 飛びそうになる意識を必死に繋ぎ止めて、声が枯れるまで嬌声を上げ続ける傍らで、思う。

 ………ああ、もうダメかな。

 認めるしかないのかもしれない。
 私はこの先、この人なしでは生きていけないと思えるところまできてしまった。
 何度も傷つけられて、愛されて。
 深い深いところまで刻み込まれた痛みは、もう一生、消えることはない。



 執着にも似た彼の激情を受けながら、いつかの日を思い出す。

 あの日。
 平穏だった私の日常が終わりを告げた。

 全ての歯車が狂いだした、運命の日。
 彼の告白によって壊された───あの日の記憶を。

mae|表紙tugi

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