幼き日々1 もかと郁也の喧嘩は、9割方、内容がない。 「んあ!?」 女の子のものとは思えないような、酷い悲鳴が傍から聞こえてきて顔を上げる。 ダイニングテーブルで勉強している俺の傍らでは、冷蔵庫の中に頭を突っ込んでいる、もかの姿があった。 寒気が増してきた11月、暑いから頭を突っ込んでいる訳ではなさそうだし、何やってるんだろう。 もかはたまに、理解に苦しむ行動を突発的にすることがあるから、ちょっと心配になる。 どう声を掛けようか悩んでいたら、冷蔵庫と一体化してる本人は、今度は突然喚きだした。 「私のプリンがまた無いんだけど! 郁兄!」 名を呼ばれた本人は、悠々とソファーにくつろいでスマホをいじっている。 「食った」 「なんで食べるのー!」 「うまかった」 「感想なんて聞いてないから!」 そこでやっと顔を出したもかは、恨みがましい目線を郁也に向けた。 その目には若干、悔し涙が滲んでいる。 「代わりのやつ買っておいてやっただろ」 「『おいてやった』って何! なにその上から目線腹立つ! しかもこれ焼きプリンだし!」 まるで野犬の如く噛みつくもかと、それを郁也があっさり流していくのが、この2人の喧嘩スタイルだ。 互いにプリンが大好物な2人は、幼い頃からいつも取り合いっこして、こうして口喧嘩を繰り返している。この光景も、もう何度も目にしてきた。 プリンひとつで、そこまで何度も喧嘩できるものなのかと、ある意味感心する。 平和ってことなのかも。 「焼きプリン作った奴は天才だよな。なんでプリン焼こうとか思い付いたんだよ。ひねくれすぎだろ」 「あのぷるぷるした感触と柔らかな舌触りとカラメルのほろ苦さが絶妙にマッチした奇跡の逸品を焼くだなんて!!! 邪道!!!!!」 息継ぎもせず一気に捲し立てる。 すごい早口だった。 その後も口喧嘩を繰り返した結果、「うるさい」との一言でもかの主張を切り捨てた郁也は、そのままリビングを出て行ってしまった。 食べ物の恨みが発端で幕を切って落とされた戦いは、相手の戦放棄という形で終止符が打たれたようだ。 けれどまあ、明日になれば、喧嘩したことなんてお互いに忘れているんだろう。 いつもそうだから。 2人の口喧嘩はもう日常茶飯事だけど、この喧嘩自体には、あまり意味がない。 何故なら次の日、下手をすれば数時間後には、喧嘩の内容なんて2人とも綺麗さっぱり忘れているからだ。 事態が落ち着いた頃を見計らって、喧嘩までに至った原因を2人に訊いてみても、 「なんだっけ?」 と、互いに首を傾げる始末。 毎度、こんな感じだ。 あれだけ散々騒いでおいて、あっけなく忘れられるというのも、ある意味幸せな事かもしれない。 喧嘩するほど仲がいいなんて言葉は、この2人の為にあるようなものだ。 これがもかと郁也の、スキンシップの取り方なんだろうとは思うけど。 「……そんなにショックなの?」 郁也がいなくなった事で怒りの矛先を失ったもかは、煮え切らない感情を持て余したまま、すごすごとダイニングテーブルについた。 俺と向かい合う形に座って、テーブルに顔を突っ伏してる。 完全にぶーたれていた。 「奴はプリンを侮辱した。万死に値する」 「はいはい」 もうプリンを食べられたことに怒っているのか、焼きプリンの存在に怒っているのかどっちなのか。両方なのかな。 苦笑しつつ、柔らかな髪を撫でる。 「コンビニに行こうと思ってたから、ついでにもかのプリン、買ってくるよ」 「ほんとっ?」 俺の申し出に、もかの顔が上がる。 むくれていた表情は一変して、ぱあっと眩しい笑顔が広がった。 嬉しさを滲ませた目はきらきらと、期待感に満ち溢れた光を放ち始める。 可愛いなあと内心思いつつも、それは口に出さないでおいた。 「……あれ、雨だ」 玄関の扉を開けた時、突如、冷たい空気が室内に入り込んだ。 ぽつぽつと雨音が鳴り響く。 家の中にいた時は気付かなかったけれど、アスファルトには水溜りが転々と出来上がっていた。 結構前から降っていたのかもしれない。 「……雨、降ってるの?」 傘を引っ張り出した時と、背後から声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。 振り向けば、手にスマホを握ったまま立ち尽くしているもかがいる。 さっきまでのキラキラした笑顔ではなく、不安げに表情を曇らせて、俺を見つめていた。 もかは雨が嫌いだ。 雨が降っているというだけで、気分が落ちるだけじゃなく、体調まで異変を訴える。それは頭痛だったり、胃痛だったり、その日によって様々だ。 高校に進学してからは部活に没頭する日が続き、意識がバスケに注がれていたお陰か、状態は改善したかのように見えた。 けれど部活を引退した今、また症状が出始めている。 仕方ないのかもしれない。 もかの、雨天時の体調不良は全て、精神的なトラウマからきてるものだ。 どうしても思い出してしまうんだろう。 両親を事故で亡くした日も、雨が降っていた。 「私も、一緒に行く?」 「大丈夫だよ、すぐ近くだから」 マンションから出て角を曲がった先にコンビニがある。距離として5分もかからない。 それはもかも知ってるはずだけど、曇りがちな表情は消えない。 「急いで帰ってくるから」 安心させたくてそう告げてみるけれど、どうやらこの気遣いは裏目に出たようだ。 もかの瞳は不安の色が濃く滲み出ていた。 「ゆっくりでいいよ」 「……そう?」 「事故にあったら、大変だから」 その一言が、重い鎖のように圧し掛かる。 「車、気をつけてね」 「うん」 力なく手を振るそれに応えてから部屋を出た。 傘を広げて、人気の無い通路を歩いていく。 夕方前だというのに周辺は薄暗く、視界が悪い。 ゆっくりでいいと言われた、その言葉の重みは誰よりもわかっているつもりだから、言われた通り、ゆっくりと歩を進めていく。 けれど心配させたまま待たせるのも嫌だから、やっぱり少しだけ、早歩き。 雨の降り方自体は、然程酷くはない。 けれど頭上を覆う雨雲は空の果てまで広がっていて、1日中降り続きそうな雰囲気を纏っている。 見るだけで鬱になりそうな、不安を伴う天候だった。雷雨になるかもしれない。 こういう雨の降り方は、嫌でもあの日の事を思い出してしまう。 もかだけじゃない。俺も、郁也も、俺達の両親にとっても一生忘れられない日。 みんながみんな、心に傷を負った、あの悲しい日のことを。 ・・・ 12年前。 その日も1日中、酷い雨が降り続けていた。 止む事もなく、延々と。 それが、事故の引き金になった。 「……もかちゃん」 集中治療室から個室病棟に移されたもかに会いに、郁也と、母親と一緒に病院へ向かった。 病室には看護婦の姿が2人いる。 もかは上半身を起こした状態で、ベッドにいた。 もかの名前を呼ぶ母親の後ろ姿は、悲壮感が漂っている。 当時、まだ小学校に上がったばかりの俺と、小3だった郁也は、事の重大さをはっきりと認識できないまま母親に連れてこられて、いとこのもかと再会した。 ―――もかの姿を目のあたりにした俺達は、言葉を失った。 「おばさん……っ」 顔を合わせた直後、もかの目に涙が溢れ出した。 「お、おかあさんと、おとうさん、が……っ」 「………っ」 「……っう、うわああぁん」 突然泣き出したもかを、母親は思い切り抱きしめた。小さな背中を、母の手が何度も何度も行き来する。 その母親の肩も少し震えていて、泣いているのだと後ろ背を見てわかった。 俺も、郁也も何も言えないまま、ただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。 目の前の残酷な現実を受け止めるには、俺達はまだ幼すぎた。 雨が窓を叩きつける音が耳をつんざく。 包帯を頭に巻かれ、顔も、体中すり傷だらけになったもかの、悲鳴に近い泣き声だけが、病室の中に虚しく響いていた。 ・・・ 小学校の近くで、土砂崩れが起きた。 昨晩から降り続けていた雨のせいで地盤が緩み、水分を含んだ土が一気に崩れ落ち、通行人を襲った。 その通行人の中には、学校帰りだったもかと、迎えに来ていたもかの両親も含まれていた。 すぐに救助隊が派遣されたものの、降り続ける雨は一向に止む気配がなく、二次災害が起きる可能性が高いという理由から、捜索は思うように進まない状態が続いた。 生き埋めになった人々を全員救出できたのは、事故が起こってから12時間が経った後。 もか達も一緒に救出され、すぐに救急車で搬送された。 この事故に巻き込まれた人は6名。 軽傷者が1名、重傷が3名。 そのうち死者が、2名。 もかの両親だった。 「……郁也。春樹も、今からお母さんが話すこと、よく聞いてね」 散々泣いて、泣き続けて、泣き疲れてしまったもかが寝入った頃には、外は既に真っ暗になっていた。 ずっともかに付き添っていた母親は、病室を出た後、俺と郁也の目線に並ぶようにしゃがみこんで、俺達の肩に手を置いた。 母親の目も、もかに負けないぐらい真っ赤に染まっている。 それはそうだ。 もかだけじゃない、母親にとっても、大事な人を失ったのだから。 「お父さんとお話したんだけどね。もかちゃん、うちで引き取ろうと思うの」 突然の提案に目を丸くする。 郁也と2人、顔を見合わせた。 もかの家族は3人暮らし。 両親がいなくなった今、もかの引き取り先をどうするか、親戚同士の間で話し合いが済んでいたみたいだ。 父の姿はこの場にいない。 この事故で重症を負った、他の患者の手当てに掛かりっきりだった。 「もかちゃん、まだあんな状態だから、何日か入院しなくちゃいけないけど」 「………」 「もかちゃんがお家に来たら、家族として迎えてあげてね」 もかを、家族として。 迷うことなく頷いた俺達を見て、母は表情を緩ませた。 「郁也はお兄ちゃんだから、もかちゃんのこと、ちゃんと面倒見てあげてね」 「うん」 「春樹も、もかちゃんのこと、ちゃんと守ってあげるんだよ」 「………守、る」 その言葉が、鮮明に脳裏に刻まれた。 どうやって、とか。 何から、なんて考えは浮かばなかった。 もかを守る。 漠然と、使命感のようなものを感じた。 あの女の子は俺がずっと守るんだって、どこか正義感にも似た強い意思が、その時になって初めて生まれた。 父にやっと会えた時も、この話をした。 その際に、事故当日のことも教えてくれた。 母は始終、複雑な表情を浮かべていたけれど、結局何も言わなかった。 俺達はまだ幼いのだから、事故の詳細など子供に聞かせなくても、そんな思いがあったのだろう。 けれど、もかを家族として受け入れる以上は事実を知っておいた方がいい、そう父は厳しく言い放った。 家族の一員として受け入れると決めたもかを、腫れ物のように扱う事だけはしたくなかったのだと思う。 父親から聞かされたのは――― 正直、子供の俺達でも耳を塞ぎたくなる様な、辛い内容だった。 トップページ |