やきもち1


 空気の冷え込みが増してきた、11月。
 午後20時30分。
 桐谷家のリビングにて、私は郁兄に絶賛怒られ中です。

「どういうことだよ」
「いやー、なんでだろ」
「なんでだろ、じゃねーよ。それはこっちの台詞だわ」

 ソファーのド真ん中にどーんと居座っている郁兄の前で、ちょこんと床に正座している私。
 奴は悠然とした態度でくつろぎ、下僕の私を冷ややかな目で見下ろしていた。
 優雅に足とか組んじゃってる奴の背後には、煌びやかなマットが見える。
 頭には王冠。
 左手には中身の入ったワイングラス。
 もちろん全部私の幻覚だけど、奴の態度のでかさと偉そうにふんぞり返っている様が、この文面からお分かりいただけたかと思います。

 大体、なにこの構図。おかしくない?
 なんで私、郁兄にひれ伏せてるの。
 郁兄は何様なの。俺様なの?

 しかし嘆く気持ちはあっても、それが言葉として出てこない。怖いから。

 床にお座りしている私の手元には、柔軟剤と食器用洗剤がそれぞれ1つずつ置いてある。
 この2つが今、このような事態に陥っている要因だったりする。

「普通、柔軟剤と食器用洗剤間違えないだろーが。洗濯洗剤ならともかく」
「………」

 要約いたします。
 スポンジに柔軟剤つけてお皿洗っちゃいました。

「台所に食器用洗剤置いてあるだろうが。なんで洗濯機の方に行ったんだよ。洗濯機に食器用洗剤が置いてあると思ったのかよ。しかもこれ柔軟剤だし」
「………」
「そしてなんで柔軟剤で皿洗ってんだよ。どんだけふわっふわにしたいんだよ」
「ぶはっ」

 思わず噴きだした。

「笑い事じゃねーから」
「だって今の面白かった」
「面白くねーから」

 私が笑ったのが気に入らなかったのか、奴の眉間に思いっきり皺が寄った。
 私の鼻を摘まみ、むぎゅーってしてくる。
 それはもう、有り余る力で、力の限り、むぎゅーって。
 上に引っ張られる私のお鼻が悲鳴を上げている。

「やー! 鼻フックはやめて!」
「反省したか」
「しました!」
「よし」

 ぱっと手を離された。
 鼻フックされる前に解放されたとはいえ、容赦ない力で引っ張られた私のお鼻は、じんじんと鈍い痛みを訴えてくる。
 手でさすれば、若干、熱を持ち始めていた。

「……もか、大丈夫?」

 傍らで、事の成り行きを見守っていた春が、私の元に駆け寄ってくる。

「鼻と眉間がイタイ」
「うん、痛そうだった」
「鼻、変形してない? とんがってない?」
「大丈夫、元からとんがってるから」

 む。それもそうか。

「……郁也じゃないけどさ、なんで、こんな悪質なことしたの?」
「わざとじゃないし!」

 がう、と春にも噛み付く私。

 本当に、自分でもわからないのだ。なぜ食器洗剤を使おうとして柔軟剤を手にとってしまったのか。
 多分ボンヤリしてたんだと思うけど、それにしたってこんな惚け方あるだろうか。酷すぎる。
 もしかしたら寝不足のせいかもしれない。
 夜中の3時まで、おっさんを育てるアプリのゲームに勤しんでいたのが悪かったのかな。若干、眠いし。

 でもこのおっさん、ちゃんと育てないと頭が禿げちゃうんだよね。
 禿げたらゲームオーバーになっちゃうんだよね。
 おっさんの命(毛根)は今、私の手に託されているのだ。




 春は今、受験生シーズン真っ只中。
 学校でも家でも、ずっと机に向かってる。

 受験先が医大となれば、生半可な学習量では合格だって難しい。学力テストが終わっても、「解放感が全然ない」なんてボヤきながら、受験対策用のプリントや参考書と毎日睨めっこしてる。大変そうだ。
 でも春は、うちの高校でもトップクラスの成績優秀者だ。先生方にも期待されてるし、気さえ抜かなければ大丈夫なんじゃないかな。
 なんて安易に思ってしまうのは、私が受験生じゃないからかもしれない。
 成績がいいから大丈夫、なんて言えるほど甘い話じゃないんだろうな。今の春を見てたらわかる。

 ちなみに担任教師に「私が医大に合格する可能性はありますか」って訊いてみたら、途端に先生の空気が氷点下に変わった。

「お前はまず六の段を言える様になれ。話はそれからだ」

 とも言われた。
 失礼すぎない? 六の段くらい言えるし。
 七の段は怪しいけど。

 就活組の私はといえば、実は、既に地元の会社から内定を貰っている。
 もう就職先を探す必要もないわけで、みんながやれ受験だの、やれ就活だのとあせくせしている様を、優雅に高みの見物してたりする。
 採用が決まっているのは、私を含めてまだほんの数名しかいない。
 就職難は昔の話かと思っていたけれど、まだ健在なのかもしれない。

 部活を引退後は、地元のコンビニでバイトをしながら、いずれ家を出る為に貯蓄している。
 3月までびっちりシフトも入れてもらってるし、がっつり稼がせてもらいます。

 しかし稼ぐ前に、私には、まずやらなければならないことがある。

「お皿、洗い直してきまーす……」

 食器用洗剤と柔軟剤を手に取って、トボトボとキッチンへ向かう。
 折角洗ったのに、また洗う羽目になるなんて。自業自得とはいえ、2度手間になってしまった私の悲壮感といったらない。へこむ。
 はあ、と溜め息をつきながら、柔軟剤を洗濯機の棚に戻した。

 今度こそ間違いなく、食器洗剤を手に取る。
 スポンジに泡をつけて皿をキュッキュしてた時、誰かがキッチンに入ってくる気配を感じて振り返った。

「手伝うよ」

 袖を捲くりながら、春は私の隣に並んだ。

「いいの? 勉強は?」
「ちょっと休憩」

 布きんを手にとって、皿を拭き始める。
 これって休憩になるのかな? そう思いつつ隣を見れば、目が合った春は照れくさそうに笑ってた。
 休憩、と言ったその言葉の本当の意図を悟って、キュンと胸が高鳴る。
 さっきまで憂鬱だった気分が一気に浮上して、我ながら単純だなあ、なんて思ったりして。

 私だって、春と2人きりになりたかった。
 だから、彼のお申し出を素直に受け取っておくことにした。
 


 春と想いを確かめ合ってから、1ヶ月。
 交際は高校卒業してから、と2人で決めたから、今は普通の家族のような間柄に戻っている。
 でも仲がぎこちなくなったりはしていない。
 私達はやっぱり、私達のままだ。



 春とは、ずっと体だけで繋がっているような関係だった。
 もちろん家族としての繋がりもあったけれど、その裏で、誠実とは言えない関係を2年も続けてきた。互いの想いも確認せずに。
 もっと早く、自分の想いを打ち明けていればよかったなって、今なら思う。

 春の受験が終わって、私達が無事に高校卒業したら、今度こそ彼氏と彼女としてちゃんと付き合おう。
 そう決めて、私達はこれまでの関係を断ち切った。
 だからもう、互いの部屋を行き来したところで、何も起きたりしない。
 抱き合ったりもしない。
 キスもしない。
 ………今のところは。

 別に、触れ合うのをやめようとか話し合った訳じゃない。
 ダラダラと関係を続けるのをやめて、お互い、もっとしっかりしようって決めたせいなのか、家の中でそういう気分を抱けなくなってしまった。
 むしろ、どうして今まで平気だったんだろうと思ってしまうくらい。
 桐谷のみんなに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「あ。もか、聞いた?」
「なにを?」
「父さんと母さん、年末に帰国できなくなったんだって」
「え、そうなの?」
「うん」

 そうなんだ。
 ちょっと気落ちしてしまう。

 海外で医療ボランティア活動をしているご両親のことを、春はとても尊敬している。
 私も2人のことは大好きで、向こうで頑張ってほしいとは思っていても、会えたらやっぱり嬉しくて、帰ってくるのを心待にしてた。
 だから、残念な気持ちが大きい。
 今年のお正月は、一緒に過ごせると思ってたんだけどな。

 でも、残念なのはそれだけじゃない。
 帰国が延期になるのはよくある話で慣れっこだけど、今回はちょっと事情が違う。

「高校卒業したら……って話、年末に話すのは無理そうだね」

 春の一言に、うん、と頷く。

 私達はただのクラスメイトじゃない。
 ご近所の幼馴染みでもない。
 同じ屋根の下で暮らしている、いとこ同士だ。
 だから、ご両親にちゃんと話しておきたいんだ。卒業したら、交際を望んでいること。
 ちゃんと、家族から許可を貰いたい。

「あ、でも2月は確実に帰ってこれるらしいよ」
「ほんと?」
「うん。一時帰国だけど、4月までは家にいるみたいだから」
「じゃあ、その時だね」
「うん」

 お互いに頷き合う。
 いつ話すかとか、どうやってご両親に告げようかとか、春とこうして話し合うのは何度目だろう。
 まだ先の話とはいえ、考えるだけで緊張する。ある程度の心構えが必要だ。
 反対される可能性だってあるし、というか、もし反対されたらどうしたらいいんだろう。
 春は大丈夫だって言ってるけど、私は不安でいっぱいだ。

 やっぱり、先に郁兄と相談した方がいいんじゃないのかな。

「郁也に?」

 あれ。声に出てたっぽい。

「あ、うん」
「気付かれてるっぽい気もするけどね」
「うん、それは私も思ってる」

 前に、いとこ同士で交際できるだの結婚できるだの、春のことで悩んでいた私にそう告げてきた郁兄の様子を思い浮かべてみる。
 私が春のこと好きだって、郁兄は絶対気付いてる。気付いてなきゃ、あんなこと言わないよね。

 あれ以来、郁兄とこの話はしていない。
 郁兄は何も言わないし、私もなんとなく、この話題を避けてきた。
 でも、いくらバレていそうだからって、黙ったまま曖昧に流すのはダメだよね。
 ちゃんと自分の口から伝えたい気持ちもあるし、事前に郁兄に話しておいた方が、ご両親に打ち明ける時もすんなり話せそうな気がする。

「……もかは」

 そこで春が何かを言おうと口を開いたから、考えるのをやめた。

「なに?」
「郁也を、頼りにしてるんだね」
「? うん」
「ふうん」
「……?」

 急になんだ?

「え、何?」
「なんでもないよ」
「でも今、変な間があったよ」
「ちょっと羨ましいなって思っただけ。皿、これで終わり?」
「へ、あ、うん。おわり」
「じゃあ棚に戻したら部屋戻るね」
「うん」

 拭き終わった食器をさくさく片付けていく春の様子は、普段と何も変わらない
 だけど私は、水周りを布きんで拭いていく傍ら、妙な違和感を覚えていた。

 春はいたって普通なんだけど、なんか変。
 微妙に棘があったような返事だった。

 ……気のせいかな?

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