彼女の秘密 『言ったらお前、不安定になるだろ』 村瀬が放ったあの言葉に、心を掻き乱された。それは翌日になっても変わらず、その一言が頭の中をぐるぐると巡っている。 俺がどういう時に不安定になるのか、村瀬がそれを知っていなければあんな台詞は出てこない。それはイコール、アイツが俺の気持ちに気づいていることを意味してる。 村瀬は洞察力が鋭い上に、その場の空気を読むのも上手い。人の機嫌や感情にも敏感だ。だから俺が必死に隠していた想いを既に見抜いていてもおかしくない───そう悟った時、目の前の景色がグニャリと歪んだ気がした。 培ってきた信頼や関係、全てがガラガラと崩れていくような錯覚。そこで思った。もう今まで通り接することはできないかもしれない、と。 けれど予想に反して、村瀬の態度は翌日も変わらなかった。挨拶も会話も違和感なくできているし、俺を軽蔑したり避けたりするような様子もない。俺が一番恐れていた事態が実際に起こることはなく、何事もなく平穏な日常を過ごしている。 けれど多分、村瀬は俺の気持ちに気付いてる。 なのに拒絶することもなく隣で笑ってくれているのは、俺の気持ちを受け入れてくれたから、ではない筈だ。 だから余計にわからない。どうして何も言わないのか、どうして拒絶しないのか。気持ち悪く、ならないのか。側にいられるという安堵よりも疑心暗鬼の方が強くなってしまって、逆に俺の方が村瀬を避けてしまっていた。 そんな日々が続いて1週間が経った頃。 MD課のオフィス前を通った際、聞き覚えのある声が聞こえてきて足が止まる。自然とそちら側に視線が向いていた。 「橘課長、先ほどはフォローありがとうございました!」 凛とした、張りのある声。水野さんだ。 「構わねえよ。水野はよくやってる。ただ今回は相手が悪かっただけだ、気にすんな」 「ハイ気にしません!」 「ちょっとは気にしてくれ」 「えへ(笑)。でも、どんなクライアントが相手でもスムーズに商談を前に進めるスキルが、自分には全然足りないと今回の件で実感しました。もっとクロージングスキルを磨かないと駄目ですね」 「勉強家なのはいいことだけど、力みすぎるなよ。程々にしろ。今日は早めに上がって休め」 「やったー! 1パチ行こー!」 「俺の優しい気遣いをパチンコで消化すんじゃねえ」 アクリルパーテーションの向こうから見えたのは、MD課の橘課長と水野さんの姿だ。上司と部下の和気藹々とした様子が垣間見える。 話の内容を聞く限り、水野さんが仕事でポカをやらかしたように聞こえたけれど、この僅かな会話量だけでは実際のところはわからない。どちらにしても俺には関係のない話だと、そのまま無視して通り過ぎようとしたけれど。そこで、ふと視線をずらした水野さんと目が合った。 彼女が橘課長にお辞儀をして、何故か一目散にこっちへ駆け寄ってくる。さすがに無視はできず、俺も足を止めたまま彼女を出迎えた。 「こんにちは村瀬2号!」 「誰が村瀬2号ですか」 「名前知らなくて」 「冴木です」 「さえきくんですか。わたしは、」 「水野さんですよね? 村瀬に教えてもらった」 「そうです! 顔覚えててくれて嬉しいです!」 何の曇りもない綺麗な笑顔を披露する。よく笑う子だな、と内心思っていた時、彼女は手元のバッグに視線を落とし、急に中身を漁り出した。 「冴木くんに頼み事があります」 「なんですか?」 「これを村瀬くんに渡してほしいです。水野から、『今回の企画コンペにおける市場全体環境のP&O分析と、あとモロモロです』って伝えて頂ければ通じると思うので」 そう言って彼女が差し出してきたのは、USBメモリだ。何のデータが保存されているのかまでは知らないが、村瀬はもともとMD課に興味を持っていたし、恐らく広告代理営業部の成績向上の為に、水野さんの持つ知識を活かしてマーケティング戦略を図りたいのだろう。 そして水野さんも、村瀬の考えを受け入れた。モロモロです、なんて曖昧な表現で誤魔化したのは、MD課が持つ貴重な情報を俺に悟られないように濁した表現なのもしれない。営業部とマーケティング局に僅かな確執があるのは、2つの課の合間に流れる微妙な空気感で察してはいた。 俺は、何も知らなかった。村瀬と水野さんが、内密で仕事の情報交換をする仲だったなんて全然知らなかった。俺の知らない時間、俺が知らない場所で、2人の距離が近づいていたという現実を突きつけられて胸が痛む。ふつふつと胸に湧いてくるのは、悔しいとか惨めだとか、そんな真っ黒な感情ばかりで。 「……自分で渡せば?」 無意識に、冷えた声が出てしまっていた。 なんて素っ気ない言い草だと自分でも思うけれど、心に渦巻く汚い感情を抑え込むことができなかった。だからって動揺している様も見せたくなくて、極めて冷静に彼女を見返す。 水野さん自身も、俺の態度に何かを感じ取ったのかもしれない。さっきまでの清々しい笑顔は、徐々に感情の失せた真顔に戻っていく。しばらく沈黙が続いた後、水野さんの顔が思いっきり、嫌そうに歪んだ。 ………え? 「ええええええええ、絶対やだ。やだやだやだ。君らの部署行きたくないんだよ〜。だってあそこ、男ばっかじゃん!? むさ苦しい! 男臭そう! 臭そう!」 2回も臭いって言った。 「……酷くない?」 「絶対ファブリーズの香りとかしないじゃん」 「するわけないじゃん」 「MD課はファブリーズの香りが1日中してる」 「………」 まさか、猛烈な勢いで拒絶されるなんて思っていなかったから拍子抜け。呆気に取られている俺に対して、彼女はひたすら嫌々を繰り返していて、その必死な様を目にしたら、彼女への嫉妬心も薄れてしまっていた。 まあ渡すだけならいいかと思い直し、差し出されたUSBメモリを受け取った。 「……渡すだけでいいの?」 「いいの! ありがとう助かります!」 「こっちの部署に来るのが面倒だから、俺をコキ使うんだよね」 「なんちゅーヤラシイ言い方するのだチミは!」 ・・・ 「村瀬」 「あ、冴木。お前なに1人でサボってんだよ誘えよ」 「サボってないし。……はい、これ」 「何?」 「水野さんから。内容わかる?」 「あー、ハイハイ」 何も言わずとも、水野さんの名前を出しただけでデータの内容を悟ったらしい。俺から受け取ったUSBメモリを、村瀬は机の上に置いた。 「水野さんと会ってたのか?」 「……たまたま会っただけだよ」 「ふーん?」 「ソレ渡しておいてって頼まれた」 「水野さん、こっちの部署に来たがらないからね」 「……何か理由があるのかな」 むさ苦しいとか臭そうとかふざけたことを言っていたけれど、多分、あれは本心じゃないだろう。あの時の、橘課長との会話を聞いてしまえば、彼女が仕事に対して真摯に向き合っているのがよくわかる。そんな彼女の真面目な性格を考えた時、まだ知り合って間もない男に、面倒だからという理由で貴重な情報を保存したメモリを託すような、堕落的な考えを持つような子じゃない、と直感的に思ったんだ。 そんな考えに耽っていた時、不意に視線を感じて顔を上げる。キーボードに手を置いたまま、村瀬は目線だけで俺を見上げていた。 「……なに?」 「冴木が女子のこと気にするの珍しいなって」 「……別にそういうわけじゃないけど」 「気になるなら直接聞いてみれば?」 そういう訳じゃないって言ってるのに。ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて俺の顔色を窺っている村瀬を殴りたくなった。からかわれている、そう気づいて居心地の悪さに眉をひそめる。 「……村瀬が聞けば? 仲いいんでしょ?」 「いや、仲いいって言ってもたまに社内で話す程度だって。連絡先も知らねーし、ライン拒否されたし」 「……え?」 その一言に目を見張る。 「……ライン拒否、って?」 「前に『ライン交換しない?』って言ったことあるんだけど。何だかんだって理由つけられて、遠回しに拒否されたんだよね。もしかしたら束縛強い系の彼氏でもいるのかなーって、そん時は思ったけど」 「……え」 それは、意表を突いた答えだった。 水野さんに男の存在がいる可能性を考えてなくて、村瀬にそう言われてから納得した。ライン交換を断る理由は大体限られているし、そのうちのひとつが彼氏の存在だって要因も否めない。彼氏がいながら他の男とライントークをしていることに、罪悪感を抱える女子も多いと聞いたことがある。 「彼氏以外の男とラインしたがらない子もいるしなー」 村瀬の言葉を聞いて、控えめに頷いた俺の心に広がっていく安堵感。今の会話の流れからわかったのは、村瀬にも水野さんにも、互いに恋愛以上の感情は持ち合わせていないということだ。あくまでも自分達は同期であって、それ以上でも以下でもないという主張にほっとしている自分がいる。 ……けれど、こんな安心を得られるのは今だけだ。村瀬だってそのうち恋人を作るだろうし、俺の一方的な想いが実ることは決してない。その現実は変わらない。 こんな有り様で、いずれ村瀬に彼女ができた時にどうするんだろうか、俺は。この想いを、ちゃんと手放せるんだろうか。先の見えない未来に、モヤモヤと充満する不安を隠しきれなかった。 トップページ |