触れる唇


 突然のキスに動きを止めてしまった私は、抵抗することも忘れて早坂のキスを受け止めている。後頭部に添えられた手に抑えられて、逃げることも不可能だった。
 どうしてこんな展開になったのか、早坂が何を考えているのかもわからない。考えが全然まとまらなくて、頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
 戸惑いに揺れる間も、キスが止むことはない。
 そればかりか顎を掴む指先が、少し痛いくらいに力が篭る。強制的に唇を抉じ開けられて、新たな酸素が送り込まれてきた。
 でも、早坂の舌が侵入してくることはない。
 ただ軽く唇を触れ合わせているだけで、リップ音が奏でる事もない。
 だから気付いた。これは、キスじゃない。
 キスなんだけど、目的が違う。私の乱れた呼吸を静める為のもので、唇を重ねて愛情を確かめ合うような行為じゃない。
 そう気付いたら、妙な安心感が広がった。
 早坂らしいなあって思ったら、不思議と呼吸が落ち着いてきた。



 過呼吸に、キス。
 医学的には可能だけど、余程信頼している相手じゃなければ悪化する危険も孕んでいる。ペーパーバッグ法と理屈は同じだから、窒息死する可能性だって高い。
 それを臆することなくやってのける早坂は、それだけ私のことを信頼している証でもあって、私達はそれだけ、信頼関係が厚いとも言える。

 見えない絆の深さをキスという形で示されて、むず痒い気持ちが込み上げる。胸がきゅっと締め付けられて、心が苦しい。
 でも、この息苦しさは過呼吸のせいじゃない。どこか甘さを伴うものだ。

 平常心を取り戻していくと同時に湧く、早坂への思い。彼のことは誰よりも信用しているつもりだったし、心許せる奴だと認識していたつもりだった。
 でも私は、私が思っている以上に、心のずっと深いところで彼を信じきっていた。それを、今更ながらに思い知る。早坂の存在はこんなにも、私の中で大きな存在だったんだ。

 会う日も時間も限られていた青木さんに向けていた信頼と、仕事でもプライベートでも、共に過ごす時間が多かった早坂に向けていた信頼の厚さは比べようにもならない。じゃなければ今、恋人でもない人からのキスを受け入れたりできない。たとえ人助けだとわかっていても、本能が拒絶する。
 同期とか、親友と呼べる関係以上に深いところで繋がっている。私にとって早坂は、そんな存在に近い。
 早坂にならきっと、何を言われても私は無条件で信じきることができる。それは絶対だと、自信を持って言える。
 それは早坂にとっても同じだったら嬉しいと、純粋にそう思った。



 唇に触れる熱が僅かに動く。早坂が私から離れようとする気配を感じ取って、謎の寂しさが込み上げてきた。
 無抵抗の女に無理強いするような男じゃないって知ってるけど、何も手出しされないのは、それはそれで複雑な気分になる。真面目な奴だなあって思ったら、妙な悪戯心が湧いてきた。

 だから、自ら仕掛けにいった。

 唇が遠退く寸前、無理やり舌を侵入させてみる。
 ついでにペロン、っと早坂の舌を舐めてやった。まるで犬。

「っ!?」

 直後、突然両肩を掴まれた。
 勢いのままにべりっ! と体を引き剥がされて、私はパチパチと瞬きを繰り返す。対して早坂は真逆の反応で、困惑した表情のまま凍りついてしまった。
 驚愕に満ちた瞳を私に向けて、口も半開きのままフリーズしてる。開いた口が塞がらない、といった感じ。普段の冷静沈着さはどこにもなく、なんとも間抜けな素顔を晒していた。
 そのリアクションに、プッと吹き出してしまう。
 驚くだろうとは予想していたけれど、こんなに初々しい反応を拝見できるとは思わなかった。
 可愛くて、面白くてついニヤけてしまう。

「おーい、早坂クン?」
「……は、なにお前、え」
「うん??」
「いや何してんだよ」
「ベロチュ?」
「………」

 早坂が思いっきり眉間に皺を寄せて、はあーっと盛大なため息をつく。この緊迫した状況で、とんでもないことを仕掛けた私に対する呆れなのか、過呼吸が治まった事に対する安堵からなのか。多分、両方だろう。

 荒れていた呼吸も、今は一定の速さに落ち着いている。まだ息苦しさはあるけれど、深呼吸をすればその苦しさもなくなった。
 過呼吸は過剰なストレスや疲れから引き起こす場合も多いと聞くけれど、私の場合もそのパターンだったみたいだ。

「ありがとう早坂。治ったよ」

 早坂クンを茶化すのは楽しいけれど、悪ふざけはこの辺で終わらせておく。
 私は助けられた身で、早坂は命の恩人だ。ちゃんと目を見てお礼を言わなきゃいけない事ぐらいわかってる。親しき仲にも礼儀あり、だ。

「さすがに大丈夫じゃなかったみたい。ちょっと無理しすぎたね」
「……治ったならいい。いきなりすぎてビビったわ」
「ごめんごめん。私も急に息できなくなったからビックリした」
「……本当にもう大丈夫か?」
「うん。早坂のお陰だよ、ありがとう」

 にこっと笑いかければ、早坂も安心したように笑みを浮かべる。ずっと胸に渦巻いていた恐怖は、今は薄れかけていた。
 全身の痺れも治まり、手の震えも全くない。
 キスの衝撃が強すぎたせいか、負の感情がぽーんと頭からぶっ飛んでしまったみたい。

 とはいえ状況が落ち着けば、おのずと現実に向き合わなければならなくなる。考えることは山ほどあるけれど、全部後回しにして休みたい気持ちが強い。体もそうだけど、頭がもう考えることに疲れてる。
 でも私の心がずっと、あの部屋に帰ることを拒否してる。恐怖で震える事はなくなっても、あの場所へ抱く嫌悪感だけはどうしても拭えなかった。

 現実的な話をすれば、あの部屋に帰らないなんてまず無理だ。財布も鍵も置きっぱなしだし、何より一番の不安は、私のスマホが手元にない事だ。
 あの時、青木さんに奪われてしまってからどうなったのか、何も覚えていない。
 部屋に放置されたままならまだ安心できるけど、もしあの人が持って帰っていたら、そう思うだけでゾッとする。

 戻って確かめなきゃいけない。
 でも、もし部屋にあの人がいたら?
 いなかったとしても、確かめた後はどうすればいい?

 1人で部屋にいたくないとは言っても、こんな夜更けに友達の家へ転がるわけにはいかない。かなえちゃんの家にお邪魔するわけにもいかないし、私の実家は遠い。
 だからってビジホに泊まる程でもないし、お金をかけるのも嫌だ。
 となると、残る選択肢は漫喫か。

「……どうしよっかなー……」

 助手席のシートに体重を預けてひとりごちる。自然と口に出ていたその呟きを、早坂は隣で黙って聞いていた。
 早坂の手がハンドルを握る。何も言う気配がない様子に焦れて、一発ツッコミを入れようとした、まさにその時。
 絶妙なタイミングで奴の口が開いた。

「……俺んとこ来る?」

 その一言に一瞬、言葉を失った。

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