歯車が狂う時‐佐倉side 例の飲み会から数日が経った。 『───部署異動を希望する場合、人間関係が合わない、パワハラを受けているなどの後ろ向きな理由を挙げるのはNGです。協調性がない、コミュニケーションに難があると取られてしまいます』 「……えー……これマジで?」 スマホの画面に向かって不満を漏らす。 PCと向かい合っていた隣の奴が、ん? と首を傾げながら俺を見た。 「なんか言った? 佐倉」 「べつに」 「エリカ様かよ」 今となっては古いネタに、周りからも小さな笑いが起こる。うるせーと一喝しながら、再びスマホに視線を落とした。 何度画面を確認したところで表示されている内容は同じわけで、誰にも気づかれないように肩を落とす。部署異動ってやっぱ、簡単じゃねえのな。 脳裏に浮かぶのは、先日の飲み会での一件。 今の職場がつらいと吐いた井原に、営業来れば? なんて軽く誘ったのは俺だ。 その言葉を、井原は受け入れなかった。 でも、その翌日だ。異動願ってすぐにできるのかな、なんて井原が言ってきたのは。 はっきりと口にしなかったけれど、内心は異動したい気持ちもあるんだな、と気づいた。それほどまでに追い詰められていたんだ。 もし井原が、異動したい意思を口にした時にすぐ動けるように、準備だけはしておきたいと思った。部署願の仕方なんて当然知らないし、人事部に相談しても事情を話さなければならなくなる。上司に部署異動の話はしずらい。 そこで我らがグーグル先生の出番だ。 今はネットで情報収集するのが当たり前の時代で、大抵のことはネットで検索をかければすぐにわかる。わからないことはネットに聞け、自分で調べろ。なんて言われることも増えてきた。 部署願できる時期やタイミング、希望理由。グーグル先生に頼れば、すぐに答えを教えてくれた。 で、今に至る。 すぐに頭を抱えることになった。 「どうすっかな……」 体重を後ろに傾ける。 ギッ、と椅子の軋む音が響いた。 人間関係を理由に異動するのは難しいらしい。 まあ当然と言えば当然だ。「社内いじめに嫌気がさしたので異動したいです」なんて上司に言えるはずがない。 言ったとしてもまともに取り合ってくれないだろうし、間違いなく受理されない。社内いじめ自体、万が一真摯に受け止めてくれたとしても内部調査くらいしかしてくれなさそうだ。 そして連中の団結力が発揮された結果、 「問題は見受けられなかった」 で、ハイ終了。だろうな。 大体、『無視』"だけ"ってところが凄く嫌な感じがする。直接的な嫌がらせがあれば物的証拠だって残るだろうし、証拠や証言があれば、報告次第で上の人間が動く。でも、『無視だけ』って……無理だろ。 酷い奴なら、「気のせいじゃないのか」とか言い出すかもしれない。挙げ句の果てに、「無視はいじめの内に入らない」だの「それだけで被害者面すんな」とか、会社の利益や保身の為に、被害者側を責めるんだ。 いじめ云々はともかく、実際に迷惑被ってる人間が周りにいるんだからどうにかしろや、って個人的には思います。 なー、芹澤専務な。 マジで気づいてないのか? 一応、あの部署の上司だろ? 3年もだぞ? やばくね? 「……いやいや違う」 考えるところはそこじゃない。 井原が異動したい意思があるのか、どの程度のものなのか。ちゃんと聞いておいた方がいい。 ネットで調べた限りでは、井原が部署異動できる可能性は五分五分だ。調査部門で培ってきた3年分の実績があるし、スキルアップだの何だのと言えば、異動の理由は何とかなる。 でもそれだけじゃ弱い。 実際異動した際に、すぐ即戦力になれるほどの強みがないと難しいらしい。色々と頭を悩ませる案件だ。 「……あー、休憩すっか」 俺まで色々ナーバスになってる気がする。ちょっと頭を冷やしてこようと席を立った。 行き先は4階の調査課。 井原も誘って、1階のロビーにでも行こうかと思ったけれど。 ……興味本意で部署の偵察もするかな。 ───こういうところが駄目なんだろうなあ。 昔から、よく人に言われる。 『お人好し』 『お節介』 それらを全部総合して、『いい人』 それが他人から見た、俺の印象。 世話焼きな性格なのは自覚してる。でもそれが、『いい人』の評価に繋がっているのは正直複雑だ。程よく人と関わって、程よく関わらない。人から嫌われない、ウザがられない距離感を保っているだけなのに。 面倒事には巻き込まれたくない。 でも簡単に突き放せるほど冷たい奴にもなれなくて、結局、中途半端に関わっている。そういう半端な生き方しかできない。 井原も多分、俺と同じタイプだ。そうでなければ、既に職場を見限っている。天使さんが気掛かりだからって理由だけで、3年もあの働きづらい部署にはいないだろう。 損な性格かもしれない。俺も、井原も。 いっそ、ミキみたいになれたら良かったのかもなあ、とも思う。 ミキは嫌いなものは嫌いだとハッキリ言うタイプだし、自分と合わない人間には極力関わらないスタンスだ。敵は作りやすくなるけど、潔くて憧れる。 憧れ、と言うのも変な話だけど、俺にはない部分だから惹かれてしまうんだろう。 エレベーターに乗り込んで、4階のボタンを押す。揺られながら考えるのは、天使さんのこと。 井原もミキもよく我慢できるな、とは思ったけれど、よくよく考えれば天使さんが一番の被害者だ。その彼女もよく耐えてると思う。約3年間も無視されている状況なんて、よほど鋼の精神してないと相当キツいはずだ。 それだけ今の仕事が好きなのか、それとも耐えられるだけの支えがあるのか。なんて考えたところでどうしようもないけれど。 「……あ」 天使さんで思い出した。 スマホ、大丈夫だったのかな。 ・・・ 4階にある調査課オフィスの入口に立つ。 相変わらずここの仕事場は広い。むっちゃ広い。なにこの開放的な空間。営業課なんて狭いのに贔屓じゃね? この部署に顔を出すのは、何もこれが初めてではない。けど、頻繁に訪れるわけでもない。だからここに来る度に、その広さに圧倒される。まあ調査研究員の方が遥かに社員が多いから、仕事場が広いのは当然ではあるけれど。 課内もまばらに人はいるが、パソコンと向かい合いながら黙々と作業している奴が大半だ。誰もが淡々と業務をこなし、口を開かない。何かと騒がしい営業課や部門課とは、まるで空気が違う。うまく言えないが、荘厳とした沈黙に包まれていた。 というか、広すぎて井原がどこにいるのかわかんねえ。 一応ライン送ったけど既読もつかねえ。 引き返そうかな、なんて逃げの思考に走りつつ、周囲をぐるりと見渡す。 そして気づいた。 すぐ傍で、ファイルに目を通している社員の姿に。 ───って、噂の速水クンじゃん。 「あ、すみませんちょっといいですか」 周囲に気を遣いながら、その後ろ背に声を掛ける。 すぐに気づいた速水クンは、俺の方を振り向いて首を傾げた。 「え、俺? 呼んだ?」 わりとフランクだった。意外。 「うんそう、俺(笑)。今、大丈夫ですか」 「いいですよ。どうしました?」 ふわりと微笑んだその表情は、なるほどこりゃモテるわ、と男も納得のキラキラスマイルだ。背も高いし、これで性格もいいとなれば女にモテないはずがない。 「井原敦に用件があって。先日の件で相談があると伝えてもらえますか? それで恐らく通じると思うので。あ、営業部門の佐倉です」 「わかりました」 丁寧に答えて、速水クンはその場から離れていく。その背を黙って見届けた。 入口で待つこと1分。 戻ってきた速水クンから告げられたのは、「不在」の一言。 「あちゃー、そうか」 「急ぎの用件?」 「いやいや! 全然急ぎじゃないんだ、大丈夫」 「うん。じゃあ営業部門の佐倉くんが来ていたと伝えておくよ。それでいい?」 「全然大丈夫! 助かる」 気がついたらタメ語で話してた件。 速水クンの話しやすさと居心地の良さやべえ。男でも惚れそう。 「じゃあ俺はこれで───あ、」 ふと。 天使さんのことを思い出した。 「あの、もういっこいいかな」 「いいよ。何?」 「……天使さん、いるかな」 速水クンはいじめ荷担派なのか、それとも井原派なのか。見極めるいい機会だと思った。できれば後者であってほしい。 探るような視線を向ける俺に、速水クンの動きは一瞬だけ止まった、けど。 「天使は今、席を外してるんだ。15時までには戻ると思うから、戻り次第伝言を伝えておくよ」 いたって普通の表情でかわされた。 動揺している様子もない。 これではどっち派なのか、判断できかねないな。 「あ、いいんだ。これも急ぎの用件じゃないし」 「プライベートな用件だったかな」 「あー、いや。実は先日、彼女と廊下でぶつかっちゃって。その際に天使さん、自分のスマホを床に落としちゃったんだよね」 「そうなんだ。それは心配になるね」 「そーなんだよ! もう、ガッシャーン! ってすげえ音なってたから。本人は大丈夫だって言ってたけど、かなり派手に落ちたからやっぱり心配で」 スマホの異常は、数日経った頃に現れることもあるらしい。携帯電話はもはや日本人の生活必需品だ、壊れたらそれこそ一大事だ。 天使さんがスマホを落としたのは、急ぐあまりに前を確認しなかった、俺の責任だ。 「一応、俺の名刺は渡してあるんだけど、まじで壊れたら弁償するんで、遠慮なく言ってって伝えておいてもらっていい? 無事かどうかの確認だけしたくてさ」 「わかった。天使が戻ったら伝えておくよ」 「頼みます!」 片手をあげてお願いすれば、速水も笑う。堅苦しい態度じゃないし、始終柔らかい態度で接してくる。普通にいいヤツだった。 でもこれで、社内いじめに荷担してたら失望だけどな。 井原から連絡がきたのは、それから30分後のことだった。 異動の件で相談をしている内に、俺は速水と交わした会話の半分以上を忘れてしまった。 忘れたというか、話した内容は覚えているけれど、何を口走ったのかまでは覚えていない。 だから何も気付けなかった。 あの時、何気なく交わした速水との会話がキッカケで、全ての歯車が狂い始めることに。 部外者の俺は、何も知らなかったんだ。 トップページ |