奪われるお話。3


 千春くんと初めて出会った、1年前の春。
 卒業後に交際しようと約束してくれた、1年前の初夏。
 「次に会うときは恋人同士だね」なんて、微笑みながら言ってくれた卒業式の日まで、千春くんは私に寂しい思いをさせなかった。
 私を特別扱いしてはいけない立場だったにも関わらず、誰も見ていないところで少しだけ、特別扱いしてくれた。それだって、すれ違い様に軽く手が触れたとか自習に付き合ってくれたとか、周りが全く気付かないような些細な事ばかりだ。
 それでも、恋人らしい事ができない立場の私にとって、そのさりげない気遣いがどんなに嬉しかったか、 きっと私以外は知らない。

 私達はずっと、こんな感じだった。

「楽しかったよね。俺がこっそり何かする度にオロオロしたり、嬉しそうな顔したり。そんな愛らしい生徒の姿に先生は心打たれたね、これはもっと隠れて苛めてあげなければならないと」
「ひどいの」
「まあ何かと楽しませてくれたよね、莉緒は。だから、」

 慈しむような眼差しを向けられて、頭を撫でられる。優しい手。

「今度は俺が、楽しませてあげる」

 微笑みながら告げられた言葉が、心の琴線に優しく触れる。裏表のない、彼の真っ直ぐな想いが、心を解きほぐすように浸透していく。
 嬉しさが込み上げて、自然と笑顔が生まれた。

「ほら、また嬉しそうな顔してる」

 千春くんの指がむに、と頬を摘まんだ。

「だって、嬉しいんだもん」
「俺も嬉しいよ」

 彼の片手が、下半身に触れる。
 内股に滑り込んだ手に誘導される形で、私はゆっくり脚を開いた。
 恥じらう気持ちはあまり無くて、不思議と恐怖も湧かない。

「やっと莉緒を抱ける」

 本当に嬉しそうな顔で言うから、胸がきゅ、と締めつけられた。






 ───どんな思いで、その言葉を口にしてくれたんだろう。その言葉を口にするまでに、この人の中で、どれほどの葛藤があったんだろう。

 私はいつも自分のことで精一杯で、人の立場になって物事を考えたり動いたりできるような、器量のいい人間じゃない。だから自分よりも他人を優先して動くことができる千春くんはすごいと思うし、誰よりも憧れた。尊敬を抱いた。
 そんな他人主義者の彼が、自分の意思を優先してる。いつだって自分の気持ちは後回しで、私の気持ちを常に最優先してくれた千春くんが、私よりも自分の想いを優先して、抱きたいと言ってくれている。

 私だけが悩んでいたんじゃない。
 彼も悩んで、迷った末に辿り着いた答え。
 苦しまなかったはずがない。

「んっ……んん……っ」

 長い指が、私のナカに埋まっていく。
 は、と小さく息を吐く。最奥に辿り着いた指先が、今度は小刻みに動き始めた。
 まだ異物感に慣れていない内部は、十分に解れているとは言い難い。正直気持ちよさは感じなかったけれど、身体は正直なもので、当然のように奥から愛液が溢れてくる。心だけじゃなく身体も、この人が好きだと認識している証拠。

「……千春くん」
「ん?」
「……わたし」

 千春くんには、今。
 私がどんな風に映っているんだろう。

「……私、」
「……莉緒?」

 ナカに埋まる彼の指が、躊躇いがちに動きを止める。不安そうに私の顔を覗きこんできて、空いた手で頬に触れてきた。何でもないよ、そう言いたいのに、言葉がうまく出てこない。何かが詰まったかのように喉が苦しくて、無性に泣きたい衝動に駆られた。

 胸を満たす、不思議な感覚。
 今まで知らなかった感情が、私の中に生まれた。





 千春くんの想いの深さは、恋愛経験の浅い私には計り知れない。他人主義者の彼が自分優先で動いてしまうような、そこまでの覚悟をさせる程の魅力が私にあるとも思えない。
 私はまだ、この人の半分以上の感情を知らない。

 私達の時間はまだ始まったばかりで、これから一緒に歩んでいけば、彼が抱いていた各々の感情も知っていけるのだろうけど、私は今、知りたかった。

 もっと千春くんのことが知りたい。
 もっと近くにいたい。
 私を想ってくれる、この人の気持ちに寄り添いたい。
 この人の心が欲しい。



「……あ、れ……」

 ぽたりと。
 目尻から、透明な雫が流れ落ちた。

「……え、え? なに、待って本当にどうしたの? 嫌だった?」

 私の突然すぎる涙を見た彼の目が大きく見開く。狼狽えている様子に、"千春くんがこんなに取り乱す所なんて滅多に見れないなあ"、なんて不謹慎なことを思う。彼が大いに動揺しているのが、目に見えて明らかだ。
 千春くんの手が何度も、頬を撫でる。涙の筋を指先で拭って、『どうして泣いてるの?』と視線で訴えてくる。その問い掛けに見合う答えを導き出せない私は、ただ静かに泣くしかない。いや、泣くという表現が正しいのかも曖昧だ。

 泣きたくて泣いてる訳じゃない。
 ただ、抱きたいと言ってくれた彼の心情を思ったら、胸に熱いものが込み上げてきた。ほっぺに触れる千春くんの手が温かくて、何だか切なくて堪らなくなって、自然にほろりと涙が零れた。自分の意思とは関係なく。

「……ち、がうの……嫌じゃなくて……なんでかな。なんか、泣けちゃうの。わかんない」

 知らなかった。
 人は、人に触れられて泣けてしまうものらしい。

 涙を拭うことに必死な彼の手を、頬にそっと押し付ける。当然千春くんの動きは止まって、静かに私を見下ろしていた。
 ナカに埋まる指はそのままの状態で、彼同様、動く気配はない。指、ふやけたりしないのかな。いらない心配事をする。

「莉緒」
「なに……?」
「なんで涙が出るのか、自分でわからない?」

 自分でも制御できないこの感情が何なのか、私は全然わからなくて。でも千春くんは、その答えを知っているような口ぶりだ。
 私が小さく頷けば、彼は笑みを深くする。

「その涙の理由、教えてあげようか」

 ぽつりぽつりと落ちる、涙の粒。
 指先で掬って、彼は言う。

 答えを。

「人はね。肌を通して、心に触れるんだよ。だから感情が溢れてくる」
「───……」

 その一言が。
 これほど、胸に響いたことはなかった。

「……そっかあ」

 へら、と気の抜けた笑みが浮かんだ。

 千春くんの言葉はシンプルすぎて、なのにこんなにも、私の心を揺さぶってくる。水面に波紋が広がるように、ゆっくりと、私の中に浸透していく。溶け込んでいく。

 相手の心に、心で触れる。
 だから感情が溢れだす。愛しさで満たされる。涙が、勝手に頬を伝う。
 目に見えない想いの形を、言葉で表現できる千春くんはやっぱりすごい。






 いつも抵抗感があった男女の行為。

 ただ単に恥ずかしかっただけ。痛かったらやだな、って怖がっていただけ。そういう行為なんだから、そう思うのは当然だと思ってた。
 身体以上に、心に触れて繋がる行為だなんて、そんな風に考えたことはなかった。

 好きな人に抱かれるって、そういうことだ。
 怖いものでもなくて、ましてや汚いものでもない。
 恥ずかしいを理由に逃げていた自分の行動こそが、一番恥ずかしく思えてくる。これは、確かに楽しまないと損かもしれない。
 だって、こんなに素敵なこと。
 好きな人と分かち合えるなんて、すごく幸せなことだよね。

 瞼に残る水滴を、手の甲で拭う。
 決意新たに、彼を見上げた。

「千春くん、大変です」
「ん、どうした」
「俄然やる気が出てきました」
「お。いいね。なんて男らしい発言なんだ莉緒。胸熱だよ」

 茶化しながら言う彼の態度は相変わらずで、私達らしいやり取りが、これほど嬉しいと思ったことはない。
 痛いのはやだなって、そう思う気持ちはまだ胸の中に残ってるし、恐怖もまだ、心にこびりついている。でもそういう部分も含めて、今の私なら大丈夫だとも思えた。
 高揚感で胸が高鳴って、ワクワクする気持ちを止められないから。

「千春くん、あのね」

 願うことはひとつだけ。

 私の全てをあげるから。
 あなたの心を、私にください。

「───ははっ(笑)。 俺の心はとうに莉緒のものだよ? 生かすも殺すも奪うのも、莉緒次第だよ」

 彼は屈託なく笑って、指の動きを再開する。









 ───わたし、今日。
 抱かれちゃうんだね。千春くんに。



 大好きな人。
 憧れている先生。
 私の知らない知識や感情を全て教えてくれる人。

 この先もずっと、あなたの隣で学びたい。

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