キスのお話。2


 黒い笑みを浮かべながら、先生は私の上に覆い被さってきた。もう片方の手も掴まれて、頭上で両手首をまとめて拘束されてしまう。これじゃあ逃げるどころか、まともに動くことすら出来そうにない。それほどまでに、先生は自分の望みを叶えたいみたいだ。
 でも私だって、そんなこと。
 口移しなんて、出来っこない。

 互いに、意地の張り合いが続く。
 先の見えない攻防戦。
 なにやら一触即発の予感です。

「飴くれないの?」
「……私のだもん」
「先生も食べたいな」
「……買ってきます」
「今欲しい」
「う……」
「……だめ?」
「……だめ」

 ころり。
 小さくなり始めた飴玉が、舌の上で踊る。

「……そっか。残念」

 落胆したような声が落ちる。
 でも見上げた先生の顔は、あまり残念がっているようには見えない。

 そして、

「―――貰えないなら、奪うしかないね」

 そんな、魔の囁きが聞こえてきた。

「先、……っ、!?」

 抗議しようと開きかけた口が、突然塞がれた。
 あまりにも突然すぎるキスに呆然としている私の無防備な唇は、あっさりと彼の侵入を許してしまう。
 隙間から入り込んできた肉厚な感触に、びくりと肩が震えた。

「んぅ……っ、」

 くぐもった声が漏れる。
 困惑している私の様子に構うことなく、先生は私の舌周りを丹念に舐め尽くしていく。

 舌先で歯列をなぞられて、
 舌と舌同士が絡まって、

「……んっ、」

 ぞわっ、とした感覚が、背筋に走った。



 こういう時、経験の無さが仇になる。
 深みを増していくキスを前に、何をどうしたらいいのか全くわからない。
 手足は全く動かせない。
 息の仕方もわからない。
 だから私は、先生に口内を犯されていく様を、ただ黙って受け入れるしかなかった。

「ん、ん……っ」
「……は、かわいい」
「ぁ……っ…ふ……」

 息苦しくて、生理的な涙が滲む。
 心臓が壊れそうなくらい波を打って、体の震えを止められない。
 そんな、錯乱する意識の中で呼び起こされた記憶。初めて先生とキスをした、あの日のことが脳裏によぎった。



 高3の夏の夜。
 まるで小鳥が啄むような軽いキスを、先生は私にたくさんしてくれた。
 ちゅ、ちゅ、と何度も繰り返されるそれが可愛くて嬉しくて、すごく楽しくて。
 あの時の私は完全に舞い上がってた。
 大切な、先生との思い出。

 でもこれは、違う。
 こんな先生のキスは、知らない。
 可愛さなんて欠片もない、楽しさなんて微塵も見出せない。貪るって言葉がぴったりの、何もかもを全部奪われてしまうような、本能的なキスだ。

 飴の存在なんかそっちのけで、先生の舌はゆっくり、執拗に私のものと触れ合ってくる。その度に、飴玉が右往左往に踊って甘い蜜が溢れ出す。でも今の私に、その甘味を堪能する余裕なんてまるで無い。

「ふ……ぁ……っ」

 水気の増えた口内で、湿った音が響く。
 羞恥で耳を塞ぎたくても、両手を先生に拘束されているこの状況だと、それも望めそうにない。

「ん、ぷはっ、やぁ、苦し……」

 やり方なんてわからない私はずっと息を止めてる状態で、それも次第に限界が来る。唇が離れた瞬間、やっと抗議の声を上げた。
 それがキッカケになったのか、それとも飴が完全に溶けきって消えたせいなのか。要因はわからないけれど、先生はゆっくりと私からも離れた。

 固く閉じていた目を開いてみる。
 互いの唇の合間に透明な糸が引いていて、それが酷く卑猥に見えてしまった私の顔が、更に赤く染まった。
 私を見下ろす先生の息も少し荒い。
 余裕のなさそうな表情に、胸が疼く。

 その時、

「っあ、やだっ……」

 唇の端から、唾液が一滴零れ落ちた。

 こんなはしたない様を、先生に見られた。
 恥ずかしくて、今すぐこの場から逃げ出したくなる。
 垂れてしまったそれを拭いたくても、両手を掴まれているこの状態じゃ、それすらも出来ない。
 どうしよう、そう思った時。
 また顔を近づけてきた先生が、頬に流れ落ちていく水滴を、自らの舌で掬い取った。
 そのまま私の口の中に戻すように、深いキスが再び落ちる。

「ん、んんっ……ぁ、や、」

 必死に制止の声を掛ける。
 このままじゃ、私が酸欠でしんでしまいます。

「……ん、香坂、息して」
「う……どうやって……?」
「……しょうがないな」

 苦笑しながら上半身を起こした先生は、拘束していた私の両手を解いた後、そのまま片手を引っ張って体を起こしてくれた。
 引き寄せられて、ぎゅっと抱き締められる。
 先生の胸に頭を預けて、乱れた息を整える。
 背中をぽんぽん叩いてくれる手は温かい。
 その優しい仕草に、緊張で張り詰めていた心は少しずつ、落ち着きを取り戻していく。

「……ごめんなさい」
「ん?」
「全然うまくできなくて、ごめんなさい……」
「そんなこと気にしなくていいんだよ」
「でも」
「面倒だなんて思ってないから」
「………」

 先生はいつもそうだ。
 私が悩んでることを先読みして、いつだって欲しい言葉をくれる。
 キスが下手なくらいで私を嫌うような人じゃないと知っていても、幻滅しちゃったんじゃないかと落ち込む私にくれたその一言は、胸に沸き起こった不安をあっけなくかき消した。

「……俺が教えるから」
「え……」
「キスの仕方も、それ以外の事も。全部俺が教えてあげるから」
「……ほんと?」
「うん」

 優しい声と笑顔に、心が満たされていく。
 だから、安心して頷いた。

 私のはじめては全部、先生にあげるの。

「うん、じゃあ続き」
「………え?」

 …………続き?

「なに」
「あ、飴ちゃんなら、もう本当にないですよ。完食しました」
「知ってるよ」
「え」
「キスの仕方教えてあげるって言ったからね。自分の発言には責任持つよ」
「え、あ、あの、……んっ……!」

 なんだか上手い具合に言いくるめられて、キスされて、当然のように舌が入り込んでくる。
 "練習”と化したキスは止む気配が全然なくて、結局家に帰る時間ギリギリまで、私は先生に翻弄され続けたのでした。

 ……なんだか納得いきません。

mae表紙tugi

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