彼シャツのお話。


 ───突然ですが、今。
 私の目の前には、真っ白いYシャツが置いてあります。

「………」

 正座しながらシャツを眺め続けること数分。
 私は今まさに、己の中に渦巻く欲望と戦っている最中です。



 ・・・



 あの飴ちゃん事件から、また数日後。
 お泊まりデートの日程を2人で決めよう、そう提案してくれた先生に同意した私は、仕事帰りに彼の部屋にお邪魔した。
 当日は何処へ行くか、どこに泊まるか。決めなきゃいけないことは沢山あったけど、私も先生も仕事帰りで、互いに空腹感に苛まれていた。
 お互い腹ペコ状態じゃ、回る頭も回らない。
 そんな訳で、話し合いの前に夕飯を作ることにしました。

 先日はグラタンをご馳走になったから、今日は私が腕をふるう番。
 私だって、料理は大得意。特に和食ならお手のもの。何だって作れちゃうんだから。
 かくして今日、初めて先生の前で、私の自慢の和食ごはんをお披露目することと相成りました。

 キッチンを借りて私が作ったものは、ほかほかの白ご飯に、大根とニンジンのお味噌汁。メインのぶり照りと、茄子ときゅうりのお漬け物。和食定番の、ぶりの照り焼き定食だ。
 「今まで夕飯はほぼ外食だった」、そう先生は言っていた。和風の夕飯は久々だったみたいで、美味しいと何度も言いながら全部平らげてくれた。
 自分が作ったものを、好きな人が美味しそうに食べてくれる。そんな些細な事が幸せで、ほっぺもゆるゆる緩んじゃう。
 でも、一緒にご飯を食べながら私は気づいてしまった。先生の顔色が、あまり良くないことに。



 初めてのクラス担任と、慣れない生徒会顧問を掛け持ちしている先生は、やっぱり、少し疲れているように見えた。
 久々に再会した時、「痩せたかな?」って思っていたりしたんだけど、やっぱり多忙なんだろう。私が考えてる以上に、学校という職場は大変なのかもしれない。本人は平然を装っているけれど、無理してるのは一目見てわかる。

 先生は、いつもこうなの。
 他人の事になるとすごく一生懸命になれるのに、自分のことになると無頓着。周りがちゃんと見ていないと、ぱったり倒れちゃうんじゃないかと肝を冷やすことも今まで何度かあった。今回もそうだ。
 だから思ったの。
 デートの計画より、先生を休ませてあげなきゃ、って。

 そう思って、夕食後にお風呂をお勧めした。
 さすがに渋っていたけれど、やっぱり疲労で体が堪えていたのかな。先生は気まずそうに笑いながら、浴室へと消えていった。

 先生の背中を見送りながら、帰りはどうしようかと考える。いつも先生が車で送ってくれるけど、今日はタクシーで帰った方がいいかもしれない。先生に、無理させたくないもん。

「……にしても、」

 暇になっちゃいました。



 彼がシャワーを浴びてる間、手持ち無沙汰になってしまった私は暇を持て余していて、ソファーに座りながら、んー……とおっきく伸びをする。
 そしてふと、ある物が視界に映った。

 そっと、床に置かれていたもの。
 清潔感が漂う、真っ白なYシャツ。
 クリーニングに出していたのか、綺麗に折り畳まれた状態で、フローリングの上に鎮座していた。

 シャツの前まで近づき、座り込む。
 後ろから、白猫ちゃんがトコトコついてきた。

「……かき揚げ丼」
「……にゃあ?」

 私の呼び掛けに、律儀に応えてくれる。

「見てください、先生のシャツがありますよ」
「にゃ」

 ―――そう。
 先生に飼われている、この白い子猫ちゃんの名前は、「かき揚げ丼」。
 名付けたのは先生ではなく、実は私のお母さん。


『もしも我が家が貧乏になって食べるものが無くなったら、その時はこの子を食用にしましょうそうしましょう』


 なんて言いながら、その日がきた時の為にと、美味しそうな名前をつけられた。かき揚げ丼(猫)をかき揚げ丼(丼)として食べる時に、情が沸かないようにとの配慮? みたい。
 そんな、理不尽で意味不明な未来は私が絶対に許しません。
 かき揚げ丼の命は、私と先生が守ります。

 そんな誓いを立てている私の隣で、かき揚げ丼は大人しくお座りして先生のシャツに目を止めている。ふわふわの白いしっぽが、ゆらゆらと左右に揺れていた。



 眺め続けて思うこと はひとつ。
 このシャツを、着てみたい。
 いわゆる彼シャツというもの。

 ワンサイズ大きい男物のシャツを女子が着ると、どうしても袖や裾が余ってしまう。そんな、だぶだぶのシャツを着ている彼女の姿が愛らしいと、男性の間で絶大な人気(?)を誇る、あの彼シャツです。
 とは言っても、私が先生のシャツを着た所で先生がときめいてくれるとは到底思えなかった。
 自分に似合うとも思えない。
 だから先生の前で見せびらかす予定はない。
 する勇気もない。
 恥ずかしい。
 ただ似合う似合わないに関係なく、好きな人のものを身につけるという行為に、私はときめいてしまうわけです。完全に自己満足です。



 浴室から聞こえてくるシャワー音。
 先生は多分、まだ出てこない。
 ぱっとシャツを着て、ぱぱっと脱いで、綺麗に畳んでしまえば3分もかからない。
 勝負に出るなら、先生がまだ来る気配がない、今だけだ。

 そして私は、白い布地に手を伸ばした。

「……おっきい……」

 両手で掴んで広げてみる。
 私が着ているシャツよりも、一回りくらい大きい。
 余計に着てみたい衝動がむくむくと沸いてきて、そして気付く。
 私自身も服を脱がなければ、シャツが着れない。

 ちなみに市役所役員に指定の制服はない。
 基本的には自由だけど、大勢の市民に見られるわけだから、節度は大事。今の私はブラウスに無地のカーディガン、膝丈のフレアスカートという、無難な格好のまま。
 先生のシャツのボタンを外してから、カーディガンとブラウスをささっと脱いだ。

 シャツに袖を通して、ボタンを掛け直す。
 噂の彼シャツの出来上がりです。

「わあ、だぶだぶ……」

 手が袖から出てこない。両腕を伸ばしても、指の先がちょこっと見えるくらい。裾も長くて、ミニワンピみたいになってる。

「……あ」

 クリーニング済みなのに、ふわっと先生の香りが身を包んだ気がして鼓動が跳ねた。
 乙女心がきゅんと疼く。こんなことが出来ちゃうのは、先生の彼女だけの特権。そう思うと照れくさくて、緩む口元を止められない。

 彼シャツ姿の自分に惚れ惚れしながら、幸福感に浸っていた私はこの時、既に5分が経過していた事に、全く気づいていなかった。
 シャワーの音が鳴り止んでいることにも気づいていなかった。

 リビングに近づいてくる気配にも勿論、気づいてはいなかった。

「かき揚げ丼、見てください。彼シャツですよー」

 悠長な事を言いながら、黒髪をなびかせて背後を振り向けば。
 目が合ったのはかき揚げ丼、ではなく。
 シャワー上がりの先生だった。

「………」
「………」

 体が硬直した。
 沈黙がその場を支配する。
 無表情のまま、じっと私を見つめている先生の姿がそこにあった。
 普段のスーツ姿ではなく、Tシャツにジーンズというラフな格好で、先生はその場に立っている。半乾きの髪が顔に少しだけ張り付いて、イケメンに色気要素が増してとんでもない様になっていて、そんな先生の姿に素直に胸キュンできたらどんなに幸せだっただろうと思う。今の私は例えるならば、イタズラがバレて親に怒られる寸前の子供のようだった。
 さあっと血の気が引いて、頭から冷水を浴びたような心境に陥る。そして、ふつふつと沸き起こる羞恥心。
 先生に内緒でシャツを拝借し、更に彼シャツ姿に舞い上がっている姿を見られた。恥ずかしすぎて死ねる。

 沈黙を先に破ったのは、フリーズ状態から無事解凍した私の方だった。
 目にも止まらぬ早さで、シュッ! と先生が立つ前へと滑り込み、シュバッ!! と光の速さでひれ伏せて、フローリングに額をくっつけていた。クイック土下座。

「説明させてください」
「どうぞ」

 先生の声は驚きを含んでいる訳でもなく、淡々としている。

「あ、あの。これはですね、決して先生のシャツを盗もうとかそんな不埒な事を考えていたわけではなくてですね」
「………」
「その、なんと言うか。か、彼氏……の、ものを身に付けてみたいという、女子特有の心理がございまして。その、決してやましい下心があったわけではないのです、ハイ」
「………」

 下手な日本語で必死に弁解する、私の情けなさといったらない。土下座しながら苦しい言い分を並べてみるものの、状況は悪化の一途を辿っているようにも思える。
 わたしのばか。
 なんですぐ脱いで元に戻さなかったの。
 数分前の浮かれっぷりを呪ったところで、この状況が良くなる訳でもなく。

 これでもかってくらい額を床にこすりつけている私の頭上から、はあ、と小さなため息が聞こえた。
 私の、子供すぎる真似事に呆れ返ってるのかもしれない。胸にちくりと痛みが刺す。

 先生と私の年齢差は8つ。
 大人な彼に比べて、高校を卒業したばかりの私なんて、てんで子供だ。
 その差を痛感する度に、劣等感を抱く。
 もう少し早く生まれたかった、なんて、そんな事を思ったってどうにもならないのに。

 やっぱり着なきゃよかった。
 子供過ぎる自分に、先生が飽きちゃったらどうしよう。
 後悔で目頭が熱くなる。ますます顔を上げるのが辛く感じた時、先生がしゃがみこむ気配を感じた。
 ぽん、頭に乗せられた手のひらが、少し乱暴な手つきでなでなでする。

 ……怒ってない、のかな?

 そろりと顔を見上げてみる。
 その先に、何故か私から顔を背けている先生の姿があった。
 その横顔が少しだけ赤く染まっていて、予想だにしていなかった反応に、私はきょとんとしてしまう。


「………くそ、俺を煽る天才かよ」


 ぽつんと呟かれた言葉は、小さすぎて私の耳には届かない。

「……せんせ…?」
「何でもないよ」

 不安げに見上げる私に、先生は何事もなかったかのように、優しく微笑みかけてくれる。
 普段と変わらない、穏やかな先生。
 でも心なしか機嫌が良さそうにも見えて、私は小首を傾げた。
 この時、先生が何を思っていたのかなんて、私には全く予想できなくて。先生に愛想をつかされていなかった事に、ただただ安堵していた。

「俺のシャツ着てみたかったの?」
「……は、い」
「香坂は可愛い事するね」

 そう言いながら、先生は足下でじゃれていたかき揚げ丼を抱き上げた。私を残して、静かにその場を離れていく。目で追えば、リビングの端っこに置いてある丸いゲージに、かき揚げ丼を入れていた。
 カチン、としっかり鍵を締めて、また私の方へと戻ってくる。依然として土下座状態の私に手を伸ばし、引っ張られて立たせてくれた。

 と、思った直後。

「えっ、あ……わあ!?」

 急に身を屈めた先生が、私の膝裏に腕を伸ばしてきた。
 そのまま、体ごと持ち上げられる。
 床に足がつかなくなって、慌てて先生の胸にしがみついた。

 こ、これはいわゆる、お姫さま抱っこですか。

「……お姫様だっこ初めてです」
「俺も初めてした」
「重くないですか?」
「全然?」

 むしろ軽すぎる、なんて言いながら、先生は壁スイッチに手を伸ばした。
 機械音が鳴って、周囲が暗闇に包まれる。
 もしかして、もう帰るつもりなのかな。
 いつもは21時くらいにマンションを出るのに、今日はまだ20時にもなっていない。もうお別れなのかと思うと、途端に寂しさがこみ上げる。
 でも先生の足は、玄関とは真逆の方へと歩みを進めた。

 あれ?

「……先生、どこいくの?」
「ベッドのあるお部屋です」
「………」

 …………ベッド。

「ふえ!?」
「あ。こら、暴れない」
「わっ」

 急に動いてしまったから、バランスを崩して落ちそうになる。咄嗟に先生の首に腕を巻き付けて、落下を阻止。
 しがみついたまま口を閉ざす私を気にかける様子もなく、辿り着いた部屋のドアをトン、と先生の足が開けた。

 部屋に入った途端、間接照明がパッと照らし出す。初めて入った先生の寝室は、やっぱり無駄なインテリアがない簡素な空間。毛布が敷いてあるベッドへと、静かに体を下ろされた。

「なな、なんで、ベッドに」
「ん? うん」
「………」
「………」

 ………な、流されました。

mae表紙tugi

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