キスのお話。1


「……やっぱり」
「?」
「ホワイトデーっぽいこと、したいね」

 ぽつりと漏れた呟きに、私は目を丸くした。





 初めて先生の部屋を訪れた、その数日後のこと。仕事帰り、車で迎えに来てくれた先生と、一緒に夕飯を食べに行きました。
 私は卒業してからも実家暮らしを続けていて、今日の帰りも、先生が家まで送ってくれる予定だった。
 でもお店を出たら、時間はまだ19時。
 門限(?)の21時より、かなり早い。
 もう少しだけ一緒にいたいなあって思っていた矢先、先生から「部屋に寄る?」って誘われた。
 嬉しくて、うん、と勢いよく頷いた私に、柔らかい笑みを浮かべながら頭ぽんぽんしてくれた先生は、今日も優しい。
 そして、先生の部屋に置いてある2人掛けソファーでくつろいでいた時に、この話を切り出された。
 ホワイトデーの件は、私の中では終わったものだと認識していたけれど。どうやら、先生の中では違ったみたい。



 先日の話をぶり返されて、ぱちぱちと目を瞬かせている私を、先生はまるで猫のようにヒョイ、と両手で抱きかかえた。
 そして、私を膝の上に座らせる。
 今日は後ろ抱きじゃなくて、向かい合っているような状態。ちょっと視線を下に落とせば、目と鼻の先に先生の綺麗な顔がある。
 思わず赤面してしまった私の頬に、ぴたりと手のひらが触れた。あったかい。

「香坂、いいものあげる」
「……いいもの?」
「うん。あーん、ってして?」
「……あ、あーん……」

 言われるままに、控えめに口を開く。
 頬に触れていた手が唇へと滑り、口の中に、何かをポイッとされた。
 ころころと、舌の上で転がる物体。
 小さくて丸い、子供が大好きなお菓子。

「あまい……」
「グレープフルーツ味です」
「おいしー」

 溢れる蜜が美味しくて、私はニマニマ幸せな気分に浸っちゃう。飴玉ひとつで、こんなに喜んじゃう私は単純かもしれないけど、でもそれは、先生から貰ったものだから。違う誰かから貰うものと、先生から貰うものとでは、嬉しさの度合いは全く違う。好きな人から貰ったものはいつだって特別で、何だって嬉しいんです。

 先生と一緒にいられるのが幸せで、思わぬ形で貰ったホワイトデーのお返しは、とっても甘くて美味しくて。
 さっきから頬が緩みっぱなしの私は、この時、先生が密かにほくそ笑んでいた事に全く気付いていなかった。
 先生が飴玉をくれた、本当の狙いにすら気付けなくて、口の中いっぱいに広がる甘味を、ただ素直に堪能していた。

「俺も食べようかな」
「う?」
「あ、でももう手持ちが無いんだった」
「あら」
「香坂のちょうだい」
「え、どうやって、」

 そこで、ぴたりと思考が止まる。
 体も硬直する。
 先生の言おうとしている事が瞬時にわかってしまった私の顔は、ぼんっ! と、茹でダコのように真っ赤に染まった。

 一方の先生は、優しい笑みを保ったまま。
 でも私は知っている。
 この笑みは、裏のある笑顔。
 その証拠に、先生の両腕がいつの間にか、私の腰に回っている。がっちりホールドしていて動けない。
 これは多分、逃げられないやつ。

「せっ……、先生いじわるです」
「そんなことないです」
「ありますっ」
「くれないの?」
「こ、これ私の飴です」
「でもあげたの俺だよ」
「もう食べちゃったもん」
「あれ、じゃあこれは何?」

 謎の膨らみができている右のほっぺを、人差し指でツンツンされる。その正体に気づいた、ううん、もう最初から気付いていた先生の顔が、楽しげに笑った。
 速攻で嘘がバレちゃった。

「ほら、香坂」
「……どうしても?」
「うん、どうしても。……ね?」

 上目遣いでお願いするあたり、大変あざとい。
 そんな、甘ったるい顔と声でお願いしないでほしいです。
 勿論、先生の望むことは何だってしたいと思ってる。
 でも、自分から、

 き、
 キ……
 キス……(小声)とか。
 絶対に無理です。恥ずかしいです。

 しかも先生が言ってるのは、その。
 く、口移し、の事だ。
 今まで男の子と付き合ったこともなく、ましてやキスの経験すら乏しい私に、そんな難易度の高い行為ができるはずがない。



 ───キス自体は、初めてじゃない。
 先生と想いが通じた日に、先生がたくさん優しいキスをくれたから。
 でも、あの日の私はまだ、「生徒」だった。
 だからあの日以降、「生徒」と「教師」の関係を、私達は頑なに守ってきたんだ。
 キスも、手を繋ぐことも一切なし。
 卒業するまで恋人らしい事はしない、そう2人で決めたから。
 あの日のキスから、もう数ヶ月以上が経っている。先生に触れる事すら久々で、ドキドキしすぎて心臓壊れちゃいそうなのに、その上自分からキスなんてしたら、一体私はどうなっちゃうの。
 爆発するかもしれない。

「……先生」
「ん?」
「あ、あの。飴ちゃん欲しいなら、私、今からコンビニに行って買ってきます」
「………」

 先生が笑顔を保ったまま、フリーズした。
 そうさせたのは、私だけど。
 わかってるの、先生が望んでるのは飴じゃないってことくらい。

 私は先生の彼女になったんだから、キスくらい、普通にしたい。でも、やっぱり自分からなんて、まだ無理だ。恥ずかしくてたまらない。
 なんとか難を逃れようと、苦しい言い訳を主張する。そして膝から降りようとした時、突然手首を掴まれた。
 グイッと引き寄せられて、先生の胸に正面衝突。そして体がぐるんと回転した。

「──えっ」

 視界が巡る。
 一瞬の浮遊感。
 反射的に目を閉じてしまった私の背中に、ぽすんと柔らかい質感が伝わった。
 ソファーに身が沈んでいく感覚が襲う。
 薄く目を開けば、目の前には白い天井と、私を見下ろす先生の顔。

「せ、」
「逃がさないよ?」

mae表紙tugi

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