一夜限りの男、見つけました。2 「ん?」 その呻き声にはた、と立ち止まる。 そこで気づいた。 背後にある、人の気配に。 嫌な予感がして後ろを振り向けば。 「……うわ」 真後ろに男がいた。 スーツ姿を見る限り、会社員っぽい。 私より頭ひとつ分高い背丈。 顔は逆光が邪魔をしてよく見えなかった。 「すみません、大丈夫ですか」 一歩後ずさって頭を下げれば、彼の靴が見える。 この人が立っているのは、私の斜め後ろ側。きっと、前方で歩いていた私を追い抜こうとしていたんだろう。 でも、運悪く私の拳と接触してしまった。 不慮の事故とはいえ、大の男をグーで殴ってしまった。申し訳なさすぎる。 「……大丈夫です」 一拍置いて、頭上から低い声が落ちた。 でも、大丈夫なわけがない。 結構な勢いでパンチしてしまったのだ。 ほら、心なしかお兄さんのほっぺも赤く染まって…………、 ……あれ? 異変に気付いて、お兄さんの顔を凝視する。 顔というより、逆光のせいで薄暗く見えてしまう彼の、左頬に。 「何か?」 「あ、いえ……」 言い淀んでしまったのには訳がある。 私がお兄さんにパンチングしてしまったのは、右頬だ。 でも、お兄さんのほっぺが赤く腫れ上がっていたのは、左頬。明らかに誰かに平手打ちされたような跡がある。 頬にビンタされた印を残す男が、こんな早朝に、この通りを歩いている意味。 その事情は探らない方がいいんだろうな。 そう思って顔を上げる。 「……あ」 その時になって、やっと、男の顔が見えた。 綺麗に切り揃えられた髪。 長い睫毛に、すっと通った鼻筋。 覗く瞳は透き通ったコバルトブルー。 恐ろしいほど顔のパーツが整っている。 間違いなくイケメン。イケメンだけど…… この人、ハーフ? 「あの」 彼に詫びたら、すぐこの場を立ち去る予定だったけれど……、 やめた。 俄然、この人に興味が沸いた。 「今、お時間大丈夫ですか?」 「え?」 「ちょっと、来て下さい」 「え、おい」 問答無用で手首を掴んで歩き出せば、後方から不満げな声が耳に届いた。 その呼び掛けには応じず、近くにある公園に足を踏み入れる。一度お兄さんから離れて、水飲み場へ走った。 バッグから取り出したのは花柄のハンカチ。 水で濡らしてから、彼の元へと戻る。 「ほっぺ、冷やした方がいいですよ。見事なもみじになってるから」 なんとも痛ましい姿の彼に、濡らしたハンカチを差し出した。 頬の事には触れて欲しくなかったんだろう、気まずそうな表情を浮かべている。 とはいえ、赤く腫れあがった状態を放置するわけにもいかず、彼は大人しく、私からハンカチを受け取った。 そのまま、左頬に当てる。 「……悪い」 「いえ。それより、座りません?」 朗らかな笑顔を向けながら、真横にあるベンチを指差した。 ここでもし彼に断られて逃げられてしまっては困るので、彼の返事も待たず、先に私が座る。 疑わしげな視線を私に向けながら、彼も渋々といった感じで隣に移動した。 よしよし。 第一関門は突破した。 「お兄さん、今から会社?」 そんな訳ないだろうと思いつつ尋ねてみる。 案の定、首を振られた。 「いや、家に帰る途中」 「この辺りに住んでるんですか?」 「まあ、一応」 微妙な返答で濁されたのは、私に対する警戒心から来るものなのか。 さっきから感じ悪いし、ずっと無愛想で不機嫌な様を隠そうともしない。 見ず知らずの女にいきなりグーパンされた挙げ句、プライベートな事を根掘り葉掘り聞かされようとしているんだ、機嫌が良いはずはない。 「ほっぺ、痛そうですね」 そう発言してみれば、不快そうに顔を歪ませた。 冷たい印象を受ける吊り目が更に吊り上がり、私への嫌悪感が滲み出ている。 イケメンなのにもったいないなあ。 余程、頬のもみじ事情には触れてほしくないらしい。 「女の子に振られたの?」 核心を突けば、彼の纏う空気が変わる。 ひやりと冷たい邪気が私を襲った。 「……何なんだよ。人のこと検索するのがアンタの趣味か」 お。地が出始めた。 「そういう訳じゃないけど、お兄さんに関しては別かな」 なんて、わざとらしいにも程がある。 かなり胡散臭い顔をされた。 でも、この態度も想定内だから気にしない。 「私でよかったら慰められるけど、どうかな」 覗き込むように、下から彼を見上げてみる。 口調はあくまでお願いする形で。上から目線ではいけない。 私の一言に込められた誘いの意味に、彼もどうやら気付いたようだった。気づかないほど鈍感ではなかったようで、そこだけは安心する。 胡散臭そうな表情は変わらず。 だけど私に対する嫌悪感は、その瞬間、僅かに薄れた。 つくづく男は単純な生き物だと実感する。 もう一押しかな、そう判断して彼に身を寄せた。 「お兄さん素敵だし、私好みだから」 さりげなく彼の足に触れてみる。 自分に好意を寄せる女からのボディタッチに、相手が満更でもなさそうな態度であれば、この後は大抵上手くいく。嫌悪感を出されたら、誘いを断られることが多い。 そして彼の場合は、どうやら前者のようだ。 はあ、と小さくため息をついてから、鞄から名刺ケースとボールペンを取り出している。中から名刺を1枚取り出してひっくり返し、裏面にペンを走らせている。 そして、無言のまま私に差し出してきた。 投げやりに託されたそれを受け取って、書き込まれた文字列を眺めてみる。 マンションらしき名前と簡素な住所、部屋番号が記載されていた。 ………いきなり部屋のお誘いかよ。 「今日、来れる?」 「勿論。何時頃に行けばいい?」 「むしろ何時に来れる?」 「20時頃なら大丈夫かな」 「じゃあ、待ってる。……あ、」 「ん?」 「アンタ、歳いくつ」 「21」 「じゃあ、大丈夫か」 彼の肩から力が抜ける。 未成年かどうかの確認をする辺り、中身はわりと生真面目な人間なのかもしれない。 けど、案外すんなりと上手くいったのは驚きだった。 自分の中で、勝算は五分五分だったから。 彼の頬に出来たもみじ事情が女関連なのは、何となく察しがついた。 彼女に振られたのか、もしくは喧嘩したのか。どちらかなのかはまだ判断ができない。 今わかるのは、この人が女と遊び慣れていない事だ。 この無愛想な態度に、睨みつけるような鋭い視線。普段から遊び慣れている奴の雰囲気じゃない。 それなのに、私の誘いに乗った。 自棄を起こしているのかもしれない。 普段の私であれば、この場合はスルーする。 彼女がいるかもしれない男には関わらない。それが自分で決めたルールだから。 そして、それは目の前の彼にも適用される。 でも、彼の綺麗な顔と、その頬に残る跡を見て気が変わった。 もし彼が彼女と別れた後であれば、ルール適用外な訳で、私が美味しく頂いても問題ないわけで。 その辺の情報は、今晩、もう一度聞き出さなければならないけれど。 ……でも、まあ多分、振られたんだろう。 女の勘がそう言っている。 「それじゃあ、また後でね」 「ああ」 ハンカチを返してもらった後、彼とは公園で別れた。互いに向かう道は同じ方角だったけど、私は違う歩道を突き進んだ。 受け取った名刺をためすつがめず眺めてみる。 カタカナだらけの企業名に、部署名。 そして、名前が印字されていた。 「卯月……うづき、きょういち」 卯月恭一。 どう見ても日本人名だ。 でも、あの綺麗な青い瞳は日本人のものとは違う。 「にしても……部屋かあ」 できればラブホが良かった。 安全だから。 ちょっと早まったかなあ、と反省する。 私が、男を部屋に寄せ付けないのと同じように、私も男の部屋へは絶対に行かない。 男と遊ぶのはあくまでも、遊び。 深入りはしない。 プライベートな空間に足を踏み入れない。 だから、部屋には行かない。 それに一度だけ、危ない目にもあったから。 数年前、少しだけ気を許してしまった男に誘われて部屋にお邪魔したら、そこにいた彼の友達らしき男数人に、襲われかけた事があった。 生憎私は、剣道に柔道、合気道の有段者という隠れスキルを持っている。男数人に襲われようが、余裕で張っ倒せる自信もある。実際、その場で全員叩き潰した。 とはいえ、恐怖が無かった訳じゃないんだ。 怖い思いをしたから、あれ以来、男の部屋には行かない事を徹底してる。 それでも男遊びをやめない辺り、自分は相当頭イカれてるな、って思うけど。 「うーん……まあ、いいや」 あの人が、そんな乱暴を働くとは思えない。 それでも、もし何かあれば逃げればいい。 それが出来るだけのスキルと経験が私にはある。 今日はどこで男を漁ろうかな、なんて考えていたけれど、一夜限りの遊びにはもってこいの相手になるかもしれない。 そう思っていた私はこの日、ずっと浮かれ気分のまま、約束までの時間を過ごした。 トップページ |