なんか、寂しい。2


 くまちゃんを抱いたまま、勢いよく起き上がる。
 玄関扉を凝視する私の前で、もう一度チャイムが鳴った。

 こんな早朝に、私の部屋を訪れる人。
 思い当たる人物は一人しかいない。
 タケくん達は私がどこに住んでいるかなんて知らないし、同性の友達なら、ラインなり電話で先に連絡がくるはずだ。こんな早朝に、連絡なしで来る子はいない。
 そして宅配物が届く予定もない。
 唯一可能性があるのは大家さんだけど、彼女は部屋に訪問する前に電話で連絡が来る。勿論、そんな連絡は受けていない。
 残りの可能性を考えたら、一人しか思い浮かばなかった。

 でも、なんで?

 私の腕から飛び降りたくまちゃんは、尻尾をぶんぶん振りながら全力で玄関まで駆けていく。前足で扉を引っ掻きながら、「ここ開けて」って私に訴えてくる。
 居留守を決め込む訳にもいかなくて、私は腰を上げた。

 恐る恐る、扉に近づいていく。
 でも直前で、足が止まってしまった。
 心臓がばくばくと波を打つ。
 様々な感情が、胸の中で怒濤に渦を巻いた。

 何で来てくれたんだろう。
 私、忘れ物したっけ?
 追いかけてきてくれたの?
 やっばり怒ってる、よね?
 恐怖と罪悪感が胸を支配して、躊躇してしまう。

「奈々」

 分厚い鉄の向こうから聞こえた、聞き慣れた声。
 びくりと肩が跳ねる。

「そこにいるんだろ。開けろ」
「…………」
「怒ってねーから」
「…………」

 ……声がめちゃめちゃ怒っていらっしゃる。

 足がすくむ。
 どうするべきなのかわからない。
 無言を決め込む私に、重いため息が聞こえた。

「……3秒以内に開けろ。じゃないとドア蹴り倒す」
「へ」
「はいさーん、にー……」

 ガチャン。
 開けました。

「……よぉ、奈々チャン」
「……う、うづき、さん」

 卯月さん。
 卯月さんだ。
 卯月さんがいる。
 目の前に、会いたかった人がいる。

 扉の先で待ち構えていた彼は、しかめっ面のままその場に立っていた。
 綺麗な髪がくしゃくしゃに乱れていて、急いで着たのか、服がよれよれになっている。
 肩で息をしていて、呼吸も浅い。
 普段の彼からは想像もできない、取り乱した後の姿。
 そんな卯月さんを目にした瞬間、張り詰めていた緊張がぷつりと切れた。

 目頭が熱くなっていく。
 もう会えないかもしれない、嫌われたかもしれない、そう思って沈んでいた矢先に出会えた。
 走って追いかけてきてくれた。
 それだけでもう、感動で胸がいっぱいになる。
 込み上げて来る何かに押されるように、私は身を乗り出した。
 勢いよく卯月さんに抱きつけば、卯月さんも私を抱き留めてくれる。両腕が腰に回されて、そのまま引き寄せられた。
 私も逆らうことなく、彼の胸に額を押し付ける。
 色んな感情が次から次へと、涙と一緒に溢れ出す。

「ふええぇ」
「ピーピー泣くくらいなら最初から逃げてんじゃねえよ」
「ごめんなさいいいぃ」
「……目覚めたらいねーし、私物全部無くなってるし。ビビっただろうが」

 卯月さんの声が優しくなって、それがまた、私の涙を誘う。
 ぽろぽろと零れ落ちる雫を拭うこともできず、私はただ泣き続けた。
 あやすように背中を撫でる手つきと、広い胸と卯月さんの息づかい、その全てに包まれて、安心感が広がっていく。

「……というか、中入れて。寒い」
「う、ハイ」
「あと離れろ」
「ふえ、やだ」
「やだ、じゃない。大型犬と小型犬に抱きつかれてるから重いんだよ」

 その不満そうな声に、視線を下に落とす。
 卯月さんの足元では、くまちゃんがしがみついたり走り回ったりしていた。
 遊んで遊んでって、前足でねだってる。

「後でな」

 卯月さんの手が、くまちゃんの頭を撫でる。
 くまちゃんも卯月さんに会えて嬉しそう。
 私が場所を避ければ、彼はすぐ部屋の中へと入ってきた。

「……さみぃ」
「あ……暖房入れてなかった」

 指摘されて初めて、肌寒さを感じた。
 空気の冷える11月、さすがに暖房なしの室内は凍える。

「いや、帰ってきてから結構時間たってるだろ。何してたんだよ」
「か、考え事してた」
「何を」
「……う、卯月さんのこと」
「………」

 彼が真顔のまま、私を凝視する。
 もしかして私は今、とてつもなく恥ずかしい事を言ってしまったのではないだろうか。
 気恥ずかしくなって俯いてしまう。
 卯月さんも同様に、そっぽを向いてしまった。アホ、とお決まりの台詞も付け加えて。
 いつもと同じやり取りに、ホッとしてる自分がいた。

 部屋の暖房をつけた後、コーヒーの準備をする。
 卯月さんは甘党で、砂糖にミルクは当たり前の人。たっぷり注いでからスプーンでかき混ぜれば、甘い香りがほんのりと漂ってきた。
 体に残る疲労が薄らいでいくような感覚がする。
 2つ分のコーヒーを用意してから、彼の待つリビングへと戻った。

 テーブルを挟んで、卯月さんと私。
 そして私の腕の中には、くまちゃんがいる。
 私からコーヒーカップを受け取った卯月さんは、一口つけてから「おいしい」と呟いた。

「奈々」
「はい」
「俺が、何でここに来たかわかるか」
「……お、怒る、ため?」
「まあ怒りたい気持ちもあるけどな」
「え、えと」
「……お前、俺のことどう思ってんの」

 顔を上げれば、真摯な眼差しとぶつかった。

「それを聞きに来た」

 率直に告げられた言葉に固まってしまう。
 それは、つまり。
 昨日の告白の返事を聞きたい……って、こと?

「……あの、わたし」
「うん」

 何かを言おうとして、口を閉ざす。
 何を言ったらいいのかわからなくなった。
 何も言葉が見つからない。
 伝えたいことは、たくさんあるはずなのに。
 私、卯月さんのこと、異性としてどう思ってるんだろう。
 考えても考えても、わからない。
 答えが出てこない。

「私、卯月さんのことは」
「………」
「………正直、わかんないです」
「わからない?」
「はい……それしか今は言えなくて」

 なんて曖昧な返事だろうと思う。
 卯月さんもそう思ったんだろう、微妙な顔つきになってる。
 でも必死で考えても、私の卯月さんに対する想いが何なのか、言葉が浮かんでこなかった。
 だから、何も言えなくて。

 嫌いじゃない。むしろ好き。
 でも恋じゃなくて友情に近い気がする。
 それでも、会えなくなるのは嫌。
 一緒にいたい。
 今まで通り、普通に会いたい。

 一晩限りの相手にしてもらおうって思っていたけれど、彼と一緒にいる時間はとても楽しくて、この日々を手放すのが嫌になった。
 彼が特別な存在だという意識はあまりなくて、例えば卯月さんに恋人ができるのが嫌だとか、私だけ見てほしいとか、そういう欲は、今のところ胸に沸いてこない。
 今言えるのは、本当に、これだけだ。

 重い沈黙が落ちる。
 私の話を黙って聞いていた卯月さんは、ゆっくり瞬きを繰り返してから、口を開いた。

「……たとえばさ」
「……?」
「俺と一緒にいる事を条件に、今まで遊んできた男全員捨てろって俺が言ったら、お前、できるか」
「え……」

 タケくん達と、もう遊べなくなるってこと?

「俺はもう、お前のこと、特別な存在として見てるから」
「………」
「俺とも会って、他の男にも会うとか、その他大勢の一人として扱われるなら、俺はもうお前とは会わない」
「………卯月、さん」

 ―――お前とは会わない。
 その言葉に、切り裂かれたような痛みが胸に走った。

「お前には、俺だけ見てほしいんだよ」

 決定的な言葉に心臓が跳ねる。
 顔を上げれば、卯月さんも私を見ていた。
 恥ずかしいのに、目を逸らせない。
 逸らしちゃいけない気がした。

「………それは」
「うん」
「……もう少し、待ってほしいです」
「………」

 卯月さんの言うことは、最もだと思う。

 男遊びをやめて彼だけを選ぶか、彼と離れて元の生活に戻るか。
 答えはもう、私の中に出てる。
 迷いもなかった。

 でも、私が卯月さんといる時間を楽しいと思っていたように、タケくんや他の人達と一緒に過ごす時間もやっぱり、楽しかった。
 身体だけの繋がりだったとしても、遊びだったとしても、私にとってはみんな、大事な友達だから。
 捨てる、なんて簡単な言葉で終わらせたくなかった。

「みんなに、ちゃんと話したい」
「………」
「一緒にいたい人ができたこと、話さないと」
「……何のために?」
「わたし自身の、ために」

 今まで、本当に自由奔放に生きてきた。
 自分の恵まれた容姿や顔を利用して、好き放題、勝手に生きてきた。
 だから、この日々を手放すことに不安がある。
 今までとは比べ物にならないくらい、窮屈な思いをする事になるかもしれない。一人の男だけ、なんて私には絶対に無理だと思っていたのに、私は今、その無理だと思っていた道を選ぼうとしてる。
 でも、悩んでも結局、この人と一緒にいたい望みは変わらない。
 もし卯月さんと離れて今まで通りの生活を選んでしまったら、私は絶対、後悔する。
 根拠もないのに、確信があった。

「……もうひとつ聞きたいんだけど」
「……?」

 その一言に顔を上げる。
 酷く深刻そうな表情を浮かべながら、卯月さんは私に視線を向けてくる。

「俺に抱かれて、嫌だったか」
「うっ」

 思わず言葉が詰まる。
 できれば昨晩のことは聞かれたくなかった。

「どうなんだよ」
「なんでそんな事知りたいの」
「気になるだろ」
「なんで」
「また抱きたいからだよ」

 ふぎゃ、と変な悲鳴が漏れた。
 卯月さんらしかぬ破廉恥な発言に、私は大いに焦りまくっている。

「う、卯月さん、えっち」
「誰のせいだよ」
「え、私のせいなの?」
「当たり前だろうが」
「えー……」

 そうなの?
 いや、そうなのか。
 今まで散々、一度きりでいいから抱いて抱いてって彼にせがんでいたのは、私の方だ。

「それより答えろ」
「………」
「……嫌だったのか」
「ち、ちがうけど」

 落胆したような声音に、慌てて否定する。

 嫌じゃなかった。
 実際、すごく気持ちよかった。
 でも、同時に怖かった。
 卯月さんの抱き方は、私の望んでいた抱き方じゃなかったし、私の好きなセックスでもなかった。
 なのに、あんなにも乱れてしまった。
 理性を保てなくなるくらい、彼が与えてくれる快楽に溺れた。
 それが、怖いと思った。
 彼のテクが凄かったという話じゃない。そういう次元の話じゃない。
 そうじゃなくて、明らかに、他の人達がしてきた行為と彼の行為は違っていた。

 何が違うのか、自分でもよくわからない。
 今までだって、無我夢中になれるセックスはたくさんしてきた。
 でも卯月さんの抱き方は、今まで感じたことがないくらい気持ちよくて、身体以上に、心が震えた。
 あの感覚を、どう表現したらいいのかわからない。
 上手く言葉にできない事がもどかしい。
 それを素直に告げてみれば、彼の眉間に皺が酔った。
 そして、

「アホか」

 と、ピコピコと音が鳴るハンマーで、ぴこん! と頭を打ちこんできた。わりと、容赦ない力で。

 友達とお祭りへ行った時、何かのゲームで当てたピコピコハンマー。卯月さんの、最近のお気に入り。もっぱら、私のボケにツッコミを入れる際に多く活用されている。

 おもちゃとはいえ、勢いよくピコピコされたらそれなりに痛いものだ。
 痛みに悶える私を心配そうに見上げているくまちゃんは、腕の中で大人しく、事の成り行きを見守っている。

「うう……なにするの……」

 なんで殴られたのかわからない私は、彼に悪態をつくしかない。

「AVと一緒にすんなよ」
「え」
「どんだけ雑なセックスしてきたんだよ、今まで」
「……え……?」

 思わず目をぱちくりさせる。

「ざ、雑?」

 卯月さんの一言に固まった。
 そんな風に言われたのは、初めてだったから。
 雑とか、今までそんな風に思ったことはない。
 そもそもセックスに雑とか丁寧とかあるの?

「マジかお前……」
「え、え? なんかマズイの?」

 卯月さんが頭を抱えてる。
 どうやら私は、セックスの概念そのものから普通じゃないみたいだ。
 でも、どのへんが普通じゃないのかはさっぱりだ。

「……嫌ではなかったんだな?」

 さっき受けた問いかけを、もう一度繰り返される。雑云々の話は、一旦横に置いておくらしい。
 こくん、と頷けば、卯月さんも安堵の息を漏らした。

 卯月さんと離れたくない。
 その思いだけは、はっきりと自覚してる。
 彼と一緒にいる為に、タケくん達にちゃんと話さなきゃ。一緒にいたい人ができたこと。
 そこまで突き動かす感情が恋愛なのか、それとも友情なのかはわからないけれど、彼と過ごす時間も彼が向けてくる想いも、私は手放したくないみたいだ。
 だから、今まで気ままに遊んできた時間を、今度はこの人と一緒に過ごす時間に変えたい。
 そう思ってること、伝えなきゃ。

 今まで散々遊んできたくせに何を今更、なんて罵られるだろうか。
 でも、タケくんなら理解して貰えるような気がした。

「卯月さん」
「ん?」
「あの、私達、お付き合いする事になるの?」

 以前、卯月さんは言ってた。好きな人じゃないと抱けないって。
 それほど堂々と言ってのけたんだ、交際もしていない子と身体を重ねるなんて、卯月さんの性格上しないはずだ。
 まあ昨日は……しちゃったけど。
 でも、きっとあれは一度きりだ。
 私が卯月さんを好きだって言う日まで、この人はもう、私に手を出してこない。
 卯月さんは、筋は通す人だ。

「……そうなれれば、とは思ってる」
「………」
「奈々」
「………はい」
「俺と付き合って」

 はっきりと交際を申し込まれた。
 今度はちゃんと、付き合いたい意思を言葉にしてくれた。
 頬が熱くなる。
 鼓動が早い。
 くまちゃんを抱く腕がぎゅう、と強くなる。

 今ここで頷けば、卯月さんと一緒にいられる。
 恋愛感情を抱いているのかもわからないのに、一緒にいたいからという理由だけでお付き合いしてもいいのかな、と思う気持ちもある。
 私はまだ学生で、卯月さんは25歳。
 結婚を視野にいれて考えなければならないような適齢期でもないし、もしこのお付き合いが失敗しても、若い私達には、まだ次がある。
 彼の事を軽く考えてる訳じゃないけれど、数ある選択肢の中で、彼とお付き合いをする事を視野にいれてもいいんじゃないかと、今はそう思えてきた。
 見方を変えたり視野を広げれば、今まで見えていなかったものも、いずれ形となって見えてくるかもしれない。

「……よろしくお願いします」

 ぺこ、と浅く頭を下げる。
 彼の交際の申し込みに、私は頷いた。

「………こちらこそ」

 彼の低音が耳に届いた。
 妙に照れくさくて、顔が上げられない。
 ずっと俯いていると、テーブル越しに伸びてきた彼の指先が、私の髪を掬った。

 ビックリして肩が跳ねる。
 卯月さんは苦笑しながら、今度は耳朶に触れてくる。
 なんで突然触ってきたのかわからない私は、ただ困惑するしかない。

「……耳まで、真っ赤」

 どこか艶めいた響きに胸が高鳴る。

「そんなに意識されると苛めたくなる」
「っえ、」
「もうさ、俺の事が好きってことでいいんじゃねえの?」
「い、いくない」

 必死に声を絞り出すだけで精一杯だった。

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