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謎のアンクレット発見騒動があった日の夜。


早い時間だが、カノンは早々とベッドにもぐり込んでいた。
いろいろあって疲れていた体はすぐに眠りに落ち、今カノンは不思議な夢を見ていた。




ふわふわと宙に浮いているような感覚。

ふと、カノンが目を開けると、上にはオーガンジー生地のような半透明の布が見えた。
その布は美しいドレープを作り出している。おそらくベッドの天蓋部分だろう。

カノンが次に感じたのは、真綿に乗っているような心地良さだった。
そのベッドはふかふかで弾力があって、肌に触れている部分は水のようになめらかだ。
そして石鹸と花の、とても良い香りがする。彼女はシーツに顔をうずめてその香りを楽しんだ。


しばらくそうしていただろうか。

夢の中でも半分眠っていたカノンは、誰かに頭を撫でられているような気がした。
そう思うと意識は急にハッキリして行き、カノンは目を開く。すると彼女の真上には、見知らぬ青年の顔があった。



黒い髪は真っ直ぐでさらさらと流れ、光を映してつやつや輝いている。
真っ白な肌は透き通り、どこかアレクセイを思い出させる風貌だ。
そして細くきれいな柳眉の下には、最近良く見るルビーの瞳があった。

青年はカノンと目が合うと、ニコリと笑んだ。




「・・・・・・・・・だれ?」

寝ぼけた声で問うカノンに、撫でる手を止めない青年は、その完璧な風貌によく合う甘い声で囁いた。

「リドル、と呼んで。カノン?」
「なんで・・・私の名前、知ってるの?」
「君の傍にいたからさ」


恋人同士のような甘い空気が流れ、耐えられなくなったカノンが身を起こすと、リドルと名乗った青年はカノンの首筋にキスをおとした。

ちゅ、と微かな音を立てて離れる唇。
その瞬間、カノンは背筋がぞくりと粟立つのを感じた。


「何?」
「別に、キスしただけだよ。」
「ぞっとした」
「ぞくっとした、の間違いでしょ」

首筋から顔を離したあとも、リドルはカノンの手に口づけたり、肩を抱いて髪にキスをしたり、と動きを止めなかった。
至近距離で目を合わせた時に見えた、彼の赤い瞳の中にある扇情的な色。
カノンはそれに眉をゆがめて、リドルの顔を手で押しのけた。


「つれないね?」
「好きでもない男にちゅーちゅー吸われても嬉しくない。離れて」
「君は随分無粋な表現をするね」



冷え切ったカノンの瞳に苛立ったのか、リドルは彼女との距離を一気に詰め、彼女の体をベッドへと倒した。
だがカノンは冷静な表情のまま、眉ひとつ動かさない。


「余裕だね、もしかして結構慣れてる?」
「生憎ながら未経験かな」
「へぇ、それにしては中々大胆だ」

そのまま覆いかぶさるようにして、カノンに顔を近づけるリドル。
互いの唇が触れるか否か、その瞬間、リドルは腹部に強い衝撃を受けた。

ドスッ、と鈍い音で彼の腹にめり込んだのは、カノンの細い膝。
大した力ではないが、鳩尾にクリーンヒットしたようで、リドルは蹴られた部分を押さえて蹲った。


「ぐっ・・・き、君・・・こ、これは、あまりにも・・・嫌なら先に口頭で言って・・・うぇっ・・・」
「私の上に吐かないでよ、汚いから。嫌だって口で言って理解しないから、こういう手段に出たまでだけど」
「だったらもっと全力で嫌がりなよ・・・ああ、恐ろしい」


胃の部分を押さえながらリドルが起き上がった。

だが彼は、今度はカノンに触れず射程範囲外にいる。
カノンはリドルが離れた事を確認すると、再びふかふかのベッドにもぐり込んだ。


「カノン、ねぇ・・・僕を置いて眠るなんてどうかしてるよ、まったく」
「今は寝たいの。寝不足になるとすぐに体調崩すんだから、ちゃんと八時間は寝かせて」
「君は冷たいんだな。僕は君の事が好きで愛おしくてしょうがないのに」

愛の言葉を連ねるリドルに、カノンは顔色を変えずに言い返した。

「私の事を内心で馬鹿にしてるような奴に、愛してるとか言われてもねぇ」
「・・・ふうん?」


リドルをまるで邪魔扱いするカノン。
遂に黙り込んだリドルに追い打ちをかけるように言葉を続ける。

「リドルだっけ? 確かにイケメンだけど、成熟みが足りないからもう十歳年取ってから出直して」

それだけキッパリ言い放つと、カノンは再び眠りについた。
もっとも、ここは既に夢の世界の筈なのだが・・・





***





翌日、カノンが目を覚ますと、まず目が行ったのが天井だった。

そこに白い天蓋はなく、いつも通りの白とブルーの壁紙。
変わらぬ自室の様子に安心したカノンは、ゆっくりと体を起こした。

すると足元から、シャラリ、と聞き慣れない音がした。

そう、あのアンクレットだ。
カノンがアンクレットを引っ張っても、やはりそれは外れない。
半ば諦めていたカノンは特に気に止めず、服を着替えるためにクローゼットを開けた。



「今日はどれにしようかな」

大きなクローゼットを開くと、そこには何十、いや、何百もの夏服があった。

普通のシャツからドレスチックなワンピースまで、とてつもない数の衣裳が揃っている。
ここにある衣服類は全て、トゥーラが用意したものらしい。
あのしもべ妖精は衣服の見立ても良いのか、とカノンは感心していた。

どれも素敵なデザインで、カノンは服を選ぶのが毎朝の楽しみになっていた。


数分悩んだ結果、今日は白地にターコイズブルーのリボンが付いた爽やかなワンピースにした。靴はレースアップのサンダルで、色はブラウン。

そして髪はワンピースと同じブルーのリボンで縛る。
リボンの生地がレーヨン・オーガンジーで、そういえば夢の中のベッドでもこの布地を見たな、と昨日の夢を思い出し嫌な気分になった。


そこでカノンが、ふと思考を止める。
すぐに再始動した脳は、洋服の事では無くあの男の事を考えていた。

――あの男は本当に夢の中の住人だったのか。
――もしかしたら、何らかの媒体を利用して私に干渉したんじゃ。
――だとしたら、一番怪しいのは勿論




「アンクレットが怪しい」
「正解だよ」

カノンの背後から聞こえた男の声。
それはまさしく昨日の夢の青年の声だった。


「リドルだったよね?」
「覚えてくれていたんだね。嬉しいよ」

相変わらず、低く甘い声と美しく整った顔をしている。
だがカノンは依然顔色を変えずにリドルへ話しかけた。



「昨晩会ったばかりの人間の顔を忘れるような、残念な頭だと思ってたの? 失礼だね。それより、リドルは何で私に近づくの? 篭絡しようとしても無駄な事がわかったでしょ、正直に言いなよ」

カノンが言うと、リドルは途端に険しい顔になった。
悔しさ、怒り、そんな感情をぐちゃぐちゃに掻き交ぜたような表情だ。
カノンは少し驚いた顔をしたが、すぐにその表情を笑みに変えた。


「へぇ、そんな顔も出来るんだ。胡散臭い笑顔よりもずっと好感が持てるよ」
「僕がコントロールできない女がいるなんて、驚きだよ。それより君、このアンクレットに妙な呪文を掛けてくれたよね。あれ解いてくれないかなぁ」

鋭い目つきのまま、リドルはカノンに詰め寄る。
だが昨日のように実体があるわけではなく、半透明に近い姿だった。


「解くわけないでしょ。それより、何で透けてるの?」
「答えるつもりは無い」
「んー、文献でよく見るタイプの仕掛けなんだけど、対象から魔力を吸い取るためにこうして身に着けるものに呪いをかけておく闇の魔術。それがリドルの正体?」

カノンの問いかけに、リドルは黙り込んでしまう。図星なのだろうか。
姿が透けてしまっているところを見ると、魔力の吸収・・・それが彼の活きる糧のようだ。


「ふうん・・・魔力を吸い取る、ねぇ。それってまるで寄生虫みたいだね」
「何とでも言うが良いさ。それよりも、早く術を解いてくれないかなぁ。このままじゃあ君の欲しいモノは手に入らないままだよ?」

この一言が決め手なのだろうか、随分と偉そうに言いきったリドル。
カノンはというと"欲しい物"の見当がつかずに疑問符を浮かべている。


「ほしいもの? 今のところ、欲しいものは全部手に入れてるけど」
「・・・・・・へぇ?」
「広くてきれいな家に、沢山の家族、可愛いメイド、山のような洋服に靴にアクセサリー。魔法薬の材料や貴重な本だってこの屋敷には使い切れないほどあるんだよ」
「君は力が欲しいんだろう?」
「力は人に与えられるようなものじゃないと思うけど」




取り付く島もないカノンのいい様に、リドルは完全に思考停止した。

――女のくせに、僕を欲しがらない。
―――おかしな呪文のせいで、魔力を奪えない。
――――おまけに、力も欲しくない、だって?


「じゃあ君は何が欲しいんだ!? 何でも与えてやる!」
「私の欲しいものは、リドルには叶えられないよ」
「へぇ、言ってみなよ」
「本物の両親がほしい。私の事を知っていて、愛してくれて、監督生になったら一緒に喜んでパーティをしてくれるような父と母が欲しい」

真剣な顔で言うカノン。それは彼女がスネイプやダンブルドアにも言ったことのない、正真正銘の本音だった。
こう言ってしまえば、彼らは困るだろう。彼女の望みを叶えることができるものは、この世界には存在しないのだから。

「両親は死んだのかい? なら、蘇らせる方法ならいくらでもある」
「死んでるんだか、生きてるんだか。たとえ蘇ったとしても、その人たちは私を知らない。私も、その人たちを知らない。私がどんな性格の子で、何が得意で、何が苦手なのかもわからない。そんな人は、私が望む親なんかじゃない」

遠くを見つめながら、自分でも諦めがつかなかった感情に結論をつけるカノン。
そして、淡く笑みを浮かべながら「だから、私の望みは誰にも叶えられない」とだけ言った。




カノンを言葉で篭絡するのは無理だと悟った瞬間、リドルは素早く杖を構えた。
額に杖先を突き付けられたカノンだったが、動じることなくサンダルの紐を結びなおした。


「この状況で、やけに冷静だね。僕の陣営に欲しいくらいさ。もっとも、君がもっと従順で謙虚だったらの話だけど」
「ちょっと私、リドルに対して仮説を立ててみたの。聞いてほしいな」


リドルは、カノンの"仮説"をとりあえず聞くつもりらしい。
杖を下すことはせず、視線でカノンの言葉の先を促した。


「まず、今の君は呪文を唱える事はできない。そうでしょう?」
「どうしてそう思うんだい?」
「リドルは今まで何の呪文も唱えてない。さっさと服従の呪文で私を操れば良いのに、それをしない理由って何か? 昨日の夜から、妙に回りくどいと思ってたの」

カノンの言う通り、昨日の夜から今日にかけて随分と時間があったし、隙もあった。
それにも関わらず、カノンは一切の魔法を受けていないのだ。

「そして私が施した保護呪文のせいで魔力の吸収もできない。今の君は、自分が持つ"魅力"や"言葉"しか使う事ができない、マグル以下の無力な存在、そうだろう」

カノンの言葉にギリ、と歯を噛みしめたリドル。どうやらここまではおおよそ合っているらしい。


「昨日のように実体化をすれば、物に触れる事も出来るだろうね。けれどそれには媒体となる魔力が必要不可欠。君は、君自身の力だけでは魔力を吸収する事しかできないんでしょう?」
「自分の都合の良い解釈をするのが得意みたいだね」
「そうかな? 今のリドルは、その甘い声と顔で魔女を籠絡し、輝かしい言葉で魔法使いを陥落する。マグル式で表現すると、そういった『プログラム』なんだろうね」

カノンの言う事が的外れならば、今ここで呪文を使って見せればいい。だが、リドルは否定するだけで呪文を唱えるそぶりを見せない。

「更に推測すると、おそらく君は私から離れる事ができない。そうでしょ? 何故なら、私を陥落する事が不可能と感じた時点で君は撤退している筈。逃げる手立ても無ければ、私から離れる事もできないなんて。なんとも不便だねぇ」


すらすらと言葉を紡ぐカノン。
リドルはそのどれにも明確に反論しなかった。否、できなかった。カノンの推測が全て当たっていたからだ。


「意味のない問答はやめようよ。自分が無力だって大人しく認めて、次の話題に進もう?」
「・・・そうだね、君の推察、成績表だったら文句無しで"優"だよ」
「お褒めに与り光栄です」
「はぁ・・・もういい、標的をよく見定めなかった僕のミスだ」
「まぁ、どうしてもって言うなら実体化させてあげるけど」

諦めてアンクレットの中に戻ろうとしたリドルに投げかけられた言葉。
その瞬間、リドルは再び思考停止して「え?」とだけ返した。

「だから、実体化してもいいよっ、て」
「君、それ本気で言ってるのかい? それとも僕で遊んでる?」
「嘘は嫌いなの。もちろん、タダでとはいかないけど」
「僕に出来る事ならばなんでもするよ」

一筋の希望に、リドルは昨晩の余裕を取り戻したようで、カノンを抱きしめるような動作をした。
だがカノンは、彼の透けた胸の中でなんとも怪しげな笑みを浮かべたのだった。


「それで、僕に何をしてほしいんだい?」
「難しい事じゃないけど、リドルには少し厳しいかもしれないね」
「他人にできて僕に出来ない事があるとでも?」


リドルの言葉を聞いたカノンは、ニィッと口角をつり上げる。
その表情を見たリドルは、背中につぅっと嫌な汗が伝うのを感じた。




「先ずはその綺麗な口で『僕は貴方様の下賤で卑しいペットで御座います。どうかその御口で豚と呼んで下さいませご主人様』って5回言って。それからその場に這いつくばって靴の裏にディープキスしてみて? きっと新しい世界の扉が開くんじゃないかなぁ」

至極楽しげに言い放つカノンに対し、リドルは目と口をこれでもかというくらい開けた。

まさに、『唖然』その言葉が合う表情だった。


「・・・そっ、そんな事を! 僕が、すると思うのか!」
「しないと思ったからさせるんだよ。平然と出来る事をいいつけても面白みの欠片も無いでしょ」
「このサディスティック女め!」

ヒステリックにカノンを指さすリドルに、彼女は今度こそ笑いが耐えきれなくなったようだ。


「あははは、リドル、面白い・・・!」
「僕はまったく面白くもなんともない」
「あー、こんなに笑ったのは久しぶり。良い同居人ができてうれしいよ」


長い髪にブラシをかけ終えたカノンは、晴れ晴れとした笑顔でリドルへと向き合う。


「これからよろしくね、リドル」

その表情はまさしく、いじめる対象を見つけた意地悪なスリザリン生のものだった。







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