13



懲戒尋問の日から数日たったある日、カノンは自室でハリーと向き合っていた。
彼女の部屋の机の上には、レポート作成用の羊皮紙や参考書が散らばっている。


「すっかり忘れてた…一番厄介な薬学のレポートをやってなかった!」

必死の形相でペンを走らせるハリー。

夏休み明けにスネイプの宿題を忘れたとなると、今年一年彼の往く先は"闇"そのものだろう。
どれだけ長期間に渡っていびられ続けるか分かった物ではない。カノンは苦笑を浮かべながら、ハリーの手元を覗きながら言った。

「大丈夫だよ、強化薬はそんなに複雑な薬じゃない。作り方の手順は簡潔に書いて、あとは効能と服用するときの分量。それからロンには熟成期間について書くように言ったけど、それから…」
「ちょ、ちょっと待って! 覚えきれないから、メモする」

半ばパニックになりながらも、カノンの言ったこと全てを書き取るハリー。その視線が、ちらりとカノンの完成したレポートへと向いた。

「言っておくけど、私のレポートを丸写ししても無駄だからね?」
「それは分かってるよ…スネイプが君のレポートと、同じ内容のものを見逃すわけないし」

スネイプ、と彼が呼び捨てた瞬間に、カノンの眉がピクリと跳ね上がる。

「ハリー」
「…スネイプ、先生」
「はい、よろしい」

渋々言い直したハリーににっこりと笑いかけたカノンは、参考書を手に取った。

「まずはここから情報を抜き出して。このページだけで15センチは埋まるから。でも、一冊の参考書の内容だけを写すと教授はここぞとばかりに指摘してくるから気を付けて」
「うん、本の題名も当てられた事があるよ」

記憶にある嫌な叱咤を思い出しながら、ハリーは青い顔で身震いした。

彼といいネビルといい、グリフィンドールには生理的にスネイプを嫌う者が多い。
きっと1年生のころから続くグリフィンドールいびりに、彼らの体は既にアレルギー体質になっているのだろう。
スネイプアレルギー。その単語を思い浮かべて、カノンはひとりで「ふふっ…」と噴き出した。


「…どうしたの?」
「ううん、何でもない。ああ、ここの調合方法は間違ってて、正しくは"右回りに6周半混ぜる"だよ」
「あ、ありがとう」

羽ペンの先を引っかけながらも、ハリーは懸命にレポートを書き進めて行く。
カノンは手持無沙汰なのか、まっさらな羊皮紙を撫でながらなんとなく口を開いた。

「はぁ…早く学校に戻りたい」
「そうだね、僕も夏休みの度にそう思う」

苦笑を浮かべたハリーは、そう言った後におずおずと呟いた。

「でも、シリウスはそう思ってないみたい」
「シリウス?」

そう聞き返したカノンに、ハリーは頷いた。

「僕が学校に戻るのを、喜んでいないみたいなんだ」

ハリーの言葉に、カノンは思い出した。

確かに彼の言うとおり、最近のシリウスは何時にも増して不機嫌で、一人で部屋に居ることが多い。
シリウスの気持ちは十分に分かる。彼が待ち望んだハリーとの生活が、もうすぐ終わろうとしているのだから。
だが、どんな理由にせよハリー自身に心配をかけるのは良くない事だろう。

「そっか…後で声でもかけてみようかな」
「うん、頼むよ」
「そのためにも、早くレポート仕上げてね」
「う…が、頑張る」






***






ハリーとのレポート作成を終えたカノンは、部屋に閉じこもってしまったシリウスのもとへ向かっていた。

いつぞやのように、今度は彼女の手の中に出来立てのサンドイッチがある。
彼の名と同じく黒い扉の前で、カノンが一度立ち止まって扉をノックすると、中からは「入ってくれ」という声が聞こえてきた。

「シリウス、入るよ」
「カノンか? どうしたんだ」
「お昼ご飯持ってきたの、今日は一緒に食べようよ」

古いカバーが掛けられたソファに座ったシリウスがこちらに目を向けている。
大きめの皿に乗った美味しそうなサンドイッチに、彼は薄く笑顔を見せた。

「ああ、有難うな」

その様子を見たカノンは、呆れたようにフーっと鋭くため息を吐く。
シリウスは何故彼女がため息をついたのか、見当もつかないようだ。目をぱちくりとさせて、疑問符を浮かべている。

「シリウス、私には"無理に笑うな"って言ってたくせに、自分はやるの?」
「……お前には、観察力があるな」
「それはどうも」

ニヤッとスネイプのように笑ったカノンが、シリウスの隣へと腰かけた。


「何か、思い出すなぁ」
「何をだ?」
「シリウスを、本物の犬だと思ってた時のこと」

ホグワーツの敷地内で初めて会った時、彼はただのやせ細った可哀想な犬だった。
先学期の末に会った時にはまだ、げっそりと痩せている脱獄囚の姿。
それが今では、脱獄囚という事実こそ変わらないが、健康さを取り戻しつつある男性になっている。

「そうだな、あれからもうすぐ2年だ」
「まさかこんな人を餌付けしてるなんて、思わなかった」
「餌付けか! 確かにその通りだな」

大きな声で豪快に笑うシリウス。今日の機嫌はそこまで悪くは無いようだ。
カノンはそんな様子を見て、思い切って話の本題を切り出した。

「シリウス、ハリーとちゃんと話した?」
「…何をだ?」
「何を、って訳じゃないけど、色々だよ。腰を据えて世間話するのも、中々楽しいんだよ。知ってた?」

それを聞いたシリウスは、苦い顔でそっぽを向いた。

「ハリーは忙しいからな。態々引き留めるのも悪いだろう」
「そういう事言うんだ…」

呆れの混じった声でカノンが言うと、シリウスは彼女をじろりと見る。人の気も知らないで、とでも言いたげな目だ。

「だってさ、ハリーだってシリウスと話したがってるよ。もうすぐ学校に行くからこそ、今のうちに沢山思い出作っておかなくちゃ!」
「思い出?」
「そうだよ。それから、ハリーが学校に行くときは笑顔で手を振ってあげて。子を見送って、出迎えるのが親の役割でしょ?」

カノンの話を聞くシリウスの顔に、先ほどのふてくされたような色はもう無かった。言葉を自らの頭の中で反芻しているようだ。

「見送って、出迎える。そうか…」
「ハリーはさ、ホグワーツが家だって言ってた。でも、ホグワーツ以外にも帰る場所があって良いんじゃないかな」
「帰る場所、ここがか?」

シリウスの顔は、何故こんな汚い家に! と語っていたが、カノンがそれを緩く否定した。

「そうじゃなくて、シリウスが居る所だったらどこでもいいんだよ。待っててくれる人がいるって、本当に心強いんだからさ」
「待ってるこっちは退屈だけどな。そういうのも悪くないか」
「私にとっては、スネイプ教授かな。…そんな嫌そうな顔しないでよ。それから、ミネルバ先生と…たまにしか会えないけど、ダンブルドア先生も」

親代わりとして面倒を見てくれた3人の顔を思い浮かべるカノン。その目は優しく細められて、薄く潤んでいるようにも見える。


「学校に行けば、勿論ハリー達がいる。皆は気に入らないかもしれないけど、ドラコ達だって私の大事な友達。ここだって、確かに嫌な事も多いけど…楽しい事とか、良い事もいくつかあった」
「良い事?」
「うん、シリウスやリーマスと仲良くなれた」

二ヶ月近くの間寝食を共にしただけではなく、彼らとは本音を言い合う事ができた。
それが大きかったのだろう、今ではお互い正直に話ができるようになっていた。

「それから、年の離れた友達も増えたよ。トンクス、ビル、チャーリー…ああ、クリーチャーと、それから大叔母様…は、友達ではないか」
「クリーチャー? 大叔母様?」
「Mrs.ヴァルブルガのこと。そうお呼びなさいって言ってくれたの」

カノンの言葉に目を見開いたシリウスは、彼女を信じられないような目で見つめた。彼女の社交性を甘く見ていたのだろうか。

「良くお前は…そういう連中とも付き合ってられるよな。理解できん」
「そう? お互いに主張を受け入れあえば、反発することはないよ」
「じゃあ、あいつらの純血主義を受け入れんのか? 想像したくはないな」

シリウスはガチガチの純血主義者になったカノンを想像したのだろう。嫌悪感を微塵も隠さずに身震いしてみせた。


「ちょっと、勘違いしてない? 私はあくまで主張を受け入れるだけ。それに染まる事は無いけど、否定せずに"そういう考えもあるんだなー"って。人の価値観なんて大なり小なり違うものでしょ? それはしょうがないよ。私が彼らを否定しなければ、彼らも私を拒絶しない」
「でも、それは所詮上っ面の付き合いって奴だろ」
「うーん…それでも良いんじゃないかな。少なくとも敵対するよりずっと良い。本当に本音で語れる人は、ほんの一握りいれば十分だよ」

そこまで言ったカノンは、最後に笑いながら「まぁ、喧嘩っ早い私が言っても説得力に欠けるんだけどね」と付け加えた。

この歳で随分と達観した人生観を持っているカノンに、シリウスは尊敬交じりの視線を送った。
そして先程までの自分を恥じるように、思い切り頭を掻きまわした。


「何か、俺の方が子供みたいだな…ああ、正直、少し思ったさ。ハリーがこのまま杖を取り上げられたら、これからは一緒に住めるってな。それが後ろめたくて、ハリーや他の連中の事を避けてた」
「うん」

シリウスがぽつりぽつりと紡いでいく言葉を、カノンは静かに聞いた。

「それじゃあ保護者として失格だな。ちゃんと笑って見送ってやるよ」
「そうだね」

先程とは違う、晴れやかで快活な彼本来の笑顔が浮かび上がる。つられるようにカノンの口角も上がっていく。
笑いあった2人は同時に、少し冷めたサンドイッチに向かって手を伸ばした。






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