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「ジュディスちゃん!!!!」
「あら、おじさま…一体どうしたの?」
普段はヘラヘラしている人物が血相を変えて保健室に現れた。
保険医として赴任しているジュディスは声色に不音感を持つ。
放課後は部活で怪我をしたと顧問や他の生徒が付き添って現れることは度々あるが、レイヴンが抱えているのは袴を着ている生徒ではなく、制服姿だ。
様子を見れば気絶しており、その生徒の顔には止血をしようと試みた白い布が血で赤くにじんでいた。
「あら気絶しているのね、とりあえずベッドへ寝かせて頂戴」
「う、うん」
「この子、編入生の子ね。」
「ジュディスちゃんわかるの?」
「えぇ、この子のことは名簿で知っていたわ、それと…」
△△△
目が覚めれば、見慣れない天井。
ここはどこだろう。と首を動かしてあたりを見回そうとすれば、右の頬がピリッと痛んだ。
あぁ、そうだ。私は倒れたのだ。と起き上がろうと身じろぎをすれば、落ち着いた女性の声がカーテンの向こう側から聞こえてくる。
「目が覚めたのね。」
「…はい」
保険医の先生であろう声の主はゆっくりとカーテンを開けた。
スラッとした紫色の髪の女性が微笑んでいた。
「怪我をして倒れたのよ、まだ無理に起き上がるべきじゃないわ」
「でも、帰らないと…」
「だめ、もう少しで迎えがくるから待っていて?」
迎えとは誰のことだろうか。自分には迎えに来てくれる人などいないと言うのに。
押し切ってもこの保険医の先生はここから出してはくれないだろう。と諦めて姫は大人しく座り直した。
せめて、迎えにくるであろう人物を待ってみることにする。
「あの…」
「ジュディスよ、初めましてね。高瀬姫さん?」
「名前…知っているんですね…」
「それはそうよ、先生だもの。ふふふ
あなた、倒れた時のこと覚えているかしら」
「何となくしか覚えていません。ですが…」
「校長先生からは聞いていたけれど、あなた…弓道に対しての恐怖心があるのよね?」
「…はい」
「極度のストレスになると言うのにあなたは無理をしたのね
でも、運ばれて来た時より顔色はいいわ。安心した。」
寂しそうに微笑むジュディスは自分がどう言う経緯で現状を過ごしているかを知っているようだ。
そろそろね。とジュディスが呟くと、廊下の方から走ってくる靴音が聞こえる。
「ジュディスちゃん!姫ちゃん起きた!?」
「ええ、ナイスタイミングよ」
よかったぁ。と眉を下げながらレイヴンはヘニャリと笑った。
ジュディスは不思議な顔をしている姫に、おじさまがあなたをここまで運んで来たのよ?と耳打ちをした。
「それじゃあ、そろそろ保健室も締めるわ。おじさま、ちゃんと送ってあげてね」
「あいあい、あんがとねジュディスちゃん」
「…ジュディス先生ありがとうございました。」
いつでもいらっしゃい。と手を軽く振るジュディスに見送られて、至極当たり前のように自分の荷物を持って歩いていくレイヴンを追いかけた。
△△△
「…ほっぺ痛い?」
先ほどの保健室へ迎えに来た時とレイヴンの態度は一変した。
後部座席に荷物を放り込まれ助手席に座らされ、しばらくの間沈黙のドライブ状態。
信号にとまったのを合図にかレイヴンが口を開いた。
運転席の方を見れば、いつもの笑みはなく口を引き結んで姫を見つめる。
「いえ…、慣れた怪我です。」
「ごめんね、止めてやれなくて。姫ちゃんがなんとなく弓道やってたのは知ってたんだけどさ、倒れるほどショックな心境にいるのは知らなかった。」
「時任さんが言った通りです。私は本当は弓道部に入るつもりでした。」
「そっか…」
レイヴンは無闇に質問や話の強要をせずに運転をしながら耳を傾けた。
姫もこの状況ではもう話さなければなるまい、と早鐘を打つ心臓に手を当てて呟いた。
「…父の影響で弓道を始めました。
父にみっちり扱かれました。それでも中学生になってからずっと好きで弓道を続けていました。
周りからの評価もあって、両親はすごく喜んでくれてたんです。
…中学3年生夏の大会で観覧席に両親も見に来るはずでした。」
けれど、来なかったんです。小さく呟いた。
「可笑しいなぁ、って思ってたんです…。急に来れなくなってもいつも連絡はくれるのに、連絡もなくて…
大会が終わった頃に、顧問の先生に学校から連絡があったんです…。」
”会場に向かう途中で事故にあって即死でした。”
レイヴンが握っていたハンドルを更に強く握りしめた。
まだ16歳の少女が、まだ1年にも満たない自分の過去を物語のようにポツポツと語るのだ。なんとも言えない焦燥に駆られる。
泣いているのでは、と彼女をチラッと覗き見れば、唇を噛み膝の上で手を握りしめ辛うじて涙を堪えていた。
「…私それ以来道具を着けるのも手が震えてままならなくて…あ、でも今日は着けられましたね。久しぶりに弓も引けました。びっくりです!怪我はしちゃいましたけど…
すみません、こんな話聞かされても困りますよね!!ははは…」
「笑わなくていい…辛いこと言わせてごめん。だから無理に笑わないで…」
肉親を失ったことへの悲しみを16歳の少女がたった1年で払拭出来るなんてことはない。
吹っ切れることなどないのだ。
レイヴンはハンドルから片手を離し、姫の手を握った。
その後の車内はとても静かで、少女の嗚咽がたまに響いた。
住んでいるマンションの駐車場に着き、レイヴンは後部座席から自分の荷物と姫の荷物を取り出し、彼女の肩を抱えエレベーターに乗り込んだ。
彼女は嗚咽もおさまりはしたが一向に口を開かず、レイヴンも無理に話しかけることはなかった。
「明日、無理して学校に来なくても大丈夫よ、おっさん上手いことしておくから。
お隣さんなんだから、何かあったらいつでも言ってね。」
コクリと首だけで彼女は頷き、家の中へ入っていく。
「姫ちゃん…、話してくれてありがとうね、おやすみ」
「…ありがとうございました…」
消えてしまいそうなほど小さな声だったがレイヴンにはしっかりと聞こえており、うん。とだけ頷き、姫が玄関の鍵を閉める音を確認する。
隣の自宅の鍵を手に取り玄関を開ける。急に自分に何とも言えない怒りの感情が芽生え、荷物を投げ込み片手で顔を覆う。
ジュディスの口ぶりだと、彼女は姫の事情を少なからず自分より知っていた。
担任で物理的にも一番近い位置にいる生徒の事情を把握出来ていなかった。
過ぎてしまったこととは言え、少しも守ってあげられなかった。
それとはまた違う感情もあることに気がついていた。
彼女のと似た経験を自分も過去にしている。
「なあ、キャナリ…俺なんて言ってやれば良かったんだろ…」
ズキリと胸が痛んだ。
▽▽▽
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