#01 林檎と銀貨 5/6



 理解者だと思っていた人間に裏切られたときのことを、イヴは今でも覚えていた。
 自分の周りを見知らぬ人間たちが囲んでいる。みんなが一様にどろりとした目をしていて、真っ赤な判を押されたパピルス紙を見せつけられた。己の犯した罪だと述べられながら、イヴはなにも言えずに立ちつくしていた。手首に錠がかけられる。すぐさまに彼は拘束され、ブラックマリアに乗せられた。郊外を抜けて監獄へと向かうブラックマリアの中は、とても静かで薄暗かった。これからのことなんて考えるだけ無駄で、ただ頓挫させられたような嫌な気分だけは、どうしても拭えなかった。
 イヴは尋ねた。俺の相棒はどうなっている、と。乗り合わせていたアンプロワイエが低く答える。お前の所在と引き換えに無罪放免となった、と。
 目を丸くするイヴに、アンプロワイエの一人が淡々と続ける。これから知りたがりの“イヴ”は、ノドロン城塞監獄で百六十年の懲役に服する。イヴの相棒は同じその百六十年を、囚人としてではなく国の犬として生きることを誓ったのだという。
 相棒の裏切りを、イヴも最初は信じられなかったけれど、次第に、思いあたる節がなかったわけではないことに気づく。あんなにも楽しく探求し、語らった日々の中にも、憂いの横顔や強張る眼差しはあった。同志と思った相手にも、葛藤や不安はあるように見えた。それでも、最後は己と共にあるのだと信じていただけで。それこそが、隔絶だった。
 もうきっと誰も己の隣には立ってくれないのだろうと、イヴは思った。
 たった彼ひとりの欲した真実は、腐っていくだけのはずだったのだ。
 今日、この日までは。
――― 真実を国民に公表するだって?」先導するオズワルドの背中にイヴは問う。「どうやって? せっかくあの監獄から逃げおおせたんだから、下手なことはしないほうがいい。追手のアンプロワイエも撒けた。どこへなりとて隠れていれば、二度と捕まることもない」
「なりとてってなに?」オズワルドは首を傾げる。「なんだかまぬけなことわざみたいね」
「せめて教えてほしいんだけど、お前はどこへ向かってるんだ」
「そういう意味の言葉なの?」
「お前への質問だ」
「エグラディオ新聞社」
 イヴも聞き馴染みのある新聞社だった。国営から民営した新聞社であり、日刊新聞を発行していた。一年ほど前から休刊だか廃刊だかになっているが、エグラドに轟く情報媒体の一つだった。
「……新聞をばら撒いてやろうってことか」
 それが、オズワルドの失楽園計画。
 編集も印刷もすべて自社でおこなっているエグラディオ新聞社は、本社そのものが作業工場だった。刷版、版胴も作れれば、輪転機も折り機も完備してある。イヴの知りえた真実を公表するには持ってこいだった。
 二人は新聞社に到着する。大きなビルのまるまる一棟がエグラディオ新聞社だった。すず色の煉瓦の壁を木蔦による緑のヴェールが覆っている。手入れのなされていないのが見てとれた。社員らしい人気ひとけもなく、建物自体にはすんなり入ることができたけれど、警備員と清掃員は稼働していた。
 こんなところで見つかってしまっては大変だ。不法侵入により捕縛。脱獄囚だとばれてしまえば監獄へ逆戻りである。
 しかし、そんなイヴの懸念をよそに、オズワルドはいとも容易く、警備員や清掃員の目を掻い潜っていった。
 壁の凹みや扉の影を利用し、彼らの死角を通りながら、巡回をやりすごしたのだった。途中、館内図を見つけたので、イヴは一目見て、現在地と目的地、それに順ずる道くらいは頭に入れたが、オズワルドは一瞥もしなかった。だというのに、イヴの先を歩くオズワルドの足取りに迷いはない。
 オズワルドはある部屋の前で足を止めた。扉を開けようとするが、ガチャンと音を立ててノブが震えるだけで開かない。鍵がかかっているのだ。
 そりゃあそうだろうな、とイヴは肩を落とす。
 すると、オズワルドは隣の観葉植物のプランターの前でしゃがみこみ、それをずりずりと回転させる。プランターを少し傾け、水溜め場に沈んであるものを拾いあげた。鮫皮のストラップのついた鍵だった。オズワルドはそれを鍵穴に差しこんで回す。心地好い金属音を立てて、容易に回転した。鍵穴から鍵を抜き取ってから、またノブに手をかける。今度は当然のように扉が開いた。
「お前、ここに詳しすぎないか?」
「あたしって詳しいの?」
「俺に聞かれても」
「あたしのお父さんの会社だからかな」
「へえ、お前の父親はここに勤めてたのか」
 もしかしたら、何度か父親の仕事場として見に来たことがあるのかもしれない、とイヴは納得した。
 入った部屋は、新聞社らしいインクや紙の匂いが立ちこめていた。薄暗くてよく見えないが、デスクは整理されている。活版印刷に詳しいわけではないが、ある程度の知識はイヴにもあった。必要な機材はこの建物内に揃っているように見えた。
 イヴは口を開く。
「さっきの話に戻るけど」
「あのまぬけなことわざのこと?」
「あれはことわざじゃないし、そのことでもない。お前がここに詳しいことだ」
「あたしって詳しいの?」
「詳しいと思うことにした。でも、機械の扱いかたはわかるのか?」
「たぶん」
 たぶんかあ、とイヴは思った。そもそも給紙は足りているのかとか、インクは揃っているのかとか、稼働音でばれるんじゃないかとか、思うところはたくさんあった。
「リスクが高すぎる」
「買えないくらい?」
「リスクはわざわざ買ったりしない」
「つまり、イヴは買いたくないって言いたいのね」
「全然言ってないけど意外とそうだ」イヴは続ける。「俺はお前に恩を売ったわけじゃないから、お前も買ったり返そうとしたりしなくていいんだ」
「あたし、なんにも買ってないし返さないよ? みんなに知らせるだけ」
「……知らなければよかったと、恨まれても困る」
「でも、イヴは知ってほしいんじゃないの?」オズワルドは部屋の奥の棚を漁りながら尋ねた。「あたしもね、本当のことを知ってほしいって、ずっと思ってた。あたしはイヴの理解者にも同志にも友達にもなれないけど、わかるわ。ほらね。いよいよ運命だって、思うしかなくなったでしょう?」
 そう、あどけなく物を言う少女に、なにも知らず、なにも考えていないのだろうと、イヴは思った。けれど、そんな娘を、イヴは言いくるめることができない。それは、彼女の言うことが、まったくの的外れでないからだった。
 イヴはようやっと口を開く。
「……どうしてお前は、あのとき、」
「どのとき?」
「亜終点で会ったときの俺の問いかけに、」
「ああ、あのなぞなぞ」
「銀貨ではなく、林檎を選んだんだ?」
「貴方がそっちを選んでほしそうに見えたから」
 心臓を掴まれたような心地がして、イヴは強く息を止めた。そして、永遠と紛う一呼吸ひとこきゅうののち、力なく肩を落とす。こんなにも侮っていた少女に、はじめから見透かされていたのだと、イヴは認めた。
「……そうだな」イヴは頷く。「伝えよう。この国がずっと秘密にしてきたことを」
 言うが早いか、棚を漁っているオズワルドの隣にイヴが並んだ。活版印刷に使う活字とインテルを選別し、記事の原稿を綴っていく。
「でもね、イヴ。一つなぞなぞがあるのよ」
「なぞなぞ?」
「刷り終わった新聞を、どうやってばらまいたらいいのかしら」
「問題だな」イヴは続ける。「だが、考えはある。そしてそれは答えだ」
「なあに?」
 イヴはポケットからライターを取りだした。ライターの側面についていた歯車を回すと、口角を吊り上げ、「夜が明ければ、鯨が空を飛んでいる」と囁いた。



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