#01 林檎と銀貨 6/6



――― そして、集団失楽園の来たる朝。
 肌寒い六時の空は掃かれたかのような快晴で、一年を通して降水量の多いエグラドには珍しいことだった。徹夜明けの二人のには痛いくらいに眩しい青と白。紛れて、生温い風に流れるように、風船の群れが泳いでいた。
 二人は新聞社の屋上に出る。イヴはライターを確認してから、オズワルドに持っていたゴーグルを渡した。オズワルドは受け取ったゴーグルを装着し、空を仰ぐ。その瞬間に、歓喜と驚嘆の声をあげた。
「うっ、わあぁああぁ……!」
 空と街並みしか映していなかったオズワルドの瞳に、一瞬で飛びこんできた幻影のような迫力。圧倒的な存在感は視界を埋めつくすほどだった。それはあまりに巨大で重厚な、大機械の舟。その大きなプロペラの羽ばたきで、エグラドの風は吹いているのだと、オズワルドは思った。この舟こそが、エグラドの誇る、しかし表向きには一切知られていない、光学迷彩で可視化を防いでいる、無色透明の脅威と世界から恐れられる飛行戦艦――― 《Merkabah》。
「すごい」
「すごいな」
「これは空飛ぶ鯨ね」オズワルドは呆然と眺めながら問いかける。「誰が操縦してるの?」
「無人だ。全自動でエグラド上空を飛び回り、警護している。その特殊なゴーグルを装着することでしか視覚認知できない」
 オズワルドは装着していたゴーグルをひょいひょいとずらして、目に見えたり見えなかったりする不可思議を体感していた。その横顔を一瞥し、イヴは小さく微笑む。
 その巨大な姿を見たとき、イヴも感嘆したものだ。そして、同時に、こんなものに己の行動を監視されつづけていたことに戦慄した。いまもなお、この戦艦をエグラドの民は知らず、ただただ暢気に街を歩いている。その不気味さに鳥肌が立ち、嫌悪したのだ。
「この空飛ぶ鯨が、イヴのくすねた、、、、もの?」
「ああ」イヴはポケットからライターを取りだした。「《Merkabah》のコントロール権を盗んでやった。ただし、このことはアンプロワイエや女王政府も知らないから、罰は当たってない」
 もはや戦艦の操舵は女王政府の手中にはなかった。他国への牽制のための攻撃体制さえイヴはすでに解いている。まさに、誰にも見えないことをいいことに、ただ空を泳ぐだけのハリボテ。いまの《Merkabah》は、ただ気ままに空を漕ぎだす、櫂のない舟と化していた。
 ゴーグルをつけていないイヴは、握っていたライターの歯車と針の位置で、《Merkabah》の正確な位置を把握する。ちょうどこの頭上にあることが確認できたので、カチリと火をつけた。
 手に持つライターのフリント部分が、遠隔制御をおこなう信号装置になっているのだ。イヴはリズミカルに点火を繰り返すことで、戦艦のへモールス信号を送った。受信した戦艦からするすると縄梯子が下りてくる。
 二人はそこからデッキまで登りつめ、印刷を終えた新聞を搬入していった。
 ビル風と飛行船の風圧で乱れた空気が砂塵を舞い上げる。吹きすさぶ風により、オズワルドの長い黒髪は、激しく靡いていた。地上から遠く離れたその高度には全身を下から貫くような恐怖がある。ビリビリと手足からなにかが抜けていくような感覚に、イヴは冷や汗を掻く。太陽の眩しさに目が焦げる。イヴがゴーグルを外した彼女を見遣ると、その黒い目はまっすぐに己を見ていた。待っているのだと、イヴにはわかった。だから、一つ息をついて、しかと告げる。
「やろう」
 オズワルドは首元まで下ろしていたゴーグルを、指でくいっと持ちあげて装着する。
 オズワルドに貸したおかげで、イヴはゴーグルなしでデッキに出る羽目になった。船内はゴーグルがなくとも映じるのだが、光学迷彩により戦艦の表面はまるっきり透けている。イヴは手足の血の気が引いていた。ひとたびデッキへと踏みだせば、宙に浮いているような感覚がして、目眩で死にそうになった。けれど、心臓は止まるどころか、熱く脈動している。恐怖心よりも高揚のほうが勝っていた。そして、二人は、ついにそのときを迎える。

 積んでいた紙の束を引っ掴み、大空へと撒き散らした。

 はらはらと吹雪ふぶさまは、まるで花びらのようだった。時間が足りなかったので記事は用紙一枚分しかなかったのだ。あまりにも薄っぺらな紙が宙を踊り地上へ降り注ぐ。けれど、それは、この世界の真実を語ったものだった。エグラドの外にも世界があることを謳った、世界の真実を叫んだシャワーだ。
 上空からでは地上の声は聞こえなかったけれど、人々はなにもないところから突然降ってきた“号外”に驚愕しているようだった。どれだけの人数がこの真実を信じてくれるのかもわからない。けれど、イヴは満ち足りていた。もう一度大きく振りかぶり、紙の束を空へ撒く。
「ねえねえ、イヴ!」振り返りもせずにオズワルドは叫ぶ。「もっと写真も載せればよかったかも! 文字ばっかりでつまんない気がする!」
「それより確認不足がひどいだろ! さっき見たら、誤植だらけだった!」
「あと、この鯨はどこに向かってるの!」
「コースからしてマクブリッジのほうだ!」
「エグラドじゅうに撒きたいんだけど!」
「この枚数じゃ無理だ!」
 五十部ほどを一気に投下したオズワルド。バサバサと羽ばたくように落ちていく真っ白い吹雪は、日の光を浴びて、きらきらと輝いていた。
「イヴ、見て!」
 イヴはオズワルドへと目を向ける。ひらひらと輝きながら落ちていく空と紙の狭間で、オズワルドは両手を広げた。
「そして、知恵は地上に現れ、人々のなかに住んだのでした!」
 たった彼ひとりの欲した真実が、弾けるように広がっていく。
 全身が震えるほどに目覚ましい光景だった。
 彼は、およそ丸々一個の林檎が買えるだけの銀貨よりも、芯だけの林檎のほうが、よっぽど価値があると考える人間だった。そうして、あるがままの真実を望んだ彼だったが、共感してくれたはずの同志に裏切られた失望感から、二度と仲間など作らないと誓っていた。それがどういうわけか、林檎が欲しいと答えた少女と共に、自分はこんなにも笑っている。心臓の奥底で呼び覚まされる、歌いだしたいほどのユーフォリア。
 ゆっくりとした足取りで、イヴはオズワルドへと近づいた。その横顔を見つめると、オズワルドもイヴを見つめ返した。昨日と全く同じ調子で「綺麗な青色ね」と囁く。まさかこんな暢気な少女が、いまこの瞬間の隣に立っている相手だとは。それがとてつもなくおかしくて、イヴは苦笑の声で喉を震わせた。
 ノドロン城塞監獄のダストシュートを抜け、亜終点に辿りつき、やっと出会って、今ここにいる、イヴとオズワルド。
「……運命だと思っても、いいのかもしれない」
 イヴの口をいてでた言葉に、オズワルドは目をぱちくりとさせ、首を傾げる。イヴは弾んだ声で、オズワルドへと告げる。
「オズワルド、俺と仲間になろう」
「ナマコ?」訝しげな目を向けてオズワルドは続けた。「あたし、ナマコって嫌いよ」
「違う。仲間だ」
 そう返すイヴの顔は、きらめく風に拭われたような清々しいものだった。その青い虹彩はまるで燃えているようだとオズワルドは思った。イヴは、こんなに素晴らしい思いつきは他にないだろうという調子で語りかける。
「そして、仲間探しをしよう。この国には俺たちみたいなやつがきっとまだいるはずだから、そいつらを片っ端から見つけだして」イヴは続ける。「俺たちは一緒に生きていくんだ」
 それは運命の出会いの延長線。
 互いに本当の名など知らず、どころか、罪人の烙印を押された身の上だ。
 けれど、彼にとってはそれでよかった。
 二人なら二人をわかりあえるかもしれないと思った。
 オズワルドはぱちぱちと目を瞬かせる。靡く髪が睫毛に絡まるのを指で梳いたのち、はにかむように笑って、頷いた。
「素敵だわ」
 肯定の返事だった。
 イヴはそれに満足して、まばゆい朝日へと顔を向ける。しばらく空を眺めていたけれど、空を漂う風船を視界に認め、「……そういえば、」と再び口を開く。
「昨日、お前の気にしていた風船だけど、あれはバルーン葬という葬儀の一種だ。遺灰を風船に入れて空に漂わせる。割れた風船から遺灰は撒かれ、俺たちは知らないあいだに、それを浴びているかもしれないんだ……どう? 知らなければよかった?」
「風船ってなんのことだっけ?」
 イヴは笑った。このばかな娘と話していると、もう、気にしていた自分まで馬鹿みたいだった。その歯痒さを、素晴らしいと感じていることさえ、馬鹿みたいだった。



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