#01 林檎と銀貨 4/6



 ここはエグラド、蒸気の国――― そのありさまに彼が違和感を抱きはじめたのは、もうずいぶんと昔の話だ。
 彼は幼いころより殻に覆われた細胞の類に心惹かれる人間だった。あるときは空の彼方の超越性や、またあるときは地底に潜む神秘にすら興味を覚えた。好奇心の赴くまま、全てを知ろうとした。そして、ある日、己が世界だと認識していたもののあちこちが、ひどく破綻していることに気がついた。
「何故、エグラドの外に国はない、、、、、、、、、、、んだ? 学問は発展し、この世界が天体であることも、人類には臓器があることも知っているのに、どうして海の外への見識は神話時代のままなんだ? エグラドの民にとっては、エグラドは世界そのものだ。外に世界が広がっているなんて誰も思わない」
「海の外にも世界があるの?」
「エグラドと同じような国土が、別個の言語、別個の人種、別個の文化を持って存在する。たとえば、お前が今日食べたグラタンなんかがそう。あれは海の向こうのフラネクの料理」
「海の外のものがどうしてここにあるのかしら」
「元々は国交があったんだ。物にしろ概念にしろ、馴染みすぎた文化を完全に断つのは難しい。エグラドの主言語とは違った文法の言葉も、俺たちは口にしている。でも知らない。知らないことすら理解していない。外の世界なんて教わらないし、外に世界があるとも思ない。思わせないように、偽造されている」
「誰に?」
「国に」イヴは続ける。「俺はそれを知って、罪人として収監された」
 すっかり逃げ疲れてしまった二人は、月明かりの差す路地の、小さなインク屋の壁面を背に、隣りあわせて座りこんでいる。イヴはライターのキャップを開けたり閉めたりと手遊てずさんでいた。路地でカチカチと金属の音が鳴り響く。二人を淡く照らす月は、円周率に則った美しい円形で、子供に聞かせるおとぎ話を語るにふさわしい夜だ。イヴは吟遊詩人のように、淀みなく言葉を並べつづける。
「間違っても真実を知りえることのないように、エグラドは国民を監視している。そして、不穏分子は取り除く。エグラドからしてみれば、俺は国家機密を暴こうとした、国家転覆犯だったらしい」
「監視って、どうやって?」
「飛行戦艦」
「ひこうせんかん?」
「《Merkabah》」ライターを持っているほうの手で空を指差す。「この国の上空を警護している装甲飛行船だ」
 オズワルドは夜空を見上げる。そこには飛行船どころか、気球一艘さえ見えなかった。首を傾げながら再び己を見つめるオズワルドに、イヴは答えた。
「光学迷彩の装甲で可視化を防いでいるんだよ。エグラド国民にも他の国にもな。また、エグラド国民の監視だけでなく、干渉を目論む他国への牽制も果たしている。脅威的なレーザー速射砲がおぞましいほどくっついていて、下手に近づくと木っ端微塵にされるんだ。そうやって他国を威嚇しながらエグラドの上空を規則的に飛び回るようにプログラミングされてある」
「光学迷彩? レーザー? プログラミング?」
「どちらもこの国にはない技術だ」イヴは一拍置いて言葉を続けた。「正確には、ないことになっている、、、、、、、、、、技術だ」
 それは保守党の陰謀か、司法の横暴か、もしくは女王の独裁か。国は道化そのもので、戯画的な倒錯そのものだ。彼からしてみれば、この国の形態はスペキュレイティブ・フィクションを極め、時代錯誤な状態が不和もなく続く真鍮の檻の中にいるに等しい。
「俺はこの世界の真実を知りたかった」
 抱いた不和を無邪気に呑みこむには、彼は国民として聡すぎた。隠されることも偽られることも我慢ならなくて、なんの不純も矛盾もない、あるがままのを知りたかった。幸い、彼にはそれを知るだけの才覚があった。そうして辿りついた禁断の果実は、この世界の真実。
「ここは箱庭の楽園、閉鎖国土・エグラド、常軌を逸した国だ」
 イヴはオズワルドを見遣った。彼女のぼんやりとした表情から、浮世離れした話をしてしまったと悟った。彼女からしてみれば理解できないことばかりだろうし、話の全てを信じているとはイヴも思っていない。いっそ、なにを言っているんだこの男は、と一種の軽蔑をしている恐れだってあった。
 けれど、オズワルドはあやふやな顔をみるみるうちに笑み崩して、まるで今日はこれでおしまいとお預けを食らった子供のように、「もっと聞かせて」とイヴにねだった。一瞬呆気に取られるも、イヴはゆっくりと苦笑して、「信じるとは思わなかった」と呟いた。
「お前には、こんなの、突拍子もないだろう」
「物語みたいであたしは好きよ」
「信じてないじゃないかそれ」
「信じるわ。だって、信じてくれないのって寂しいでしょう?」オズワルドは続ける。「イヴが真実の実に手を出したとしたら、あたしには実が無かったの」
「創世神話は、知恵の実じゃなかったっけ」
「それを食べたから、イヴは賢いのね」
「お前は濡れ衣を着せられたってことか?」
 無実の罪。そのよわいには余りある不幸が凄絶で、イヴは内心でおののいた。けれど、おそらくそれはただの不幸ではないのだろうとも思われた。イヴは、この国やあの監獄がどういうものであるかを、どれだけいびつに狂っているかを、誰よりも理解している。だからイヴは詮索しなかった。
「それで、ダストシュートに?」
「噂で聞いたの」
「たしかに囁かれていた。ノドロン城塞監獄の囚人の最期にして唯一の救い、死神との逢瀬への直行便……あれは、各牢に取りつけられた、ていのいい自殺用コックピットだ。一度落ちれば細断機にかけられ、灼熱に焼かれ、骨となって終点へと辿りつく」
「生きて出られるなんて思わなかったけど」
 初めてイヴと出会ったとき、あの終点を地獄だと、イヴを死神だと評した少女は、その物言いそのままに、一度は死を選んだのだ。実際、あの場に折り重なっていた骨のように、少女もイヴもなるはずだった。
「捕まる前に、ちょっと細工しておいたから」
「んま。イヴがやったの?」
「せっかく国の秘密も、それを牛耳ぎゅうじる組織も、その仕組みも理解したんだ。ちょっとくらい、いじくったりくすねたりしても、罰は当たらない」
「与えられてるじゃない、罰を」
「おかげさまで」
「だけど、だとしたら、イヴはあたしの命の恩人だね」オズワルドは明るく続ける。「運命の出会いだわ」
 オズワルドの言葉に、イヴは「運命か」と目を瞑って薄く笑った。その反応にオズワルドは眉を顰め、「運命だって思ってよ」と訴えた。
「運命は信じない。運命共同体とかいう言葉も、俺はもう信じていない」イヴは少しだけ俯いた。「昔、同志がいたんだ。あいつと一緒に、この世界の秘密を知ろうとした。でも、あいつは俺を裏切った。俺を売り、女王と政府の犬に成り下がったんだ」
「人間なのに?」
「アンプロワイエ」本気で驚いているオズワルドに、イヴは苦笑まじりに返した。「ノドロン城塞監獄の看守さ。囚人の収監や監督をする、女王政府と司法の犬。俺たちを追ってきた人間もアンプロワイエだろうな」
「本当の犬も追いかけてきたわ。犬ばっかりだね」
 かつての相棒がどんな思いで決別を選んだのかは、イヴにはいまだにわからない。怖くなったのか、飽きられたのか。真実なんて知りたくなかったと、恨まれたのか。かつての相棒の真意を知らぬまま、罪人として、知りたがりの“イヴ”という烙印を押された。
「……運命とはわかつものだ。だから、この出会いだって運命じゃないさ」イヴは続ける。「たしかにお前は、この世界の真実だって、もう知っているけど、理解者にはなってくれない。この頭の悪いナンセンスを俺と同じように毛嫌って、心から共感できる同志には、絶対になれない」
「んま。イヴって友達いないでしょ」
「そんなふうに見える?」
「そんなふうに言うからよ」
「しかたない。女王政府も国民も別なく、この国の人間はみんな馬鹿なんだ」
「やあね、これだから唯我独尊のひとってきらい」
「その言葉の意味、ちゃんと理解してるのか?」
「知ってる。独りぼっちで偉そうにしてるひとのことでしょ?」
 オズワルドの言葉に、イヴは浅く目を閉じた。こたえていると自覚できて、なんて無様なんだろうと彼は自嘲する。
「そうか……やっぱり俺は、ただの偉そうなやつだったのか」眉を下げるように笑って、肩を落とす。「こんなところまでただ一人で突っ走っちゃっただけのやつだったのか。なんだか最低な気分だ。お前と出会えたときは、俺と同じ考えの人間を見つけられたと思ったのに、今はちょっと苛立ってきてる。お前は他人をそういう気持ちにさせやすいって気づいたほうがいい」
「あ、唯我独尊の次は責任転嫁」
 指を差して責める彼女に、イヴは首を傾げて、「そっちの意味も、ちゃんとわかってる?」と子供を相手にするような口調で尋ねる。
「わかってるって」オズワルドは急に立ち上がり、見下ろしながらに笑って見せた。「ここはあたしに任せなさいってことでしょ?」
 イヴは「は?」と呆気にとられる。この頭のわるそうな少女の言葉が、少しも理解できなかったのだ。オズワルドはイヴの目の前へと回りこみ、スカートを押さえ、その場でしゃがみこむ。彼女のなによりも透き通った漆黒の瞳は、彼の真っ青な瞳を射抜いていた。
「独りぼっちで偉そうにしてるイヴのために、みんなで別なく馬鹿してたあたしが、責任転嫁につきあってあげる」恩返しだとでも言いたげに、オズワルドは告げた。「喜んで。どうやらあたしは、貴方を助けるつもりだよ」
 さて。彼は、およそ丸々一個の林檎が買えるだけの銀貨よりも、すっかり実のなくなってしまった芯だけの林檎のほうが、よっぽど価値があると考える人間だった。畢竟ひっきょう、求めるのは核心だ。そうして、あるがままの真実を望んだ彼だったが、共感してくれたはずの同志に裏切られた失望感から、二度と仲間など作らないと誓っていた。
「みんなにも真実の実を食べさせてあげれば、みんなで偉いと思わない?」
 それがどういうわけか、 “林檎が欲しい”と答えた少女が、目の前で無邪気に笑っている。イヴはただ呆けていた。こんなにも瞭然なのに、彼は、まだ気づいていないのだ。運命が大きく変わったことに。
 それは、たぶらかすことに長けた少女の、極上の誘い文句だった。
「失楽園、しちゃお」



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